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鳥類保護と瑞祥

(元康三年)夏六月、詔曰「前年夏、神爵集雍。今春、五色鳥以萬數飛過屬縣、翺翔而舞、欲集未下。其令三輔毋得以春夏擿巢探卵、彈射飛鳥。具為令。」
(『漢書』巻八、宣帝紀、元康三年)

(元康四年)三月、詔曰「乃者神爵五采以萬數集長樂・未央・北宮・高寝・甘泉泰畤殿中及上林苑。朕之不逮、寡于徳厚、屢獲嘉祥、非朕之任。其賜天下吏爵二級、民一級、女子百戸牛酒。加賜三老孝弟力田帛人二匹、鰥寡孤獨各一匹。」
(『漢書』巻八、宣帝紀、元康四年)


漢の宣帝の時、首都圏(三輔)近辺にカラフルなインコが大量発生したといい、それを瑞祥とみなした漢王朝では首都圏での鳥の卵探しやダックハントを禁止したという。



その翌年、インコは宮殿周辺にまで大量に飛来したという。




これ、鳥を取ることを禁じたために鳥が減少する要素が無くなり、これまで以上に鳥が大量発生した、っていうメカニズムだったのでは・・・?


つまり自然環境と鳥類の生態を利用し、人為的、かつ戦略的に作られた瑞祥だったのかもしれない・・・。

ひとこと(二重弱点)

前漢成帝の寵愛を受けた女性のうち、許皇后、班倢伃、中宮史曹宮は学問が特筆されている。


どうやらインテリ女性が好みだったらしい。



一方で衛倢伃(侍者李平)や趙飛燕(生まれても育てられないところだった)などはあまり良い家柄ではないと思われる。


身分の低い女性も好みだったのかもしれない。




こうしてみると成帝は女性の好みがはっきりしている。



身分が低くてインテリという曹宮は成帝の二重弱点になっていたのではなかろうか。

官婢の娘

後數月、司隸解光奏言、臣聞許美人及故中宮史曹宮皆御幸孝成皇帝、産子、子隠不見
臣遣從事掾業・史望驗問知状者掖庭獄丞籍武、故中黃門王舜・呉恭・靳嚴、官婢曹曉・道房・張棄、故趙昭儀御者于客子・王偏・臧兼等、皆曰宮即曉子女、前屬中宮、為學事史、通詩、授皇后
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成趙皇后)


前漢成帝の子を産んだとされる中宮史曹宮は、官婢曹曉の娘なのだという。


官婢の娘が学問に通じ、皇后の家庭教師となっていたが、皇帝の目に留まって皇子を産んだということらしい。成帝には皇子がいなかったので、その子は生き残っていたら後継ぎになったかもしれない。



彼女にはなかなかドラマを感じさせる経歴がありそうだ。詳細が分からないのが残念。


娘の教育がいきとどいていたらしいところからすると、犯罪か連座のために官婢にされただけで、本来この曹氏はいいところの家の出だったのかもしれない。


あるいは、宮中に生まれ育ったおかげで高等教育を受ける機会に恵まれたか。

ふたりの趙氏

新成侯(趙)欽
綏和二年五月壬辰、以太后封、一年、建平元年、坐弟昭儀絶繼嗣、免、徙遼西。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表、新成侯趙欽)


前漢の成帝の皇后、いわゆる趙飛燕と、その妹の趙昭儀。


『飛燕外伝』ではこの二人は双子とされている。



だが、上記『漢書外戚恩沢侯表からすると、「皇太后=趙飛燕」の弟趙欽は列侯となったが、弟(妹)の趙昭儀が生まれたばかりの皇子を殺していた、という大事件のために列侯を剥奪されて配流された、という。



つまり、兄弟順は「飛燕→欽→昭儀」ということになる。



趙飛燕と趙昭儀は双子とは考えられない、ということである。