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蟹工船は日本で発明され実用化された船で1916年(大正5年)に和嶋貞二が商業化した。 夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。 1926年(大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』(斎藤充功)において、白鳥由栄(1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。漁夫雑夫でも米1日八合が支給され、食事量は陸上よりも多く、幹部は乾燥鶏卵やハムなどが食べられ、当時としては食事はよかった。

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  • 蟹工船は日本で発明され実用化された船で1916年(大正5年)に和嶋貞二が商業化した。 夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。 1926年(大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』(斎藤充功)において、白鳥由栄(1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。漁夫雑夫でも米1日八合が支給され、食事量は陸上よりも多く、幹部は乾燥鶏卵やハムなどが食べられ、当時としては食事はよかった。 小説発表後も1930年(昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事件も起きている。1930年9月19日の出漁中、漁夫に20時間労働を強制し、死者十数人を出した蟹工船エトロフ丸が函館に入港し、首謀者が検挙された。 高い給料を貰える代わりに睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、ストレスや過労により精神がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められていた。 蟹工船形式の操業は戦時中の中断期間が14年あり昭和28年から再開している、1970年代、200カイリ経済水域の設定による北洋漁業廃止まで行われていた。 漁業の許可に関しては大正12年3月13日農商務省令第5号工船蟹漁業取締規則による規制を受ける許可制であった。昭和9年からは農林省令第19号母船式漁業取締規則の適用を受け、戦後は蟹工船が再開される直前に出された昭和27年農林省令第30号母船式漁業取締規則の適用を受けた。これらの法規は漁業許可に関する物で労働環境については何も定めていない。 戦後に労働基準法が出来た後も蟹工船の労働者は労働基準法第41条第1号の労働時間・休憩・休日規定の適用が除外される労働者として扱われ、労働基準法の適用を受けられるようになるには昭和43年運輸省令第四十九号「指定漁船に乗り組む海員の労働時間及び休日に関する省令」まで待たなければならなず、蟹工船の労働者は終焉直前まで工場法の適用を受ける工員でもなければ船員法の適用を受ける船員でもなく労働基準法の適用を受けない漁師として扱われていた。 (ja)
  • 蟹工船は日本で発明され実用化された船で1916年(大正5年)に和嶋貞二が商業化した。 夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。 1926年(大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』(斎藤充功)において、白鳥由栄(1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。漁夫雑夫でも米1日八合が支給され、食事量は陸上よりも多く、幹部は乾燥鶏卵やハムなどが食べられ、当時としては食事はよかった。 小説発表後も1930年(昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事件も起きている。1930年9月19日の出漁中、漁夫に20時間労働を強制し、死者十数人を出した蟹工船エトロフ丸が函館に入港し、首謀者が検挙された。 高い給料を貰える代わりに睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、ストレスや過労により精神がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められていた。 蟹工船形式の操業は戦時中の中断期間が14年あり昭和28年から再開している、1970年代、200カイリ経済水域の設定による北洋漁業廃止まで行われていた。 漁業の許可に関しては大正12年3月13日農商務省令第5号工船蟹漁業取締規則による規制を受ける許可制であった。昭和9年からは農林省令第19号母船式漁業取締規則の適用を受け、戦後は蟹工船が再開される直前に出された昭和27年農林省令第30号母船式漁業取締規則の適用を受けた。これらの法規は漁業許可に関する物で労働環境については何も定めていない。 戦後に労働基準法が出来た後も蟹工船の労働者は労働基準法第41条第1号の労働時間・休憩・休日規定の適用が除外される労働者として扱われ、労働基準法の適用を受けられるようになるには昭和43年運輸省令第四十九号「指定漁船に乗り組む海員の労働時間及び休日に関する省令」まで待たなければならなず、蟹工船の労働者は終焉直前まで工場法の適用を受ける工員でもなければ船員法の適用を受ける船員でもなく労働基準法の適用を受けない漁師として扱われていた。 (ja)
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