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若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻裏町の米問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船である。1793年(寛政5年)に石巻から出帆したが、舵の損傷で操船不能におちいり、1794年(寛政6年)にアリューシャン列島へ漂着した。この船の乗組員16名のうち、津太夫、左平、太十郎、儀兵衛は世界を一周する形で1804年(文化元年)に日本への帰国を果たした。この世界一周は日本人としては初めての事例である。また、善六はロシアに帰化し、後に日本とロシアの交渉において通訳となった。

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  • 若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻裏町の米問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船である。1793年(寛政5年)に石巻から出帆したが、舵の損傷で操船不能におちいり、1794年(寛政6年)にアリューシャン列島へ漂着した。この船の乗組員16名のうち、津太夫、左平、太十郎、儀兵衛は世界を一周する形で1804年(文化元年)に日本への帰国を果たした。この世界一周は日本人としては初めての事例である。また、善六はロシアに帰化し、後に日本とロシアの交渉において通訳となった。 (ja)
  • 若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻裏町の米問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船である。1793年(寛政5年)に石巻から出帆したが、舵の損傷で操船不能におちいり、1794年(寛政6年)にアリューシャン列島へ漂着した。この船の乗組員16名のうち、津太夫、左平、太十郎、儀兵衛は世界を一周する形で1804年(文化元年)に日本への帰国を果たした。この世界一周は日本人としては初めての事例である。また、善六はロシアに帰化し、後に日本とロシアの交渉において通訳となった。 (ja)
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  • 日本人初の世界一周 津太夫の世界一周記 (ja)
  • マゲ着けて 江戸行くつもりが 世界一周 (ja)
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  • 若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻裏町の米問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船である。1793年(寛政5年)に石巻から出帆したが、舵の損傷で操船不能におちいり、1794年(寛政6年)にアリューシャン列島へ漂着した。この船の乗組員16名のうち、津太夫、左平、太十郎、儀兵衛は世界を一周する形で1804年(文化元年)に日本への帰国を果たした。この世界一周は日本人としては初めての事例である。また、善六はロシアに帰化し、後に日本とロシアの交渉において通訳となった。 (ja)
  • 若宮丸(わかみやまる)は、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻裏町の米問屋米沢屋平之丞の持ち船で、24反帆、800石積みの千石船である。1793年(寛政5年)に石巻から出帆したが、舵の損傷で操船不能におちいり、1794年(寛政6年)にアリューシャン列島へ漂着した。この船の乗組員16名のうち、津太夫、左平、太十郎、儀兵衛は世界を一周する形で1804年(文化元年)に日本への帰国を果たした。この世界一周は日本人としては初めての事例である。また、善六はロシアに帰化し、後に日本とロシアの交渉において通訳となった。 (ja)
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  • 若宮丸 (ja)
  • 若宮丸 (ja)
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