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土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本。 土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻はの娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男、次男梶川頼照、長女(妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。 寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る。 慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭が田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した。 寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。

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  • 土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本。 土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻はの娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男、次男梶川頼照、長女(妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。 寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る。 慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭が田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した。 寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。 (ja)
  • 土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本。 土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻はの娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男、次男梶川頼照、長女(妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。 寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る。 慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭が田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した。 寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。 (ja)
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  • 土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本。 土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻はの娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男、次男梶川頼照、長女(妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。 寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る。 慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭が田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した。 寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。 (ja)
  • 土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本。 土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻はの娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男、次男梶川頼照、長女(妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。 寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る。 慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭が田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した。 寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。 (ja)
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