内容に踏み込みますので、未見の方はご注意ください。
近年の映画の長尺化については、膀胱的プレッシャーの面でいい加減にしろよと思っており、本作も3時間半超という上映時間を知っただけでキレそうになったのだが、この映画はその点素晴らしい。
どういうことかというと、この映画、『アラビアのロレンス』や『2001年宇宙の旅』や『ディア・ハンター』みたくインターミッションが入るんですね。3時間超の映画を劇場でやる場合、インターミッションを義務化してほしいと思ってしまう。
しかも、本作はインターミッション周りが素晴らしいのである。インターミッションが素晴らしいって、もちろん回りくどいけなしではない。
基本的にインターミッションって、映画の真ん中あたりでぽんと静止画に代わるだけだが、本作の場合、音声カットバック(という用語はないと思うが)が極まり、盛り上がり切ったところで自然とインターミッションに入る演出が素晴らしい。そして、インターミッション中に背景に写るものもちゃんと意味があり、しかもインターミッション中にかかる音楽にも工夫があり、徐々に音声が入っていき、また自然に後半に入るところが見事なのだ。
本作を観ていて仰天したのだが、それはワタシ自身の勘違いに起因している。
どういう勘違いか? 本作が実話を基にした映画だと思い込んでいたのだ。
ワタシはある映画を劇場に観に行くと決めたら、それに関する評や感想はなるだけ読まないようにして臨むようにしている(ブログなどは URL だけメモしておき、自分の感想を書いた後に読む)。
なので、本作について実話ベースと何かで勘違いしてしまっていたのだ。エイドリアン・ブロディが、本作と同じくホロコーストのサバイバーの主人公を演じた『戦場のピアニスト』からの連想もあったかな。
また今回、劇場入場時に「建築家ラースロー・トートの創造」と書かれた紙片をもらったのだが、それを見て、本作に製作過程が描かれるマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターが、やはり実在するものと事前の思い込みが強化されたところもある。また建築分野は門外漢なもので、ブルータリズムについてまったく知識がないのも一因だった。
あれ? と思ったのは、その紙片の一番最後にラースロー・トートのプロフィールが書かれているのだが、その写真がエイドリアン・ブロディで、普通、こういうのは本人の写真を使わないかと少し疑問に思ったが、そこで紙片をもう少し読み込み、一番下に「本書の内容は一部を除きすべて架空の内容です。」という一文があるのに気づいていたら話が違ったのだが。
ここまで長々とワタシ個人の勘違いについて書いたが、正直、実話ベースと思って観たほうが衝撃が大きいので、それ自体には後悔はない。
ハンガリーから逃げのびた主人公らがアメリカに到着して見上げる空に映る逆さまの自由の女神から始まり、単純なハッピーストーリーなわけはないが、アメリカで成功する移民一代記ものかと思っていたら、本作は主人公がアメリカに蹂躙され拒絶される物語であり、そしてアメリカを去り向かうのがイスラエルという、昨今の世界状況を考えると、なんとも言えない気持ちになる映画だった(エピローグでの主人公の姪のスピーチの終わり方の気持ちの良くなさもすごい)。
本作はある意味『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『TAR/ター』に近い感触がある映画だが、前述の勘違いのため、『悪は存在しない』級の唐突さに仰天してしまうのである。
本作は光と影の演出が印象的な映像だけでなく、音楽も素晴らしいのだが、エピローグにかかる曲は80年代の場面だからいいとして、エンドロールでかかる曲があれなのはどういう意図があったのだろう? 3時間半超の映画にしては低予算で実現された、しかし、とても見事な本作において、あれだけが疑問だった。