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芸術家は科学者なのだろうか

今年度から文科省の「研究不正行為ガイドライン」に基づいて、大学に所属する研究者はみな研究倫理教育を受けることになっている(受講しないと科研費の申請ができなかったりする)。うちの大学でも講演会の形式でおこなわれたので行ってきた。

講師は札野順氏。日本学術会議「科学者の行動規範」(2006年)の策定に関わった技術倫理の専門家である。

最初は「倫理教育なんてうぜえなあ」とヤンキーがダルい授業に出席する的なモードだったのだが予想外にお話が面白く、「へー」「なるほどー」とうなずきながら聞いていた。アメリカの研究倫理教育の現状や札野氏が実際に行ってきた倫理教育の授業の内容など大変に面白く、また倫理規程の二類型(「法令遵守型」と「価値共有型」)の対比などはほんまにそのとおり、と思った。簡単に言えば前者は性悪説システム、後者は性善説システムで、どの国でも前者に始まりだんだん後者に移行するけど日本は、とか。

最後の方は、本人もゆうてはったが自己啓発書みたいな「あなたにとって幸せって何ですか?」という話になったけど(笑)それはそれで面白かった。

ただ一つ気になったことがある。日本学術会議「科学者の行動規範」の策定過程についていろいろお話をうかがい興味深かったのだが、そこで「科学者」の定義について少し触れられた。

札野氏は「この規範における『科学者』とは、狭い意味での自然科学者だけでなく、知的能力や知的技能によって新しいものを生み出す全ての人々を念頭に置いています。人文社会科学者ももちろん含まれます」とおっしゃっていた。

研究倫理を制度として整備する人は必ずそういう。「これは理系だけでなく文系の研究者にも共通することです」という。しかし、巨額の研究費を取ってきてチームで特定の研究課題に取り組む多くの自然科学者の営みと、微々たる研究費で買った本を読みふけり個人で研究を進める人文学者の日常は、「同じ研究者」と言われても実際には多くの側面で異なる文化やルールや規範に則っている。

全ての研究者に共通する「研究倫理」が唱えられるとき、人文学者はしばしば「これはうちの業界にはぴったりとはフィットしないよなあ」と内心で思っている。それでも仕方ないので数十万円の研究費のために、自分たちを必ずしも中心的な対象としない「研究倫理」教育を受け、膨大な書類を書きハンコを押す毎日を送っている。

でも、相対的に属人性が強い知的活動を行っている人文学者には、異なった倫理規範とまでは言わないまでも、自然科学者が念頭におくのと違うところに重点をおいて自らの研究倫理を考えているのが実態ではないか。例えば自然科学者が「研究不正」と聞いてまず想定するのは捏造と改竄だが、人文学者にとって身近な研究不正はまずもって剽窃である。まあ対象とするテクストを改竄する不正もないではないが、引用論文やインタビューをでっち上げる捏造に手を染める人は少なかろう。

札野氏の「全ての研究者は科学者です」という話を聞きながら、私は前にいた教育大学のことを思い出していた。教育大には音楽科や美術科があり、実技教育を指導する教員がいる(もちろん彼らも論文を書くし論文も指導する)。彼らは「科学者」なのだろうか。「学術研究者」ではあると思うけど。そういった、「科学の周縁に存在しながら、知的能力や知的技能によって新しいことを生み出す人々」は科学者の研究倫理を共有することができるだろうか。「科学者の周縁の端っこの端っこの境界線ってあるのかなー」。そういったことをぼんやりと考えていた。

「日本学術会議」の英訳ってScience Council of Japanなんやな。学術をScienceとして考える人たち。私はその考えを否定することはないが、自分はそこではどっちつかずの周縁にいるのだなあといつも感じる。