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往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希を過ぎた暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

「大正13年 廣峰神社参詣旅費分配金」について ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ77

地区の古文書類の中に、別途会計から村民への分配金を記録した縦長の帳簿が何冊か綴じられています。
その中に、「大正拾参年 廣峰神社参詣旅費分配控 四月拾壱日」と題した綴りがありました。

伊勢参宮については、近年まで参詣者に対して地区会計より補助金が出ていたことは知っていましたが、姫路市にある広峯神社参詣補助金が、共有財産権をもつ全戸に分配されていたのは意外でした。
このときは、権利を有する131人の戸主に4円ずつ、それ以外の8人に2円ずつ、合計では540円が支出されています。
「大正5年以降 金銭出納簿 山國別途会計」の帳簿を見ると、前年度大正12年度末の残高は891円47銭でしたが、この分配金のために社信用組合の定期預金元金500円を払い戻し、利子40円45銭と合わせて原資としたと記録されています。
この頃の4円が今ではいくらぐらいの金額に相当するかについては、比較対象の品物などにより、なかなか難しいのですが、ここでは7~8千円程度としておきましょう。

(『姫路市の百年』より)

分配金をもらった全員が参詣した訳ではないでしょうが、それにしてもなぜ姫路の廣峰神社なのでしょうか。
その理由について、姫路市在住の後輩(元高校日本史教員)に聞いてみたところ、次のような回答がありました。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭天皇:ごずてんのう)をお祀りしており、いくさの神であるとともに農業の神、百姓の神として広く播磨地方一帯の信仰を集めていた。
②例年4月18日の祈穀祭(穂揃え祭)では、今年の稲の占い(早稲、中稲、晩稲のどれがよいか)の神託があった。
③各種のお札や、お守りがあり、特に田んぼの水口に挿す害虫除け、農耕の牛馬安全のお札が知られていた。
④伊勢参宮をした後に、必ず広峯神社に参詣する風習が大正時代まであった。

(大正時代の絵はがき、祈穀祭には何万という参拝者があったという
『むかしの西播磨 : 絵はがきに見る明治・大正・昭和初期』より)

③については、『兵庫史の研究 : 松岡秀夫傘寿記念論文集』(『松岡秀夫傘寿記念論文集』刊行会編、神戸新聞出版センター、1985年)にも次のように述べられています。
    

東播を初め播州路一帯では広峯神社の信仰が強く、神社から護符、木、砂をもらって帰り、それをシバに挿して祭るのが普通であった。護符と土とは神社から配布するムラもあり、田植えの前に参詣して、受けて帰るムラもある。(中略)
いずれにしても、田を清浄にするという信仰である。

(「農業の近代化と農耕儀礼の解体」)

④については、小栗栖健治「播磨の古社 廣峰神社:播磨学講義②」(『播磨学紀要第22号』播磨学研究所、2018年)に次のように記されています。

伊勢参宮との関係
播磨では伊勢参宮から戻ってくると、廣峰神社へ「御礼参り」をする、かつてはひろく見られた風習でした。伊勢外宮の豊受大神宮は農耕神、廣峰神社も農耕神、伊勢講でも農耕と結びついた行事を行う所があります。(中略)広峯神社では、こうした風習を「二度回り」と称していました。

伊勢参宮は近年まで続いていましたが、広峯神社については、近隣で聞いたことがありませんでした。
やはり、農業自体の変化に伴い、この風習もその後消滅したのでではないしょうか。

大正5年から(1916)から昭和10年(1935)別途会計の帳簿を見ても、広峯神社参拝への分配金が記載されているのは、この年度だけでした。
ちなみに、この大正13年という年は、大正年間最大の大干魃の年でもありました。

 

   これは余談ですが、参詣は日帰りだったのでしょうか。
社町から加古川加古川から姫路までは鉄道を利用したでしょうが、駅から廣峰山上までの距離を考えると、健脚者でも片道に5~6時間は要したのではないでしょうか。

 

「自警団が組織される(昭和21年会同日記)」 ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ76 

終戦の明くる年、昭和二十一年 (一九四六)といえば、元日の天皇による「人間宣言」に始まり、4月には衆議院選挙で初の女性議員の誕生、5月には極東軍事裁判東京裁判)の開廷、11月には憲法公布等々と、大混乱の世相の中、民主化に向けての最初の年でした。
また、インフレと食糧不足が深刻化する中、民主化生活防衛のための大衆運動・労働運動が高揚し、ソ連(当時)や満州中国東北部)など外地から数百万人が引き揚げ、農地改革によって小作農のほとんどが自作農となっていきました。
    

米の供出を逃れようと田んぼの中に埋めた米俵も警察の摘発に遭う
秋田県にて『写真昭和30年史』〈毎日新聞社,1955年〉より)

前年の「昭和二十年 会同日記」には、一六二名の戸主名が記されていましたが、この年の初総会時には二十一名増の一八三名となっています。
組(隣保)の数も十四組のうち、字花折、字メンコ在住の人たちによって一七組が分離・独立しました。
外地からの引揚げ者、都市からの疎開者の定住、それに嬉野開拓などの転入者がその多くを占めていたものと思われます。
ちなみに、戸数は毎年増え続け、六年後の昭和二十七年(一九五二)には、二○四戸と記録されており、おそらく開村以来初めて二百戸を上回ることになりました。

さて、この年の会議録を見ていくと、下のように「自警団」の語が繰り返し出てくるのが目を引きます。

昭和二十一年初総集会 

一月十六日午前八時開会
協議事項
一  自警団組織ニ付協議ス
 部落内男子十七才ヨリ五十才迄ノ男子全部団員トシテ組織スルコトヲ申合セ、一月二十日迄ニ各隣保ヨリ団員資格者ヲ報告シ、二十一日夜自警団組織ノ為ノ会合ヲナス

 

一月二十日夜七時
一 山国部落自警団発会式ヲナス
部落内十七才ヨリ五十才迄ノ男子全部団員トシ、村内ヲ五班ニ分チ、三ケ隣保ヲ以テ一班トシテ左ノ役員ヲ設ク
団長一名 田中眞次
副団長二名 岡井太郎市 井上熊夫
班長五名 久井進次 北谷潔 藤原勇次 井上治 出井乙次
班長五名
組長十五名

一月二十一日ヨリ夜午後七時自(より)翌朝六時迄一組六名宛部落内六回巡視ナス
一 自警団費用寄付金
土木部長四名ノ努力ニヨリ部落各戸ヨリ別□寄附帳通リ寄付金ヲ得タリ
 自警団※六月二十~三十日頃迄継続とあり

 

十月十一日夜 常会
協議事項
一 自警団組織ニ付
十月十五日ヨリ十月三十日迄、自警団ニ依リ夜警スル様通知アリタル為通知ス

※下線は筆者。新字に改め、適宜読点を付けています。

「自警団」といえば、大正十二年(一九二三)に起きた関東大震災に各地で組織され、朝鮮人虐殺などの悲劇につながったことが知られています。
終戦直後のこの時期に、農村で組織された「自警団」は何を目的としたのでしょうか。
社町史』を初め、近隣各市の『市史』等を参照しても記述はなく、唯一『新修加東郡誌』(一九七四年)に次のような簡単な説明がありました。

太平洋戦争が終わり、ポツダム宣言の受諾とともに、連合軍が進駐し、敗戦による思想の混乱、そのうえ、食糧危機におちいり、いろいろな犯罪の激増など,加東郡という田園地帯までその影響は大きかった。   (通史編 第5章近代の加東郡 民生・福祉)

 

「自警団」という言葉こそありませんが、この年の犯罪発生状況を記した兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、1975年)に有力なヒントがありました。
同書は、 昭和21年は「我が国犯罪史上最悪の年」として、凶悪犯の激増について述べた一方で、未曾有の食糧危機の下、農村部に頻発した「野荒らし」(農作物を盗むこと)についても記しています。

県下で昭和二十一年中に検挙した野荒らし犯人は1256人の多数にのぼる。しかもこの数字が発生のすべてではない。野荒らしはその性格から的確な発生状況を把握しにくく、実際の発生件数は、少なく見積もってこの二倍の二五○○件を超えたと言われる。

また、奥田博昭『昭和ドロボー世相史』 (社会思想社、1991年)には、6月16日の日付で、「”野荒らし”全国的に跳梁。猫の額のような都会地の家庭菜園から、農村の野菜畑までさんざんに荒らす」という記事があります。

 

というわけで、山国村でも畑の野菜などを盗まれる被害が続出し、警察当局などの指導で自警団を組織したのではないでしょうか。  

当地区は面積が広大で、目の届かない遠隔の場所にも畑を作っている農家が多くあったことから、そういう措置に至ったと思われます。

十月十一日の常会では「十月十五日ヨリ十月三十日迄、自警団ニ依リ夜警スル様通知アリタル為通知ス」とあります。
十月の下旬と言えば稲刈りの最中で、夜間の見回りは、昼間の仕事で疲れた体には酷だったのではないでしょうか。

 

※組織された自警団の班長の中に、祖父の名前がありました。当時は41才の働き盛りでした。

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ75 「隣保」制度の誕生(「昭和15年会同日記」より)

山国地区の自治会は、現在25の組から成り、各組は毎年輪番で組長を置いています。
この組のことを高齢者世代では「隣保」と言ったり、組長のことを「隣保長」と呼んだりしています。
「会同日記」を順に見ていると、昭和15年(1940)以前は10戸前後の家をまとめて、そこに「什長」(じゅうちょう)を置き、定期的に「什長会」が開かれていることがわかります。

ところが、「昭和十五年 会同日記」には、突然10月1日付けで下の写真のような「隣保組織扣(ひかえ)」が記されています。

村の東部には6つの組(隣保)、西部には8つの計14の組を置き、3つの組または4つの組ごとに部長を置いています。この組分けは基本的に現在まで継続しています。
戦後、嬉野開拓や新興住宅開発に伴って、いわゆる本村(ほんむら)周辺に15組から25組が増設されましたが、今に続く「組(隣保)制度」はこの年に決まり、翌昭和16年(1941)から実質的に運用されたとことになります。

 

では、「隣保制度」はどういう歴史的な背景のもとに出来たのでしょうか。
簡単にその背景や経緯をまとめてみました。

まずは、その大元にあったのは「新体制運動」でした。

新体制運動
1940年日中戦争のゆきづまりの中で,ドイツのナチス,イタリアのファシスト党一党独裁体制にならい一国一党的新党の結成が唱えられ,諸政党は解党した。第2次近衛内閣成立後,政党・官僚・軍部・右翼を包含して大政翼賛会が結成され,官僚の支配する国民生活統制の体制が形成された。(出典 旺文社日本史事典 三訂版)

この「新体制運動」推進のために、政府は昭和十五年九月十一日の内務省訓令による「部落会町内会等整備要領」を公布しました。
以下がその目的です。

(一)隣保団結の精神にもとづき、市町村内住民を組織結合し、万民翼賛の本旨にのっとり、地方共同の任務を遂行させること、
(二)国民の道徳的錬成と精神的団結をはかる基礎組織とすること、
(三)国策をひろく国民に透徹させ、国政万般の円滑な運用に資すること、
(四)国民経済生活の地域的統制単位として、統制経済の運用と国民生活の安定上必要な機能を発揮させること、

組織として、「部落会」および「町内会」「隣保」「常会」を設けました。

「部落会」は区域内全戸をもって組織し、「隣保」は部落会のもとに五人組などの古い習慣を尊重し、十戸内外の戸数で構成しました。

部落会の組織図

上の写真に見るように、「隣保」は行政の末端組織として位置づけられ、物品供出や配給などの諸連絡を行う最小単位となったのです。
また、村ではそれまでの「什長会」にかわり「常会」が組織され、もっぱら上意下達に利用されたというのが現実でした。

 

このとき、隣保内の連絡に使われ始めたのが回覧板でした。

回覧板は、国、県、市町村からの伝達事項を住民に周知徹底する道具であるとともに、住民にとっては、配給などの情報を知る戦時生活の要でもありました。
回覧板を受け取ると所定の位置に判をついて隣へ回しましたが、こうしたスタイルは基本的に令和の今にも継続されています。

隣組」の歌(「産経新聞」月刊正論オンラインより)

この当時、ラジオからよく流れていたのが、この隣組*の歌でした。

*農村部では一般に「隣保」、都市部では「隣組」とすることが多かった。

昭和15(1940)年6月17日に、日本放送協会(NHK)が制作する「國民歌謡」として発表された作品です。

 この歌は、制度としての隣組の意義を強調し、広報するための歌だったと言えるでしょう。

 

このとき、その筋の指示により「部落会」の役員が写真のように定められました。
時勢を反映して、「教化部長」「軍人援護部長」「警防部長」が任命されています。

筆者の曾祖父にとっては、4期8年の区長として最後の仕事だったようです。

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ74 「昭和18年は米の供出で大変だった!」

昭和十八年(一九四三)といえば、開戦三年目で連合軍の反攻が本格化し、召集や勤労動員が拡大した年でした。

二月 日本軍、ガダルカナル島の撤退を開始
四月 連合艦隊司令長官山本五十六ソロモン諸島上空で米軍機に撃墜され戦死
五月 アッツ島の日本軍守備隊2500人玉砕
六月 政府、「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定
七月 国民徴用令改正公布 日本軍、キスカ島より撤退
十一月 マキン・タラワの日本軍守備隊5400人玉砕(司令官・柴崎恵次中将は旧加東郡上東条村〈現・加東市森〉出身)
十二月 徴兵適齢臨時特例公布され、適齢が19歳となる

 

米穀の管理制度は、この年までに以下のような経過をたどっていました。

昭和十四年(一九三九)「米穀配給統制法」公布 取引所を廃止
昭和十五年(一九四○)農林省令「米穀管理規則」により、農家は一定数量の自家保有米を除き、残る全ての米を決められた値段で国に売る義務(米の供出)が課される。
昭和十七年(一九四二)食糧管理法制定 主要食糧の国家管理を強化し、米穀の配給通帳制度を施行。

(「アジア歴史資料センターglossary>tochikiko-henten">https://www.jacar.go.jp>glossary>tochikiko-henten

こうした米穀の国家管理統制の厳格化により、山国村でも割当米を供出するのに、関係者は並々ならぬ努力をされていたことが「会同日記」から読み取れます。
以下に見る一月から四月の記述は、前年の昭和十七年産米の供出に関するものです。
年初の初総集会に始まり、毎月の役員会や総常会などの議題に、毎回「米供出」の文言が見られます。

初総集会 一月十六日午前九時
一 管理米供出ノ件 供出スベキ様通知アリ 追々総集会ヲ開キ供出スルコト

 

総集会 一月二十日夜七時
一 管理米供出ニ関スル件  供出不充分ニ付審査会ヲ設ケテ徹底供出スルコト

 

管理米供出審議会  一月三十一日午前九時  終了翌午前一時
出席 区長、農会長、隣保長、藤原評議員
一 各戸別毎ニ実収反当量ヲ審査決定ス

 

管理米供出審議会 第二回目  二月五日午後七時  
一 前回ニ於テ審議決定ニヨリ供出数量ヲ算出 更ニ検討シ部落農会長ノ名ニヨリ供出通告書ヲ各出荷スベキ者ニ発送スルコトヲ決議ス

 

総常会 二月十一日夜
一 米供出ニ付注意

 

役員会  二月十四日夜七時半
一   米供出ノ件
曩(さき)ニ審議会ニヨリ農会長ノ名ヲ以テ米供出ヲ通告シタル其供出状況ヲ発表シタルニ其数半数ニ付更ニ未供出ノ隣保ニ協議供出セシムルコトトシ、十八日夜役員会開催ノコト

 

役員会  二月十八日夜七時半
一   米供出ノ件
割当量ニ不足シ居ル者アルモ本日申出ノ分モ合セ集荷分近日中ニ出荷スルコト
                     
役員会  三月十日夜七時半
一   米供出ノ件
割当ニ対シ出不足甚敷為(はなはだしきため)左記委員ヲ設ケ供出セシムル様努ム
※3~4隣保毎に、3名の委員(区長、評議員、役員経験者)を任命
   十二日より各班委員が活動開始

 

総常会 三月十七日夜
一 部落内ノ米供出状況説明
一 供出審議割当量未完了ノ向(むき)ハ記録ニ残シ、更ニ一般保有米量ノ一割ヲ供出スルコト
但シ情状ニヨリ斟酌(しんしゃく)ヲ加ヘントスル為審議会ヲ開キ委員ニ委(ママ)サレ度(シ)
一 収穫量保有米量ニ満タザル向モ、其申告量ト審議査定量トノ差額供出シ定メラレタル日ヨリ配給米ヲ受クルコト

 

米供出委員会     三月十九日午後○時ヨリ翌午前二時ニ至ル

 

婦人総会         三月十九日
一 社翼賛壮年団長出張 米供出ノ件ニ付講話ス
  * 大日本翼贊壯年團は、第二次世界大戦中の1942年に結成された大政翼賛会の傘下団体の1つ   

供出米集荷  三月二十二日
午前中ニ各隣保単位ヲ以テ集荷
割当ニ対シ不納者ナシ
町農会割当残数量三四一俵ノ□集荷二九○俵

 

役員会  四月二日夜
一 供出米割当数完納スベキニ付其方法
割当数供出スルコトニ決シ方法ハ四日ノ常会ニ於テ協議決定スルコト

 

総常会 四月四日午後一時よヨリ
一 米最終供出ノ件 (未出分五一俵)
反別ニ米数保有米ニ半数保有米ニ半数ヲ掛ケ
完納ヲ期スルコトニ決議

 

米供出委員会    四日夜
最終供出トシテ五一俵ヲ
反当九合宛 保有米ニ一升二合五勺ヲ掛ケタル計算ニ決定ス
供出割当数完納

 

十五日
一 供出米受検割当数量完納ス

新字体に改めています

この稔り この戦力 早稲の穫入れ 早くも始まる
米の供出方法が改まったことを伝える内閣情報局発行の「写真週報290」(昭和18年9月)

年明けから「完納」までの三ヶ月半の間に、のべ十四回もの各種会合、委員会などが開かれ、供出に向けての督励がなされています。
淡々とした記述ではありますが、区長を始め役員の皆さんのご苦労がしのばれる内容です。
整理してみると、大まかに以下のような経過となります。

一月 総常会で周知の上、管理米供出審議会で各戸割当を決定

(その際、深夜一時に及んだと記録されています)
二月十四日 供出状況 割当の半数に過ぎず
三月十日 供出委員を選出
  十九日 社翼賛壮年団長が来て婦人会総会で米供出について講話
  二十二日  集荷の結果、町農会割当341俵に対して51俵少ない290俵
四月四日・五日 米供出委員会では、不足分を「一反あたり九合、保有米には一升二合五勺」を乗じた計算で補うと決定。
  十五日 割当数量完納

 

米の供出制度が始まった翌年の昭和十六年(一九四一)の「会同日記」には、この年のような詳細な記録はありません。
社町史』も記すように、「軍隊に人手を取られ、肥料も不足する中で割当を消化するのは大変」(第二巻本編2、近代編・第3章近代社の生活)だったことでしょう。
さらに言うならば、この年は鶉野飛行場への出役がさかんに割り当てられた年でもありました。

この年から始まった「部落供出責任制度」(県ー地方事務所ー市町村ー農事実行組合のルートで、市町村長が部落単位に供出を割り当て、部落全体が責任をもって供出を完遂させる)というのは、まるで江戸時代の藩政下での石高制を思い起こさせるようなシステムでした。
そして、翌昭和十九年度からは、植え付け前の段階で割り当てが行われ、超過供出まで義務づけられるようになっていきました。

農家向けの雑誌「家の光」昭和19年11月号
表紙には米の供出に荷車を引く女性の姿が描かれている



   

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ73 昭和20年 終戦間近の会同日記より

 

総常会 五月二十三日夜
 

  一 鶉野出役ニ付割当人夫出役スルコト
  二  肥料配給ノ件
   三  公会堂 嬉野海軍療品所*設営隊ニ貸与スル事
   四  松根採取*部落共有林開放ノ事
   五 共同作業、共同飯ノ事
   六  家畜保険ノ件            
   七 麦摺(むぎすり)ノ件  石油ノ減配
   八  報告敏速セラル事        

    鶉野出役者日割  
       五月二十五日 各隣保ヨリ三名宛
        六月一日   ゝ  四名宛
        六月五日    ゝ  二名宛

  議題一の「鶉野出役」について。
当時の加西郡九会(くえ)村(現・加西市鶉野町)に昭和18年(一九四三)三月から建設の始まった姫路海軍航空隊の鶉野(うずらの)飛行場は、突貫工事のために周辺の加東、多可、印南郡から、多い時には日に千人以上もの勤労奉仕団が動員されました。
山国村でも、同年四月に初めて一隣保に5名ずつが割り当てられています。
完成後も終戦に至るまで、拡張工事や掩体壕(えんたいごう)*堀りなどのために、動員の割当は継続していたようで、婦人会への割当も記録に残っています。
現地までは、12~13キロもあり、途中には高岡の台地に上る急坂もあったりすることから、自転車での往復もなかなか大変だったことでしょう。

現在の飛行場跡(鶉野飛行場資料館ホームページより)


 議題三についてですが、嬉野に「海軍療品所」(正しくは「療品廠」)とありますが、これは海軍で使用する医療品の材料を製造する工場であったようです。
おそらく、完成前に終戦を迎えたと思われ、諸史料にその名は見られません。
工場の設営隊の寝泊まりに公会堂を明け渡したということで、その後の村の各種会合は熊野神社(権現さん)境内で行われています。
なお、この公会堂は昭和41年(一九六六)竣工の旧公民館と同じ場所にあったもので、「大正十年 会同日記」を見ると、「上棟式」の記載があり、その年に建てられたようです。

総常会 七月三十一日午後一時 熊野神社境内ニ於テ

  一 用水ノ件 草取  止草*ノ日時ヲ決メル
  二  木材五○○石当部落割当ニ関スル件
        谷田池東五反歩約五百石供出スル事ヲ協議セリ
   三  鶉野青野ケ原出役ニ関スル件
         鶉野八月六日二十五人出役
      青野ヶ原八月十日四十人出役
   四 蚊帳(かや)三 供出の件
   五 勝札(かちふだ)*二二枚 割当ノ件
 六  薪炭供出の件
 七 松根*供出の件
 八 新麦供出完納ノ件
 九 魚配給補給全徴収ノ件
 十 国民義勇隊戦闘隊*編成ノ件
      男子 十五才ヨリ六十才迄
      女子 十七才ヨリ四十才迄
      ヲ以テ編成ス 同幹部ノ選任ヲナス
    十一 部落葬 空爆下ハ自宅告別式トス

勝札(ジャパンアーカイブズより)

この日は火曜日でしたが、熊野神社の境内に総常会(総集会)ということで、全員出席であったとしたら一六二名もの村人が、真夏の日盛りに会同したということになります。
供出と出役(勤労動員)の記述がさらに増えています。
議題三では、これまでの鶉野に加えて、青野ケ原にも出役とありますが、ここは陸軍演習場として有名な所でしたが、後に戦車連隊が駐屯することになりました。
青野ケ原での出役の任務はどういう内容だったのか、『社町史』『小野市史』『加西市史』等にも、この時期の勤労動員の記載はありませんでした。

 議題十について。

国民義勇隊はこの年の3月に、防空および空襲被害の復旧などに全国民を動員するために作られた組織でした。
その後六月二二日に義勇兵役法」が公布・施行されて、「国民義勇戦闘隊」が発足しています。

本土決戦に備えようとするものであったようですが、間もなく終戦を迎えたため、当村では実際に編成されていないのではないでしょうか。

なお、四の蚊帳の供出ですが、何を目的とするものだったのかが不明です。

既に昭和15年(一九四○)頃からの金属回収の一環として、蚊帳の吊り手を供出していたという例が多く見られますが、何に使ったものでしょうか。

 

(注)
「配給」・・・日中戦争から太平洋戦争とつづく戦時体制下で,生活必需品の配給制が実施された。昭和13(一九三八)年,ガソリンが切符配給制となり、昭和15年からは,米・砂糖・マッチ・衣類などが切符や通帳で配給されるようになった。
「松根採取」・・・マツの切り株を乾溜し、松根テレビン油を採取、航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられた。
学童から老人までが駆り出されて採取された松根も実際に活用されたかどうか不明なところが多いとされている。
掩体壕」・・・軍用機などを、敵の攻撃から守るためにコンクリートで造った横穴状の施設。
「止草」・・・田の草取りで三番草を取った後、二〇日目ぐらいに行なう最後の草取り。
「勝札」・・・昭和20年7月、政府は軍事費の調達をはかるため、富くじ「勝札」を発売した。1枚十円で1等は十万円が当たる。しかし、最終売り出し日は日本が終戦日の8月15日。抽せん日はそれ以降の設定だったため、皮肉にも“負札(まけふだ)”と呼ばれるようになってしまった。(宝くじ公式サイトより) 

ふるさと山国の今昔あれこれ72 「終戦の日 区長の日記より」

実は、この「今昔あれこれ」シリーズもネタ切れで、今年に入ってからの更新はありませんでしたが、昨日区長さんに旧公民館倉庫にある古文書類を見せてもらい、一部を借用してきました。

今後は、大正から昭和20年代にかけての「会同日記」(年間の会議録)をもとに、順次記事をアップしていきたいと思います。

まずは、昭和20年8月15日の終戦の日の区長さん(当時は田中真次氏)の日記を紹介してみたいと思います。一部は『社町史第2巻本編2』にも取り上げられていました。

八月十五日、大東亜戦終戦ヲ告ゲラルル日
朝九時町役場ニ出席、十時用ヲ済マセ退場セントスルヤ、高瀬書記ヨリ、本日正午陛下ノ重要放送アル故、部落内各人ハラジオノ元ニ集リ陛下ノ放送ヲ拝聴セラレタシト聞キ、早速部落内通告、直(ただ)チニラジオヲ聞ク。如何(いか)ナル重要放送ナルカト胸ヲ躍ラセ聞ク間モナク、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ベトノ詔(みことの)リヲ拝ス。
勝信念ニ燃エタルモ今ヤ終戦ト聞キ、只忘然(ママ)ト涙ノ流ルルヲ覚エタルノミニテ万事休スト叫ンデ様ニ覚ユ。
昼食モ済マセタルヤ否ヤ夢ノ様ニ思ワレル。部落内彼所此所ヲ見廻スレバ、老人モ女モ小供(ママ)モ只々涙ノ中ニ悲ミノ目ヲ上ゲ、残念ナリト叫ブ声ヲ聞クノミ。然シ乍ラ不穏ノ行動言詞ヲ発スルモノ一人モナク、安心セリ。
忘レントスルモ忘レラレズ。成行ヲ見守リツツ日暮トナル。
噫(ああ)何タル悲痛事カ。前線ノ幾万将兵ノ身上モ想ヒ起サレテ、只涙トナルノミ也。

(「昭和二十年 会同日記 山国区長」)

※新字・新仮名遣に改め、句読点を付け、適宜改行したほか、難字にはふりがなを付けた。

 

天皇陛下による「終戦詔勅」のラジオ放送については、リアルタイムで聞いた人たち(多くは故人となりましたが)の多くが、「雑音ばかりで、内容がよく聞き取れなかった」と証言していたのを直接・間接に聞いたことがありますが、この文章を見ると明瞭に聞き取っておられたようです。

責任感の強いお方であったようで、村内を見回って不穏な動きがないかと気を配っておられるところが、印象的でした。

 

下の写真はどちらも、「朝日新聞GLOBEプラス」より。

 

1970の万博で演奏 55年前の社中学校吹奏楽部

今年に入って初めての投稿になります。

毎日のように、これまでの投稿原稿をもとにして、仮の書籍体裁の文章を作成している今日この頃です。

さて、開幕までひと月余りになっても、依然として盛り上がらない「大阪関西万博」です。

もちろん、行く気は全くありません。

古希のオジイにとっては万博は55年前の「expo70」の体験で十分ですから(^_^)

その体験というのが、これです。

大阪万博】1970年8月23日(日) 
1970年8月23日(日)晴れたり曇ったり一時雨(最低21.9℃/最高30.0℃)
●入場者:657,340人(入場予定者580,000人)
●迷子:866人
●尋ね人:1,584人
●患者発生数:893人
●救急車:142件
●会場内死亡者:0人
●火災発生件数:1件
●来訪VIP:フィリピン E・M・マセダ商工相/秩父宮妃殿下
【催 物】

   ●青少年のつどい・若人のつどい・元気な子供たち
小野市社中学校42人 吹奏楽演奏
岡山市ジュニア・オーケストラ100人 管弦楽吹奏楽演奏
野外劇場(18:30)

http:// https://expo70.exblog.jp/3346772/

残念ながら、「小野市」ではなく加東郡社町立社中学校」ですけど!

当時は知りませんでしたが、100人ものジュニアオーケストラが出てたんですね。

これでは、田舎の無名の中学校では、どう見ても見劣り(聴き劣り?)がしますね。

後ろの幕を見ると、日本青年会議所主催の行事だったようですね。

どういうツテやコネがあったものか、北播磨地区からは社中学校吹奏楽だけが選ばれて出演しました。

当地方では他にもっと技量の優れた、例えば西脇南中学、三木中学などがありましたので、上手いから出られたというわけではなかったようですね。

当時、たまたま部長をしてたので、朝日新聞だったかにインタビューされて、記事になりましたが保存していないのが残念。

指導の井澤先生は80代の半ばを過ぎられましたが、闘病しながらも地元女声コーラスの指導をされています。

当時3年生だったメンバーもいよいよ古希を迎えました。

その中の、二人とは年に二三度出会う機会がありますが、話題はまず病気、健康のこと(;。;)

もうそんな年になってしまいました。

※ちなみに私は最上級生ということでトロンボーンの一番。隣の二番は、一つ下で某県立高校の校長で辞めた方。三番も一つ下で、県庁で特別職まで出世された方でした。

 

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ71  山国産の山田錦を使った日本酒「真澄」

■ 加東市ふるさと納税返礼品に
加東市では本年度、ふるさと納税返礼品に当山国地区山田錦100%の純米吟醸真澄(ますみ)」を追加登録したことが地元紙に報じられました。

(日本酒「獺祭(だっさい)」で有名な旭酒造(山口県)が加東市藤田地区の山田錦で造る純米大吟醸の限定酒「獺祭ふじた」や藤田地区を含む同市特A地区産山田錦を使った「獺祭加東」も返礼品に登場。山国地区産山田錦100%の純米吟醸「真澄(ますみ)」も同日登録し、獺祭ふじた、獺祭加東の飲み比べセットも用意する)

この「真澄」という日本酒は、長野県諏訪市宮坂醸造(1)の人気商品で、西日本ではそれほどでもありませんが、東海地方から関東にかけては広く知られている銘柄だそうです。

山国地区では宮坂醸造酒米を販売する「村米契約」(2)を2002年(平成14年)から20年余り締結し、後述のように醸造元と地域との交流活動が毎年展開されています。

 

■ 宮坂醸造と山国地区の山田錦

現在、地区の山田錦部会会長を務める藤本さんは筆者の同級生ですが、彼によると当地区と宮坂醸造村米契約を結ぶに当たっては、加東市(当時は社町)の農政担当課やみのり農協の斡旋があったということです。
一方、宮坂醸造においても最適の酒米を求める努力を長年の間続けられていたことが、次の記事からうかがえます。

酒米の王様”山田錦仕入れたい。約30年前、当主の宮坂直孝氏は父とともに山田錦を求めて兵庫県に通い詰めたという。
数年かけてやっと仕入れることができるようになった際、「天に上るような心地だった」と宮坂氏。
それから現在に至るまでの20数年間、仕入先である加東市山国地区の農家とは強い信頼関係を築いてきた。
田植えや稲刈りを手伝ったり、時に宴会を開き親交を深めたり、温かな付き合いの中、より良い酒造りのためにともに歩んできた。

(中略)
  山田錦を選ぶ理由
 山国地区の山田錦から造られる酒は、上品で存在感があり、どこかあとをひく美味さがある。宮坂醸造純米大吟醸3種のうち、「夢殿」「山花」の2種に使われていることからも、いかに重要な酒米であるかがうかがえる。
「我々酒屋は次の世代へ思いや技術を繋げていかなければなりませんが、同様に農家の方々も、山田錦に対する思いを後継者へ継承していってほしい」と直孝氏は語る。
   宮坂醸造ホームページより       https://kato-yamadanishiki-sake.jp/about/

■ 交流活動
党地区と宮坂醸造との交流活動として、主なものは以下の通りです。
2月 酒蔵訪問(一泊二日)例年30~40名程度の参加があります。
6月 交流田植え 山田錦部会、宮坂醸造の社員さんたち、地区子ども会など

(2024年の交流田植えの様子)

「真澄」の幟が立つ地区所有田

10月 交流稲刈り 同上

交流稲刈りの様子 (加東市役所チャンネルより)
https://www.youtube.com/watch?v=WxwZ1NA5250

この他に9月に加東市が実施する「乾杯まつり」にも参加されています。

 

(注)
1  寛文二年(1662年)、江戸時代初期に、現在の長野県諏訪の地で創業した酒蔵・宮坂醸造。銘酒・真澄の蔵元として、全国にその名を轟かせている。「七号酵母」発祥の蔵としても知られ、近代の日本の酒蔵と酒造りに影響を与えた。“酒は農家と酒蔵の共同作品”をポリシーとし、産地・品種にこだわった酒米を使用している。

2 良質の酒米提供のため特定の村との酒造家との共同売買契約のことで、『社町史第二巻本編2』(2005年)によれば、明治24.5年頃、灘五郷の一つ、御影郷の酒造家嘉納治郞右衛門が当時の米田村上久米(現・加東市上久米地区)と高品質の酒米の共同売買開始したことに始まるという。2019年度現在 加東市内で18地区が醸造元と村米契約を結んでいる。

大叔父準一の教員生活と戦死まで

■ 教員生活はわずか9ヶ月?

昭和17年(1942)3月、兵庫県師範学校を卒業した準一氏は、4月から加東郡野国民学校(現・小野市立小野小学校)に勤務しました。

昭和17年兵庫県学事関係職員録」(兵庫県教育会)より
初任給は十一級俸で月額53円となっています。

昭和11年・1936に建てられた旧小野小学校講堂、現在は小野市立好古館)

履歴書のような書類が残っていないので、ここからは推測ですが、氏の教員生活は昭和17年4月から12月までのわずか9ヶ月だったのではないでしょうか。
というのは、地元紙の神戸新聞が2016年8月に連載した記事で、準一氏と小野中学、兵庫県師範の同級生だった故・井登慧氏の経歴を見ると、満20歳になる昭和17年に徴兵検査を受けられており、翌18年1月に、こちらは陸軍(姫路第10師団)ですが、入営されており、教員生活はわずかに9ヶ月だったのです。

神戸新聞に掲載された記事中の写真、兵庫県師範学校に在学の小野中出身者の集まり。
赤矢印が準一氏)

準一氏の場合は海軍で、昭和18年(1943)1月に広島県大竹市にあった大竹海兵団(1)に入団し、3ヶ月の新兵教育を受けたものと思われます。

(『大竹市史本編2巻』より)

(『わが海軍 : 旧海軍全教育機関の記録写真集』ノーベル書房、1981年
高齢の父母に代わり、兄の勇二夫妻が面会に行ったと聞いたことがある)

海兵団卒団後すぐにかどうかは不明ですが、戦艦扶桑(2)乗り組みとなりました。亡父の話では、主砲の砲手で南洋方面への出撃時のものか、土産に椰子の実を持ち帰ったことがあったということでした。

(水兵服の準一氏、右の写真の袖章は水兵長のもの)

約1年半の海軍生活で、準一氏は二等兵曹(下士官、陸軍の伍長に相当)で戦死、享年23歳でした。1階級上がって一等兵(陸軍では軍曹)と墓石には刻まれています。戒名は「護国院尽忠義観居士
死亡日時は「レイテ沖海戦」で戦艦扶桑の沈没した昭和19年(1944)10月25日、時刻不詳。
戸籍謄本や墓石には「比島沖」(フィリピン沖)とされていますが、正しくはスリガオ海峡で、乗組員1200人のほとんどが戦死し、生存者はわずかに86人という悲劇的なものでした。

(当時は旧式戦艦となってしまっていた扶桑)

(呉海軍墓地内にある戦艦扶桑慰霊碑 後方の銘板に戦死者の氏名が刻まれている)

(主に下士官で戦死した場合に贈られた「勲七等青色桐葉章」)

 

(注)
1  旧日本海軍で、軍港の警備や下士官・新兵の教育・訓練のために各鎮守府に設置されていた陸上部隊

2 開戦後は、ハワイ作戦支援、ミッドウェー作戦支援に参加したものの、その後は主として内海西部で練習艦任務に就いた。 

1943年(昭和18年)8月になり、南方作戦支援のためトラックに進出、1944年(昭和19年)5月30日渾作戦発動により、ビアク島に向ったが、6月3日に作戦は中止となり会敵の機会はなかった。  

あ号作戦時には待機部隊となったためマリアナ沖海戦には参加していない。 捷一号作戦発動により、第二艦隊第三部隊(西村艦隊)として、10月22日にブルネイを発したが、スリガオ海峡でアメリ駆逐艦の雷撃を受け沈没した。

 

曾祖父への感謝状と大叔父の教員免許状 

先日、古いガラクタ置き場と化している離れのカーテンを取り替えたついでに、何十年ぶりかに蔵の中を覗いてみたら、曾祖父・和三郎(明14~昭和35・1881~1960)への村からの感謝状大叔父・準一(祖父・勇二の末弟、大正11~昭和19・1922~1944)の教員免許状が見つかりました。

 

■ 区長を4期8年務めた曾祖父・和三郎

感謝状               

君、資性温厚篤実ノ人ニシテ而モ寡言実行、卿(郷)党挙ゲテ其ノ徳ヲ敬慕セリ。壮年ノ頃ヨリ土木係トシテ画策至ラザルナク、能ク其ノ区長ヲ輔ケテ成績モ亦顕著ナリキ。故アリト云フベシ。昭和八年衆議集リテ区長ニ選バル。固辞セラレタルモ、衆望遂ニ否ミ難ク決然トシテ就任セラル。其ノ間四期通シテ八ケ年、夙ニ勧農ノ志ニ厚ク、禾穀ノ豊凶ハ痛切ニ農家ノ経済ニ関シ、農家経済ノ良否ハ更ニ一般経済界ニ影響スル所以ヲ感ジ、常ニ土木水利等ノ事業ニハ細心ノ注意ヲ払ハレタリ。原田池ハ本村枢要ノ溜池ナルモ、漏水甚シク貯水池ノ本質ヲ失ヘリ。君之ヲ憂ヒ奮然修築ノ議ヲ起シ、更ニ工事ヲ督シ遂ニ之ヲ完成セシメタリ。実ニ本事業ノ如キハ永遠ニ本村水利上ニ及ボス効果ノ多大ナルコトヲ信ズルモノナリ。近時不幸ニシテ養水不足ノ声頻々トシテ至ル。若シ一朝ニシテ旱魃ノ災厄ニ遭遇スルコトアランカ、農業者ノ粒々半歳ノ辛労ハ徒爾ニ帰シ、延イテ一般経済界ノ不振ヲ惹起スルコトナキニ非ズ。君此ノ間ニ処シテ常ニ善処セラル。殊ニ昨昭和十五年ノ如キ希有ノ貯水不足ニ際シ、其ノ水利配水上ノ工作宜シキヲ得タルハ更ニ特筆スベキコトナリト信ズ。君ガ村治上ノ意見常ニ穏健、議論亦妥当ニシテ義ニ勇ミ仁ニ厚シ。之レ卿(郷)党ニ敬服セラルルノ所以ニシテ、在任八カ年敢テ永シトセズ。而モ治績大イニ挙リ、村民協和シ洋々タル春海ノ如シト謂フヲ得ベシ。之レ全ク君ノ徳政ノ然ラシムル所ナリ。
今四任期満ツルニ際シ、留任ヲ懇請スルコト頻リナリシモ遂ニ退職セラル。誠ニ痛惜ノ情禁ズル能ハズ。茲ニ村民相謀リ別紙目録ノ通リ記念品ヲ贈呈シ聊カ感謝ノ意ヲ表ス云爾(しかいう)。

  昭和十六年三月吉日           社町山國代表  (以下略)

※当時妙仙寺の住職であった金岡梅友和尚による撰文ではないでしょうか。

相当に人望が厚かったからでしょうが、昭和8年(1933)から昭和15年(1940)までの四期八年も推されて区長を務めただけではなく、その間に社町議会議員(おそらく一期)も努めています。(祖父・父も区長を務めましたが、どちらも一期2年でした)
区長としての治績の中で、原田池の工事に尽力したことが特筆されていますが、昭和戦前期において最大と言われた昭和14年(1939)の大干ばつについて、旱魃覚書』を書き残しています。

旱魃覚書」表紙
私が30代前半の頃、ある郷土史家から貸してほしいと言われて、
お貸ししたことがありました。なかなかの達筆で細かい字で詳述されています。



世話好き、話し好きな人であったということを孫の嫁である私の母から聞いたことがあります。
明治20年代後半のことですが、高等小学校(1)が地元の社ではなく福田地区にあり、農村では進学する子供が極めて少なかった時代に、高等科4カ年の課程を優秀な成績で卒業したということも、冗談めかしてですが、生前私の母に話していたそうです。

 

■ 大叔父の教員免許状

上記和三郎の三男(長男が祖父・勇二、二男は夭逝)が準一でした。
昭和15年(1940)旧制県立小野中学校(現・小野高等学校)を卒業後、当時の兵庫県師範学校(2)(後に兵庫師範学校、戦後は神戸大学教育学部)本科第二部に進み、昭和17年(1942)3月に卒業。

卒業と同時に、国民学校訓導」の免許状を兵庫県から与えられています。



国民学校はそれまで「尋常高等小学校」と称していたものが、昭和16年(1941)の「国民学校令」によって改称され、戦後の昭和22年(1947)の学校教育法で「小学校」となるまでの6年間存続しました。
訓導」は旧制小学校の正規教員のことで 現在の教諭に当たり、師範学校本科卒業生には「訓導免許状」が当該の府県から授与されていました。

 

(注)

1 その当時の義務教育は尋常小学校の4カ年で、高等小学校(4年)へ進む生徒は、農村ではごく少なかった。

2 旧制中学校卒業者は本科二部に進み、2カ年の課程を修めた。一方、高等小学校からの進学者は本科一部に入った。

兵庫県師範学校は、翌昭和18年(1943)に専門学校程度に格上げされ、官立の兵庫師範学校となった。