地区の古文書類の中に、別途会計から村民への分配金を記録した縦長の帳簿が何冊か綴じられています。
その中に、「大正拾参年 廣峰神社参詣旅費分配控 四月拾壱日」と題した綴りがありました。
伊勢参宮については、近年まで参詣者に対して地区会計より補助金が出ていたことは知っていましたが、姫路市にある広峯神社参詣の補助金が、共有財産権をもつ全戸に分配されていたのは意外でした。
このときは、権利を有する131人の戸主に4円ずつ、それ以外の8人に2円ずつ、合計では540円が支出されています。
「大正5年以降 金銭出納簿 山國別途会計」の帳簿を見ると、前年度大正12年度末の残高は891円47銭でしたが、この分配金のために社信用組合の定期預金元金500円を払い戻し、利子40円45銭と合わせて原資としたと記録されています。
この頃の4円が今ではいくらぐらいの金額に相当するかについては、比較対象の品物などにより、なかなか難しいのですが、ここでは7~8千円程度としておきましょう。
(『姫路市の百年』より)
分配金をもらった全員が参詣した訳ではないでしょうが、それにしてもなぜ姫路の廣峰神社なのでしょうか。
その理由について、姫路市在住の後輩(元高校日本史教員)に聞いてみたところ、次のような回答がありました。
①素戔嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭天皇:ごずてんのう)をお祀りしており、いくさの神であるとともに農業の神、百姓の神として広く播磨地方一帯の信仰を集めていた。
②例年4月18日の祈穀祭(穂揃え祭)では、今年の稲の占い(早稲、中稲、晩稲のどれがよいか)の神託があった。
③各種のお札や、お守りがあり、特に田んぼの水口に挿す害虫除け、農耕の牛馬安全のお札が知られていた。
④伊勢参宮をした後に、必ず広峯神社に参詣する風習が大正時代まであった。
『むかしの西播磨 : 絵はがきに見る明治・大正・昭和初期』より)
③については、『兵庫史の研究 : 松岡秀夫傘寿記念論文集』(『松岡秀夫傘寿記念論文集』刊行会編、神戸新聞出版センター、1985年)にも次のように述べられています。
東播を初め播州路一帯では広峯神社の信仰が強く、神社から護符、木、砂をもらって帰り、それをシバに挿して祭るのが普通であった。護符と土とは神社から配布するムラもあり、田植えの前に参詣して、受けて帰るムラもある。(中略)
いずれにしても、田を清浄にするという信仰である。(「農業の近代化と農耕儀礼の解体」)
④については、小栗栖健治「播磨の古社 廣峰神社:播磨学講義②」(『播磨学紀要第22号』播磨学研究所、2018年)に次のように記されています。
伊勢参宮との関係
播磨では伊勢参宮から戻ってくると、廣峰神社へ「御礼参り」をする、かつてはひろく見られた風習でした。伊勢外宮の豊受大神宮は農耕神、廣峰神社も農耕神、伊勢講でも農耕と結びついた行事を行う所があります。(中略)広峯神社では、こうした風習を「二度回り」と称していました。
伊勢参宮は近年まで続いていましたが、広峯神社については、近隣で聞いたことがありませんでした。
やはり、農業自体の変化に伴い、この風習もその後消滅したのでではないしょうか。
大正5年から(1916)から昭和10年(1935)別途会計の帳簿を見ても、広峯神社参拝への分配金が記載されているのは、この年度だけでした。
ちなみに、この大正13年という年は、大正年間最大の大干魃の年でもありました。
これは余談ですが、参詣は日帰りだったのでしょうか。
社町から加古川、加古川から姫路までは鉄道を利用したでしょうが、駅から廣峰山上までの距離を考えると、健脚者でも片道に5~6時間は要したのではないでしょうか。