考えないと楽なのです。
一部で話題の倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。ですけれども、この質問には根本的な欠陥があることを簡単に解説しますよ。
まずは「なぜ人を殺してはいけないか」について倫理・宗教・法律を用いた説明をしてみましょう。
- なぜ殺してはいけないのか
- 倫理
- 悲しむ人がいるから
- 理由:人が嫌がることはやめましょう、という倫理観
- 反論:誰もが嫌がらない人なら殺してもよいのか?
- 理由:人が嫌がることはやめましょう、という倫理観
- 後悔の念に苛まれるから
- 理由:禁忌を犯すことが今後の人生にどのように影響するか
- 反論:禁忌を犯すことが目的である場合、快楽殺人等
- 理由:禁忌を犯すことが今後の人生にどのように影響するか
- 人には比べてよい価値などないから
- 理由:「人を殺す権利」は誰も与えられない
- 反論:親族を殺された被害者家族に犯人を殺す権利はないのか?
- 理由:「人を殺す権利」は誰も与えられない
- 悲しむ人がいるから
- 宗教
- 法律
- 治安を維持しないと所有物が失われるから
- 理由:奪ってよい社会とは、奪われてもよい社会ということだ
- 反論:奪われてもいいと思っている人は殺してもいいのか
- 理由:奪ってよい社会とは、奪われてもよい社会ということだ
- 生きる権利の平等性が失われるから
- 理由:生き続けることによって、社会へ貢献する可能性が増える
- 反論:社会へ貢献する可能性のない人は殺してもいいのか
- 理由:生き続けることによって、社会へ貢献する可能性が増える
- 治安を維持しないと所有物が失われるから
- 倫理
とまあそんな感じで、倫理・宗教・法律を用いた説明には、それぞれを必要としない立場からの反論が必ずあらわれます。それはなぜか? 人というのは、倫理・宗教・法律を使って社会を維持する生き物のことを指すからです。それらを維持する必要がなければ、あるいは違うルールのもとに倫理・宗教・法律を活用するならば、人は簡単に人を殺せます。
社会というのは、人とそのまわりの環境のことです。無人島で孤独に生活する人だって、独自の倫理・宗教・法律を作らなければ簡単に死んでしまいます。死ぬことが目的の人は死にますから、社会は維持できません。社会を維持するために許可された殺人もあります。それは、食糧維持のためのくちべらし、違反者の排除(死刑)、そして政治思想や信仰の違いによって生まれる対立を解決するための殺人などのことです。それらは問題が解決すれば必要がなくなります。つまり、社会の根底には「人は人を殺してはいけない」という決まりがあるのだということです。
人が人であるためには、倫理・宗教・法律が必要であり、それらを除いたところには、殺人を否定する根拠も、殺人を肯定する根拠もありません。死ぬからです。説明ができないのではなく、説明する必要がないのです。
わかりやすくたとえると、質問者はこう言っているのです。
ボール(投げるもの)とバット(打つ道具)、そしてダイヤモンド(点数を得るための範囲)を使わずに、野球をやってください。カードやダイスなどの点数でボール・バット・ダイヤモンドの能力を代替したものはご遠慮ください。
やれません。やってもいいですけど、それはもう野球ではありません。
既に野球ではないなにかを、野球として説明することは可能なのでしょうか?そんなことをする暇があったら、身近にいる人やネット上で知り合った誰かが「自分は必要とされていない」「自分は死んでもいい存在だ」「殺したいほど憎い奴がいる」と思わないように、死なないために、人を殺させないために、やさしい言葉を伝えたりすることの方が大切なのではないでしょうか?
人はなぜ人を殺してはいけないのか?
人は、簡単に人を殺せます。どんな怠け者でも、ちょっと手を動かすだけで、努力している人の人生、死ななければ成し得た何かを台無しにすることができます。だから、そんな簡単な方法で、人の邪魔をしてはいけないのです。だってかっこ悪いでしょう、そんなのは。
もしあなたが、もっと工夫して、もっと努力して、誰も思いつかないような方法で誰かを殺したとしても、やっぱりそれはダサくてかっこ悪いのです。だって、殺された人はもう二度と殺されませんからね、死んでしまえばもう二度と死ねないのです。あなたは、人を一人殺すことで、あなたのやっていることを知ることのできる一人を失ってしまうのです。どんなに努力して殺しても、殺された人にはわからないのです。
努力しても無意味、怠けたらかっこ悪い「じゃあどうすりゃいいんだよ!わかんねえよ!ぶっ殺してやる!」そうです、殺すというのは、考えないということなのです。考えるのが面倒くさいから、殺すのです。
だから、人は人であるために人を殺してはいけないのですけれども(倫理)、それでもやっぱり殺す人はいるので(宗教)、その人を殺すことでバランスを保つのです(法律)。
というわけで、これは実は友人の作った改変コピペ
倫理・宗教・法律を持ち出して、かつ情に訴える方法で、「なぜ人を殺して"いいのか"」を説明してください。
への回答なのでありました。夏は厨房の季節ですからね、当該コピペ記事は消えてしまいましたが、どうだろうね、この回答は。
追記:
犬惑星の映画評『裸の十九歳』から。
せめて自分は相手と同じ土俵で闘うことだけはやめよう、まずは自分自身が他人を殺さない生き方をしようということになる。
http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/20050824/p1
永山則夫のことは「考えないと楽なのです」を書きながら、頭に浮かべておりました。そして、新宿で暮らすホームレスの多くが「金の卵」世代であることや、ぼくたちが暮らすひとを殺す必要のない生活と「なぜ殺してはいけないのか」という問いの関係を、ぼんやりと並べていたのです。『裸の十九歳』をさっそく観ようと思います。
そして、以下の引用は、最初に取り上げた質問者の日記より。
「殺されるから、殺さない」は、2人しかいない場合には成立しませんね。殺しちゃえば、殺される恐れはない。食料の少ない遭難船のような状況とか? ここでは、殺人を食い止める力は、倫理ではないですね。って言いたいけど、倫理は「人として守るべきモノ」とのことですから、まぁなんかそれも倫理なのでしょう。なるほど、社会の成立は3人からなんだなぁ、と実感できました。そして、「他人に危害を加えてはいけない」というルールのうち、殺人禁止だけはとくべつの位置なんだ、と思いました。殴ったら、殴り返されるかもしれないけど、殺したのなら、本人から殺し返されることは、ない。
http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050818#1124370017
なんとコメントしたらよいのやら。ブクマのタグは[すごい][あたまよくない]です。