感情論、妄信的説明はご遠慮ください。また、おそらくほとんどにこちらから反論の予定ですので、その心づもりでご回答お願いします。ちなみに反論はしていても、それは敵対の意志でも宗教を否定する意図でもありませんので、そこは予めご理解ください。ただ、つきつめたいだけです。それに感情的にならずにおつきあいいただける方のみ、お願いします。
「神はいる」ということは結局「神」とは何なのかを定義することに他ならないと思います。
なぜなら神はキリスト教にとっての神、イスラム教にとっての神、私にとっての神とどの神も「神」という名称は同じでも
それぞれ違うものです。
(それぞれの宗教に知悉している訳ではないのでイメージです。)
ここで「神はいる」ということを説明する上で私は万人が持ている神のイメージの共通項だと思われる「人智の及ばぬもの=神」として
話を進めていきます。
(ここで既に人智の及ばぬものについて考えるという矛盾をはらんでいる・・・)
では人智の及ばぬものとは何なのかそれは未知ということだと思います。
「わからない」ということこそが神であるならばその領域は減っても決して0に収束することはあり得ません。
そして現時点でわからないことというのは無限にあると言っていいほどあります。
よって「神はいます」。非常に現実的な存在ですね。
こう考えてみると「神」は何も行いません。ただいるだけなのでしょう。
そういうものに対して勝手な解釈をするから訳のわからぬ争いも起こるんでしょう。
いる。断言します。アインシュタインのビッグバン仮説が、実はキリストの聖書の創世記だとしっていますか?
貴方のいうところの神の概念が良くわかりませんが、
私は「宇宙の大いなる意思」と仮定してお話します。
仏陀にしろキリストにしろ実は人の子であって神ではありません。実在する人物です。
聖書や仏典には、処女懐妊とか、仏陀は木の又から生まれたという事が書かれていますが、私はこれは非科学的でありえないと思います。
たとえば地球上に生物が誕生したのは、ライアル ワトソン氏によると、サルにタイピングさせて、人間が理解できるくらいの文章ができるくらい理論的にはありえないそうです。
考えてみてください。物質から生命に変化するって、逆に科学で説明がつきますか?生命という言葉は意思を持った物質ととらえてもらって結構です。
人間の科学なんて全宇宙の説明をすることなど、まだまだ全然できていないのです。だから、アイン シュタインは「ビッグ バン
仮説」とした。そういう事です。
科学で説明できない事、それが宗教なのではないでしょうか?
まあ、私はキリスト教徒でも、仏教を信じているわけではありませんが、たとえば、聖書というのは、「人間は何故人を殺してはいけないの?」というのが誰も理屈で説明できないので、「聖書にかいてあるから」とか「地獄に落ちるから」とか説明するのです。
倫理を説くのも神=宗教にしかできない事ではないでしょうか?
「人生の意味」を哲学者たちは研究してきましたが、結局、宗教の理屈を使わずには、これを解明することができませんでした。
逆に「何故 殺人を犯してはいけないのか?」というのを論理的に説明してもらいたいものですね(笑)
ビッグバンの件は知りませんでしたね、ありがとうございます。
科学で説明がつかないから神はいる、は無理があるように思います。
反証可能性という言葉があります。反証の可能性があるものが科学、そうでないものはよくオカルトと呼ばれます。つまりオカルトとは反証不可能なところに逃げた仮説です。
反証不可能なものをすべて真実と認めるならば、「ムー」に出てくるような世界はすべて本当となります。そうではないですよね?
「神」というと「信仰の対象」と答えてしまいそうですが、実は違います。「宗教」という「産業」は手当たり次第に人々の心の海に錘を垂らすのですが、広大無辺の海は変幻自在で深淵は果て無きものです。とは言え現実には人知の限界というものが存在します。限界の範囲内で一般に受け入れられている心理的なノウハウの無難なシステム、その内の一つが「ある宗教」です。受け入れられなかったらどうなるかというと「オ○ム心理教」のような消えていった宗教はたくさん有ります。信仰してもらってナンボの世界です。つまり信じる人の心の中には「神」は残念ながら存在します。
心の中には神はいる、という宗教観には反論できません。ぼくの宗教観でもあります。今回、反論しようと考えているのは神の実在証明にたいしてです。
そもそも質問の動機は、有神論者の多くが神を実在するものとして語ることへの違和感、「見たこともないのに、証明もできないのに、なんで”実在する”と信じられるの?」という気持ちです。
神はいる、といっても神の定義はいろいろあるのでどれを指しているのかがわかりませんが、「心の中に存在する神」として説明します。
神というのは本来自分達のことを指しているのだと思います。
何かやましいことを考えるようになると、それを具現化しようと思う人間が現れて、最終的には自分にも被害が及ぶ。
この一連の流れが「神の行為」ということです。
思想や行動を抑制する概念が神として存在しているのだと思います。
基本的には上におなじくですが、TNIOPさんの解釈は無神論者が神を定義するにあたり使える説明だと思います。実在としての神への議論もこのあと出てくると思いますので、そっち方向でもぜひ再度ご参加ください。
科学的に見て、生物の誕生の瞬間や宇宙の誕生などは人間の想像すら超えた状態が存在しています。
人間が想像することすら出来ない
=すべての生物が認識出来ない事象
=神(と呼ばれるもの)の意識化でしか存在出来ない
生物の誕生は「有機物→単細胞生物」といちおう説明されていたと思います。宇宙の誕生もいちおう「ビッグバン」とかで説明されています。それをもって”証明できている”とまで言うつもりはありませんが、”想像すら超え”てもいないと思います。
つまり次の「認識」についても、「絶対に認識できない」のでなく、「いまは認識できてない」にすぎなく、解明への途上にあるだけです。
おっしゃる論理では、科学が未発展の時代においては、リンゴが木から落ちることは神の証明たりえたわけで、いまや神は否定されています。
また仮にリンゴと宇宙は別だとして、今度ばかり、宇宙ばかりは絶対に知り得ないということであっても、知り得ないから神はいる、では完全な証明にはなりません。知り得ないがゆえに、”存在の可能性は否定できない”というのにすぎないと思います。
なぜあなたには見えないのですか? 神様はいつも私たちのことを見てくださっているではありませんか!!!
と回答すると単なる基地外ですが、私は神なんて信じていません。無宗教者です。
さて、目の前に一つの紙袋があるとします。老年の品の良さそうな紳士があなたにそれを指示し、「この中にはお金が入っている」と言ったとしましょう。
あなたは信じますか?
信じなかった場合。やはりその中にお札はないのでしょう。紳士は呆れ顔で帰ってしまいます。
でも信じて場合は? あなたの頭の中には封筒の中の福沢諭吉さんが何度もちらつきます。その瞬間、お金は封筒の中に存在しています。
神様はあなたが「いる」と思った瞬間にだけ、そこにいるのです。信じる人は報われる、とはよく言いますが、まさしくそういうことなのだと思います。
やっぱり基地外きたと思い一瞬期待しました。正常な方でちょっと残念でした。
さておき、3番、4番さんへの回答どおりです。信じるものの中には存在する論は否定反論しません。
それでは、神の定義をしてください。
日本の八百万の神のような様々に宿るもの?
キリスト教的1神?
人間に恵み、たたりをもたらす土着信仰的神?
この世の中、人間を作った創造神?
宇宙の意思?
人類の知恵、技術をはるかに超える、超越者?
これまでのコメントをお読み下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A...
神の存在証明
ここにはいくつか興味深い、ことが書かれていましたので
御覧になってみてください
ありがとうございます。
宇宙論的証明、というのがなかなか面白いです。
ざっとだけ拝見しましたが、とても参考になりそうです。おってじっくり読みます、ありがとうございます。
最近の日本で言えば木村藤子さん。昔のアメリカで言えばエドガー・ケーシー。確実に神はいると実感できる能力を持った人は少数ではありますが居ます。その人の言葉を信じざるを得ないことを体験していただくしかないでしょう。間接的に神がいることを知るのです。
世界中の殆どの人には信仰心はあっても神の存在は実感できません。
私の考えでは、過去の預言者たちには未来が見えたのでしょう。彼らから見たインターネットあるいはGoogleは神に近いような気がします。インターネットの技術を極めることは神あるいは天国に近付く唯一の方法のように思えます。
他にないご意見、興味深いです、ありがとうございます。体験するしかない、と言われると反ずるべきものがないだけに、反論はむずかしいです。。。
私は、どちらかというと、多神教を信じていますので、多神教で考えることにします。
もし、neyorawaさんが、一神教を信じておられますと、具体的に質問されないと難しいかもしれません。
一神教の神もたくさんおられますから、どれなのか・・・
=========
一神教以外の人に、神の定義とは?と聞くと、神の定義は、人の数ほど存在しますので、人の数ほど神は存在するでしょう。
例えば、無宗教の人に、神は誰?と聞いて、「***さん」と答えれば「***さん」は間違いなく神でしょう。
実際、目の前に、「***さん」を見せられたら、否定ができませんから。
他には、八百万の神など良い例かもしれません。
ご回答を完全に理解しきれてるか若干自信がありませんが、神は自分で定義するものなので実在証明自体が不要、ということと理解します。
その宗教観には反論できませんが、今回俎上にあげているのは、創造主だったり、世界を統べる存在としての神の実在です。
面白そうなので、書いてみます。
「キリスト教を傷つけた3つの事件」という話を、元カトリック、後に共産主義者になった哲学者のアルチュセールが語っています。
補助線を引きながら解説。
① ガリレオにより、天動説が否定され、地動説になる。
(神が創りたもうたこの世界、この地球が、太陽のまわりをぐるぐる回されているだなんて、なんたる屈辱!)
② ダーウィンの進化論により、人間の姿は神の姿に似ているという話が否定される。
(ああ、なんてことだ、我々の祖先が猿だなんて、信じたくもないのに、信じなきゃいけない証拠が叩き付けられてしまうだなんて!)
③ フロイトによる無意識の発見
(人間の意識は、巨大な流氷のようなもので、ほんの一部が健在意識として自覚化されてはいるものの、ほとんどの部分は本人にさえ気づかれないというのか!? 神が創りたもうた人間は、そんなに自分自身の意識や存在でさえ理解できぬまま日常生活を送っているだなんていうのか? ああ、なんてことだ、検証すれば検証するほど、そうだと断じえる証拠ばかりが出てくるではないか? なんてことだ! そんなに人間は弱弱しい生き物なのか!)
科学思想史とキリスト教の関係を語ると、まあ、こんなかんじ。
言い逃れがきかない形で、キリスト教神学は叩き潰されてきたのが
現状で、うろ覚えですが、確か今のバチカンも進化論は許容していたように記憶しています。
ここで、「神は死んだ」と語った哲学者のニーチェ(この人もまた、少年期は敬虔なプロテスタント)について触れるのは止めておきます。ニーチェは、特に科学思想史の文脈に寄り添って、「神は死んだ」と言ったわけではちっともないので。なので、「神(=偶像)を作ったのは、実は人間にすぎない」という、お決まりの文脈で語るのも止めにしておきましょう。「仮象(かしょう)」(←IMEでは一発で変換されない特殊な哲学用語)という考え方を押さえておかないと、ニーチェの話はできないと思われます。
大事なのは、科学および科学思想であるはずです。
ところで、ベルクソンという、生物学を含めた科学思想・進化論にめっぽう強く、ユダヤ教神秘主義に影響を受けた哲学者がいます。彼は神学者ではありません。哲学者のくせして、びっくりするほど科学を勉強していた人物です。
彼の面白い発言は以下の3つ。
専門家が読むと、微妙に間違っているところもあるやもしれんが、おおよそは当たっているはず。
① 進化論を考えたとき、目という精密な器官は特殊である。目はあらゆる生物に見られ、どの生物においても精密、そして、どのように進化したのかさえもさっぱり分からない。生物には、唐突に跳躍するパワーが眠っていると言えるのではないか?
(ベルクソンは1930年代にフランスで流行した哲学者。現在の最先端の古生物学においても、この謎だけは解けない。ちなみに、生物において最初に発生した器官が腸であることは、もう解き明かされている。その腸が口を生んだことも判明している。生物の器官の誕生については、大概の器官がどのように発展して受け継がれていったのかという謎は“科学的な証拠つきで”解き明かされているものの、目だけが、いまだにさっぱり分からない。ヒントすらまったくといっていいほどない。あんなに複雑で、まるで機械のように精密な器官なのに、いきなり誕生したかのようにしか見える。ダーウィンも目だけは進化論の例外として悩んでいたのだが、なんと21世紀になってもその点は変わらない)。
② 科学もそもそもは、ひとつの直観(一発で物事の理を見抜くこと)にすぎなかった。実験に基づく経験主義がいきなり生まれたわけではない。
(話がどえらい長さになるので、あえて解説は省く)
③ 科学も直観も、同じ結論にたどり着くはずである。
(帰納法的に、厳密に証拠と証拠を重ね合わせて、より正確な真相にたどり着こうとする科学思想は、直観のおおざっぱさを補ってくれる。だからといって、(演繹的になりやすい)直観の価値が落ちるわけではちっともない。なにせ、もともとは科学もひとつの直観だったのだから)。
さて、僕は何が言いたいのか?
やはり、この世界、この地球、この生命、この人類には、
とてつもない秘密はあるのです。
目という光学的なセンサーがいったいどのように生まれたのか、
ちっとも分からないという秘密。
この秘密は、いずれ時間の問題で科学が答えを出し切れるものなのでしょうか?
どうも無理っぽいぞ、と僕は推理しています。
(解説だらけになるので、そう考えた理由は省きますが)
甘くない。ちっとも甘くない。
数百年の後にやっと証明されたフェルマーの定理以上の難問なのかもしれません。
で、あれば、証拠づけをコツコツとはやらずに、一発で答えを言い当てる「直観」の力に、頼るほかはないのかもしれません。
ベルクソンであれば、言い切ります。
生命には跳躍する力が潜在的に宿っているのだ、と。
だから、一気に、段階を経ずに、目を誕生させたのだ、と。
古生物学的に、生命の履歴を確認していっても、ちっとも、
目が誕生した過程が分からないのです。
しかも、目だけが!
「ふーん、跳躍する力かあ~。言われてみればそうなのかも」
と、うなづく人がいたとすれば、その人は無自覚なままに
神秘思想家になっているのだと言えます(断定)。
偶像を崇拝していないだけで、特定の宗教団体に所属して
いないだけであり、私の定義から言えば、十分に
「神」を信じていますね。
無自覚で、本人も自分が何をやっているのか分かっていないから、
性質(たち)が悪いのですが。
秘密というものがある。
そして、その秘密がとてつもなく壮大なものである。
その壮大さに、答えは出しようがない。
その時、秘密は、神秘(神の秘密)へと成り代わります。
神秘という言葉は、あえて使わなくても良い。
たとえ、無宗教の日本人であったとしても、
「でも、科学的に考えても分からないっていうんだったら、
確かに、生命には秘密の力があって、その力のおかげで、
生命は目を作ったという話には説得力があるよね。
それにロマンチックでもあるし、その考え方は気に入ったよ」
と考えるのであれば、その人は知らず知らずのうちに、
メタ・フィジカル(形而上学)的な考え方を受け入れています。
秘密を神秘と言い換えずとも良い。
形而上的の秘密と、神秘は、ほとんど同義でしょう。
この時、秘密は秘密として、その秘密の重みに耐え切れる人は、
極めて稀です。とくに現代においておや。
誰もが、充填させたがる。
空白を空白のまま、温存させ続ける人は少ない。
ここで、私は思うのです。
そして、共感するのです。
キリスト教の歴史、およそ6000000日を生き抜いて来た
人たちの意識を、バカにすることはできない。
私たちも、彼らも、同じだと。
秘密に対して耐えつづけること、説明できぬことを何とかして
説明したいという知性の働きを、自らの手で押さえることは
いかに困難だったか。
私は、懐疑論者ですから、ベルクソンの話にすぐに染まることはありません。
でも、なんたる美しさ。なんという洞察。
幾星霜の時を乗り越え、生命は、己自身でとっぴょうしもない
跳躍を試みる可能性がある。
これほどまでに素晴らしい生命擁護があるでしょうか?
私は選びます。
特定の形而上学を。
神とは形而上学なのです。
私はかなりの懐疑論者ですし、この日本という精神風土に生まれた以上、特定の宗教団体に所属して信仰を持つことは生涯ないでしょう。
とはいえ、私は無神論者ではありません。
私は、不可知論(アグナスティシズム)を大事にしたいのです。
私は、キリスト教徒ではないけれども、3世紀キリスト教における、アウグスティヌスの宗教論を、自分が人生を生きるうえで大事な形而上学だと捉えています。
一言で言えば、神の存在について、語らなすぎるのも、語りすぎるのもいけない。神は分からない。人智では分からないからこそ、神は素晴らしいというのが、アウグスティヌスの考え方です。
この不可知論は、ダーウィンが世俗の教会から攻撃された時に、
ダーウィンのブルドック(擁護人)と言われた、とある生物学者がさかんに持ち出した考え方でもあります。
とんでもないカルトにも興味はありませんせんし、ユングのシンクロニシティのような仰天ものの神秘思想にも付き合いたくはありません。
ですが、「壮大な秘密はあるのか、ないのか」、と尋ねられれば、
「本当にとてつもない秘密がこの世にはある」と答えます。
「その秘密とは神の摂理ではないか」と問われたら、「神の摂理とまではあっさり言い切れないが、極めて形而上学的、実質的には神とまで言ってもいいような出来事が確かにあるのであり、その摂理があると考えたところで、これは人間の直観力に基づくものなのだから、狂気ではない……以上の意味合いにおいてなら、しつこい懐疑論者である私だが、条件づきで、“神の摂理”があると認めても構わない」と答えます。
「神は論理的にいますか?」ときかれたら、論理という言葉に少し恥じらいを感じながらも、「あまり論理という言葉は好きではないが、たしかに神らしきものはいますね。神らしきものなのですが、いるのか、いないのか、といえば、絶対にいますね。あと思うのですが、偶像としての神に憎悪を膨らましたところで、大概は、ニヒリズムばっかりが生まれるんですよ。社会情勢を鑑みて判断力を行使するんであれば、神はいたほうが、いないより若干、マシでしょう」と答えます。
あー、長かった。
いや、大変ですね。神学を使わずに、自分なりに神はいるという話を論理的に展開するのは。
書いていても、なかなか面白かったです。
※帰りましたので再開します、お待たせしました。
●バチカンが進化論許容:知りませんでした。驚きです。
●お決まり文脈はよそう:話が早く助かります。
●目:目の進化についてナショナルジオグラフィックで読んだ記憶があったので、引っ張りだしてきたら、ありました。たしかにダーウィンは手をあげてたようですが、04年ごろに進化の過程が示されたそうです。カサガイの光受容体からオウムガイを経て、マダコの目にいたる、滑らかな推移が図で見られます。より具体的には割愛しますが、06年11月号に載ってます。
ただ、飛躍するものとしての目は一例として出されているわけで、これは別に反論ではありません。
●壮大で不可知なものがある:そう思います。
●直感は狂気ではない:そう思いますが、狂気でなければ真理というわけでもない。狂っちゃいないが間違ってはいる、ということはそこらじゅうにあります。すなわち、「神の摂理を直感できる=神は実在する」という式もなりたたないと思います。
●神らしきもの:ここがvoixさん論のポイントだと思っています。不可知なことをしでかす力、これを神と呼ぶなら、神は存在しそうな気がします。こういう理解で合っていますか?
ほかの方数名があげている、神は心の中に存在する、という論は「概念/想念」の話で実在という語がはまりえませんが、物理的結果を生む「力」の話であれば、質量はなくとも実在はしうるように思えます。
が、結局それでも「実在の可能性がある」にすぎず、実在の証明たりえない、というのが僕の感想です。
神はもっとも偉大な存在者であると定義できる。
神はいないと仮定する --------------(*)
ところでどんなものもそれより偉大なものがある。
すると、(*)を仮定すると、神より偉大な存在者が存在することになる。
これは矛盾である。
したがって、神は存在する。
この論理展開はどこかで聞いたことが。
2本のほぼ平行だけどすこしずつ近寄ってる線の話だったかな。。。数理論理学の本で読んだのかも。
きちんと思い出せないので、さておき。
面白いご回答ありがとうございます。
ただ3行目の根拠がなくはありませんか。おしい気がする。ぜひ再回答お願いします。
まず,私は無神論者です.自分にとって神はいないと思います.
それを踏まえた上での以下の回答です.
この問題は絶対に論理的証明は不可能だと思います....
そもそも"カミ"に限らず"自分"以外の意思の存在証明は不可能です...
"我思うが故に我あり"よってその人にとってのみ"自分"だけは確実に存在している事が確認できます.
しかし,"他人"となると話しは別です.
"他人"が考えている事は分かりません.
そこに意思が在るのか無いのかさえ分かりません.
分かったと思っている事は全て"自分"の感覚を通して見聞きした事のみです.
"自分"の意思は確かでも,感覚は全て錯覚or妄想かも知れません.
仮に脳に直接言葉聞こえたとしてもそれは"他人"の言葉では無く"自分"の妄想でないと誰が証明できるでしょうか.
結局,感覚を通してでしか存在の確認出来ない"他人"はそこに存在する事を証明する事はできないのです.
まぁ、それが"他人"の定義であり,もし感覚以外で"他人"を確認できたらそれは自分自身(多重人格とか)だからです.
故に、"他人"の存在は証明不可能です.
と言う事で,今回のお題は
「"カミ"と言う"他人"の存在を,"他人"であるneyorawaさんに証明する事」
なので絶対不可能です.
以上なり
#あと,"カミ"の定義ってなに?
証明不可能という証明。納得です。ncoreさんのご回答があると、僕は今後、実存証明にたいし反論する必要がなくなってしまうのかも。。。
今後の展開もぜひご覧ください。
神が何であるかを質問者のあなたの口から聞かねばどうにもなりませんなぁ。
ですなあ。
ここまでのコメントにもどこかで記しましたが、創造主としての神、すべてを統べる存在としての神、その神です。
神とは手塚治虫の「火の鳥」にでてくる
まさにあの火の鳥を言う。
全宇宙全時間に流れる生命エネルギーの集合体である。
読んだのが昔すぎてマンガの内容は詳しく覚えてませんが、その集合体の全体を統治する者はいない、という考えでしょうか。
つまり解釈次第では、私も楽天さんも神の一部で、すべてが自らを統べているのだと。言い換えれば統治者として全体を見る者(=神)はいないと。
読まないとなんともいえませんが、全体をもって神と呼ぶ、という解釈はありだとは思いますが、今回証明していただきたいのは統治者の実在です。
http://www.1101.com/hosaka/2003-06-30.html
「神の子が死んだということは、ありえないことであるがゆえに事実であり、葬られた後に復活したというのは、信じられないことであるがゆえに確実である」
西暦2世紀前後にいたテルトゥリアヌスという人
の実際の言葉だそうです。
また、こうもいっているそうです。
http://k-hosaka.com/merumagaK/07.html
「不合理ゆえに我信ず」
「神の存在を論理的に説明したもの」と聞いて、真っ先に思いだしたのがこれでした。
参考になりますでしょうか。
ありがとうございます。
もちろん参考になります。リンクも読みました。
テルトゥリアヌスの言葉(上)は平たくいえば、「起こり得ないことは存在しない」ということだと思いますが、その証明が欠落しています。あいつが俺のこと嫌いになるわけがない。ゆえに俺たちは結婚するんだ、に似てると思います。
(下)は文字どおり「我」信ず。おれは信じるよ。誰がなんといおうとね!のノリに聞こえます。もしかしたらそうでなくその裏に合理的な考えが潜んでいるのかもしれませんが、この文だけではそれはわからないので、コメントは差し控えさせていただきますね。
ブログ拝見しました。91年とはまた歴史がありますね。
科学では知り得ないことすべてを納得するための受け皿的論理。わかんないことは全部、神が引き受けますよ。ということですね。
そして不可知を受容するこの論理を、神として受け入れる人にとっては、まぎれもなく神という論理は実在するのだと。
つまり、その受容論理を「世の中説明できねーこともある」という風に単にとらえる人にとっては、その神は実在しないのだと。
とすれば、つまるところ、信ずるものの心の中には神はいる、ということになりますが、合っていますか?
合っているとすれば、すべての人のうえに絶対的に存在しているわけではない、という結論になり、実在証明にはなりえないと思います。
ご指摘のとおり、定義次第だとは思います。が、「神」の定義よりむしろ「いる」の定義かな、という気がしています。pwizさんの解釈は正しいと思いますが、今回は「創造主としての神、すべてを統べる者としての神が、実在するか」に焦点をしぼっていきたいと考えています。
ありがとうございました。
われわれの宇宙は、われわれの知る法則により、現在の定説ではビックバンから生まれました。
ビックバンは何故起きたのか?
諸説ありますが、ビックバン以前の空間を我々は断定できません。
それ以前がどうだったのか。
また現在はどうなっているのか。
不明な点の多い宇宙に住んでいます。
この考え方を前提とします。
井の中の蛙、大海を知らず
はたして今私たちのいる宇宙が井では無いと言い切れるでしょうか?
手の届く範囲しか認識できない為、言い切ることは出来ません。
言い切れないということは井の中に住んでおり、その外は認識できず、想像すら出来ないと考えることが可能です。
さて神の話です。
神とは今の私たちの及ばぬ知恵を持ち、知識を持ち、力を持っているのであれば、我々井の中にいる蛙は、もしその外に神がいたとしても、感じることは出来ません。感じる方法すらないと言えるでしょう。
感じることも出来ず、知ることも出来ない存在ではありながら、逆にそれらの要素の為に「存在しない」と全否定をする事が出来ない。
仮定が神の不在を断定する材料なく導けるのであれば、それは成り立つ可能性がある。
0ではないのであればいると言えます。
少し飛びましたね。ん。
たしかに最後のところ。。。
可能性がある、は認めますが、だから100%いる、はかなり無理あり! ということで、細かい反論はいたしませんw
ゲーデルの神の存在証明(en:Gödel's ontological proof)がwikipediaに載っていたので紹介します。
http://en.wikipedia.org/wiki/G%C3%B6del%27s_ontological_proof
"God, by definition, is that than which a greater cannot be thought. God exists in the understanding. If God exists in the understanding, we could imagine Him to be greater by existing in reality. Therefore, God must exist."
(神より偉大なものはいない。神は解釈の中にあり。神が解釈の中にあるのであれば、彼が現実として存在すると捉えることでより大きく彼を感じることができる。すなわち彼は現実的に存在する)
およそこんな訳で大丈夫でしょうか。論理式のほうはむずかしすぎてお手上げです、すみませんがこっちはスルーさせてください。
さて戻って英文のほうです。
1)神より偉大なものはいない:ここはそうであるとします
2)神は解釈の中にあり:論理は大きく2つに分けることができると思います。証明が目的の論理と、証明不在のままに説得を目的とする論理と。
今回ゲーデルが試みているのは、字義どおり証明ですので、論理形式も前者でなければならないはずです。
論理全体を、証明という目的のもとに展開させるためには、すべての命題、前提、設定が証明されている必要があります。
しかし「神は解釈の中にある」というこのことの証明はなされていません。ここにゲーデルのトリックがあると思います。
3)神が解釈の中にあるのであれば、彼が現実として存在すると捉えることでより大きく彼を感じることができる。:まあ、そうだと思います。オタク系がゲームのヒロインをできるかぎり現実にいると想像して脳内で脱がすのも同じことだと思います。
4)すなわち現実的に存在する:2で論理が破綻しているため、この結論は導きだせません。
★かなり手応えがありました。garyoさんにはいつもうならされます。
神を宇宙を創造した永久不滅でこの世を支配しているものと定義します。
この世は未知のものを含めあらゆる法則に支配されており、それらの法則の総体を神とすれば、科学者も神の存在を認めるでしょう。
天体の運行をコントロールしているのも科学の法則ですし、ビッグバンや進化も何らかの法則によるものでしょう。
悪が増えれば不幸な人が増え、善が増えれば幸福な人が増えるのは、人間社会の法則です。
この法則に気付いた人がいて神の教えになったのではないでしょうか。
自然科学も社会科学も、神の体を分析しているのでしょう。
神に支配されないのは、人間の意志だけかもしれません。
法則こそ神、という宗教観はありだとは思います。
思いますが、そこだけに割り切った宗教はあまり存在しないと思います。これってただ単に自然の神秘に対する畏怖にすぎないというか。原始的というか。
たいていの宗教はこの自然の神秘以上の神秘にふれています。罰、天国地獄、奇跡など。「法則こそ神」ではこれら超法則的なことの説明がつかないと思います。
神はいると思います。
この世はある規則(法則)に従っています。(例:重力の法則、質量保存の法則)。規則は誰かのある目的、意思により作られるものものです。人の意思により作られたものは法律です。この世の自然法則を人が作ったのでない以上、それを作った神が存在します。
なぜ神の存在をなかなか人は認められないのか。神が自然以上の存在であるということは、神は関数でいうところのF(x、y、z(位置)、t(時間))以上の存在であり、すべての場所のすべての時間に存在しているということであり、ある時間の3次元の特定された場所に存在するものしか理解できない人間にとっては、通常、神を理解(目視)する事は不可能ということになります。ただし神が自らの意思で、ある場所ある時間における存在確立を高めることで人が目視できる状態にすることは可能であり、それが歴史的な様々な証言となって残っていると考えられます。
一神教か多神教か、キリストかブッタかということは、あくまで人間的な解釈であり、重要なことではありません。科学そのものを神が創ったと考えれば、科学と宗教の対立も、何の意味のない事でしょう。これまでの様々な論争は、「こんなに神を信じている私が認められない(理解できない)のであるから、科学は間違いである」というやはり人間的な解釈(エゴ)でしかありません。
自然それ自体が自立して動いている、という可能性が否定できない限り、Ryuichiroさんのロジックは完全となりえないと思います。その点についてのコメントお待ちしてます。
この世を「こう」形作ったものを神と呼ぶのならば。
(全ての根源であるとするのならば。)
そりゃ、今私たちがここにいて世界も存在しているように思えているのですから、神もいるのではないでしょうか。人間みたいな形してたり意思があったりしたら個人的には興醒めですけど。
しかし確かに、細かく宗教ごとに色分けされ定義された神以外にも、なんとなく多数が認識として(否定する肯定するに限らず)「神」というものはあるような気もします。
これは日本の混成宗教状態だからこそなのでしょうかね。
きちんとした宗教を持った方らを半分くらい交えて話す、、、ことは今の世界情勢じゃ難しいのかなぁ。
遊びに参加させて頂いたつもりですので(質問が面白かったですw むしろ質問が一番)、コメント等お気遣いなく。
乗っかりポイントまではしませんが。
その興ざめ感、とてもよくわかりますね。
世界には多くの神と神話が存在しますが、多神教であれ一神教であれどの神も、まず世界を創造します。
ヤハウェが天地を創造したように、伊弉諾尊と伊弉冉尊が淡路島を創ったように、神は世界を創りました。
もし、神が世界を創造していないのならば、世界を創造したモノ、世界の頂点であるはずの神を超えるモノ(者か物かはさておき)が存在してしまい、神話、宗教、伝説の体をなしません。
つまり、世界を創造したモノ、世界の初めこそが神です。
現在、日本人の多くは宇宙がビッグバン(正確にはインフレーション)によりはじまったと考えています。
多分それは、非常に正しい可能性が高いでしょう。
しかし問題はその前です。
宇宙が存在する前は何があったでしょうか。
ビッグバンに必要な膨大な質量はどのように生まれたのでしょう。
また、宇宙の外側はあるでしょうか。
宇宙の外側が存在するならば、宇宙の外側には何があるでしょうか。
宇宙の外側はいつからあるでしょうか。
宇宙の外側が存在する前は何があったでしょうか。
宇宙の外側の外側は……。
これらは現在の“科学”では証明できていません。(何しろ“観測”できませんから。もちろん、いくつもの仮説はあります。そのあたりは、ニュートンの特集なりを読んでください。)
しかし、宇宙であれ、何であれ、最外郭、一番外側が世界には存在するはずです。
そして世界には必ず、“ハジメのハジメ”があるはずです。
もちろん世界が、ループとなり、一番外側が一番内側である可能性もあります。
あるいは輪廻となっており、初めがすなわち終わりかも知れません。
しかし、世界や時間が輪廻、無限ループを呈していると仮定した場合も、ループ、閉じた世界が”ある”という概念がいつか生まれているはずです。
世界がループであるならば、ループという概念こそが空間と時間を超えた世界の外側、“ハジメのハジメ”と呼べます。
つまり、世界が存在する以上、何かが世界を創った、あるいは、何かによって世界が生まれた、原因にあたる“何か”が存在します。同様に、その原因へ至らしめた“何か”があるはずです。その全ての先に、“ハジメのハジメ”があるはずです。
“ハジメのハジメ”こそが、神の本質です。
しかし、“ハジメのハジメ”には名前がありません。
なにしろ、“ハジメのハジメ”ですから、到底のことでは至れません。
そう、“ハジメのハジメ”が存在するとは知っても、“ハジメのハジメ”が何かは理解できません。
分からないと不安です。
だから、“名もない花には名前を付けましょう”?
いいえ、“名もない“ハジメのハジメ”には名前を付けましょう”。
ある人は“ハジメのハジメ”を、ヤハウェと呼びました。
別の人は、キリストと、また別の人はアッラーと呼びました。
東方世界では、天照大神や阿弥陀如来と呼びました。
神の正体こそが、“ハジメのハジメ”です。
“名前をつける”とは、すなわち存在を可視化、認識できる状態することです。
“ハジメのハジメ”という俗人には理解できないモノを名前のある“神”と呼ぶことで理解の範疇まで存在を下げることができます。(名前で縛る以上、“ハジメのハジメ”よりも狭く、小さくなります。)
人間の目線が届く範囲まで墜ちた神(墜ちたところで腐っても神です。俗人にとって、崇め讃える対象に替わりありません。)には、尾ひれや粉飾──神話や戒律や解釈やその他諸々が付属し、“宗教”と相成ります。
これが“神”の姿であり、本質は“ハジメのハジメ”です。
(注意して欲しい点は、宗教の、特に大きな宗教を生み出した人間は、自力で考え抜いた上に神の姿を見いだしました。彼らは決して“ハジメのハジメ”を矮小化させた人間ではなく、“ハジメのハジメ”に近づいた凄い人たちです。だからこそ、多くの人の賛同を得られました。)
もちろん、世界には“ハジメのハジメ”を安直に“神”と呼ばず、“ハジメのハジメ”のまま理解しようと試みる人も存在します。
哲学者と科学者です。
21世紀に生きる私たちには、科学者が“ハジメのハジメ”を求める探究者だと、容易に理解できるでしょう。
“ハジメのハジメ”にまでは未だ至れていませんが、ビッグバンには思考が到達しました。
宇宙の初めです。
宇宙を世界のすべてだと勘違いしている人が多い中、観測と思考のみで宇宙の初めまでに至りました。
これは本当にすごいことです。
ビッグバンを常識だと舐めている人間は考えを改めてください。
また、観測に重きを置く科学ではなく、思考を主とする哲学で“ハジメのハジメ”に至ろうと考えた人たちもいます。
アリストテレスやアルキメデスたち、そして流れをくむ哲学者たちです。
多くの日本人は哲学を実学でないとなめていますが(原因は福沢諭吉。)、哲学者たちはすごいです。
今の原子物理学を、電子顕微鏡もなしに、紀元前に思考だけで行っています。
本当に、人間の底のなさを感じさせられます。
このような凄まじい人間を生み出した、素晴らしい神に感謝します。(きれいに落ちた。)
大作ありがとうございます。
「世界のはじめこそが神」との解釈はなりたつと思います。が、実在はどうでしょう? 事象自体を名付けるのでなく、事象を起こし、意志をもってコントロールする「力」のようなものの実在。
自然はそれ自体が無意志に運行している、という可能性を否定できるでしょうか。
神は物理的に存在しないと思います。
概念的な物ですね。つまり、人の頭の中の存在だと言う事です。
信じている人がいると言う事は、その人の頭の中には存在しているということです。
信じている方にはこの答え方は不本意かもしれません。あらかじめお詫びしておきます。私も別に信仰を否定するつもりはありません。
そうなんですよね。たぶん信じている人のほとんどは「頭の中にいる」という無神論者のロジックには納得がいっていないし、自然を運行している法則こそが神だ、なんてことにも納得していない。ほとんどの人が、僕が質問でいっている意味で、「神が実在する」と考えている。
じゃあなぜ実在すると思うの?ということですよね。
神とは全知全能の存在である(と定義します)。
この「知」「能」は人類の知・能に限定されません。普遍的な現象に対する、知・能です。
普遍的な現象とは全ての自然現象・人工的な現象・いわゆる超自然現象なども包括します。宇宙全体の、という意味ではなく、宇宙やビッグバン以前の状態なども全て含みます。それが解明されているかどうかは関係ありません。多次元宇宙が・・・とか、光があるから時間が・・・とか、そういう理論とかを超越した「全て」とご理解ください。言うまでもなく全ての思想・理念・叡智なども含みます。
「全」とは「全て」であり、「全て」とは過去・現在・未来の「全ての時空」を指しています。
全ての「知」と全ての「能」は当然「全ての時空」の中で起こる現象なので「全ての時空」と「全知全能」は一致します。
すなわち、「神」=「全ての時空」という事になります。
翻って考えるに「自分」という個人は「全ての時空」の一部です。
一部分が存在しているということは、その母体たる「全ての時空」が必ず存在することになります。
「全ての時空」=「神」なのであなたという時空の一部が存在しているということが神が存在する証明になります。
最初の定義さえ間違ってなければ、これでご納得いただけませんでしょうか?
すべての事象それ自体が神ということですね。
22のippoさんへのコメントお読みいただけないでしょうか。
僭越ながら回答してみます。
ビッグバンという現象が前提のお話です。そもそもビッグバンというのは高密高圧の何らかの物質が爆発、その爆発により宇宙が拡がり世界が創られ、目一杯宇宙が広がりきると今度は収縮する、というものであったと思います。
この「高密高圧の何らかの物質」が世界の始まりとして存在していたのか、神という存在が創ったのか。私は無神論者ですので通説的な『神』は存在しない、というのが持論なのですが、世界の始まりの何か、先程から私流に申しておる「高密高圧の何らかの物質」、更に言うと「(爆発による)拡大・収縮の意図ないし性質を持った高密高圧の何らかの物質」これそのものが神であると考えることには肯定的です。世界即ち神という考えですね。私には『人間と同様(全知全能な感じの)一人格を備えた霊的な存在』を神とするよりも、上で既に述べた『ある運動(爆発・収縮)能力を有する物体』=神とした方がしっくりきます。
上の論ですと人格を有する所謂宗教的(と目される)な『神』が『いる』証明にはなりませんが、マチガイなく『("世界"という)神』は『在る』、ということでどうでしょう。
以上です。普遍的な意見としてではなく私という無神論者(上記論を是とするなら微妙に無神論でもないのですが…)個人の意見を述べさせていただきました。コメントで語られている『絶対者としてのGod』というのに関してはイマイチ言及できておりませんがご容赦を。
いえいえ全然僭越なんてことはありませんよ。
ありがとうございます。
ミズキさんのご意見へのコメントとしては、20以降の方への一連のコメントがあてはまると思います。重複になると思うので、すみませんが、そちらをお読みいただければ幸いです。
神とは人々が存在すると想像し、信じるものである。
よってこの世に信者が存在し想像力を膨らませ続ける限り「神はいる」
なんてのはダメか…
俺ぁヤヤコシイことはとんとわからねえ( ゚3゚)
(笑)
俺もわからねえので、みんなと考えてるとこです。
神はいる。は神は存在する。という意味と同じとします。
まず、「神」という畏敬の念を感じさせてしまうような存在で物事考えると主観がどうしても入ってしまうので、他のものを考えてみることにします。
神に限らず我々の解釈では、例え実際に存在していたとしても、我々が認識していなければ、存在せず、例え実際に存在していなかったとしても、我々が認識していれば存在する。としています。
例を挙げます。
・中世では「魔女狩り」がありました。その当時は実際に魔女は存在すると本気で信じられていました。ところが実際は存在しています。
・昔は真空の中にはエーテルというものが存在していると本気で信じられており、エーテルが存在すること前提で立式している時代がありました[これがなかなか結果が悪くなかった]。実際は存在しませんが。
・近世では光は粒子というものとして存在する。と本気で信じられていました。ところが粒子として存在すると考えると干渉現象を説明できないので、波動として存在すると考えられました。ところが、これだとコンプトン散乱が説明できない。結局現在は存在するけれども、粒子の性質も波動の性質ももったものとして存在していると認識されています。
・前の回答者さんが宇宙の話をされていましたが、神の一撃は本当の話です。「最初の一撃は神様です。あとのことは我々科学者が考えますから。」としたそうです。[そうしないと宗教上まずかった。]
逆の場合
・新しい元素が発見されるまでは、[実際には存在しているのにもかかわらず]その新しい元素は存在していないことになっています。例えば、メンデレーエフの周期表の数は非常に少ないです。ただし、キュリー夫人のような新しく作る元素とかはなしですけど。
・星もそうです。ずっと昔から存在しているのに、発見されるまでは存在していないことになっています。
・マゼランの地球一周もそうです。地球は円形としてもとも存在しているのに、平面として存在していることになっていました。
つまり、存在すると説明するためには、[実際に存在している]必要はありません。多数の人(全員である必要はないことが重要。全員そう信じていると真空も、エーテルから先に進まなかったでしょう)が存在していると思い込むだけで充分なのです。
「神」は非常に多くの人に存在すると信じられています。特に三大宗教は。
以上より、多数の人に「神」は信じられているのですから、神は存在する。と、いうことができます。
*と屁理屈をこねてみましたが、実際どうなのでしょうね。
うーん、そうですね。おっしゃるとおり、存在を「説明」するためには実際に存在することは不要とされる場合もあるでしょうが、存在を「証明」するためには、実際に存在することは絶対に必要だと思います。
私は,神と呼ばれたものは,全てあるとは思いませんが,ないというよりも,あるといった方が正しいと思います。
私の場合は,神がいるかどうか,という質問を,神と呼ばれた現象や物はあるか,という質問に変えて,神と呼ばれた現象や物はあると考えています。
それはそうですね。
否定しません。
ただ今回、特に焦点をあてたいのはやはり「実在」なので、ほかの方とのやりとりもお読みになってみてください。
http://homepage3.nifty.com/mgo/page21.htm
http://www.hannya.net/melmag017.htm
背理法を使わないと証明できないように思います。
ロジックを展開させる時間がないので、検索した結果をご紹介させてください。
上記リンクの内容はともかく(笑)、アプローチはこれしかないような気がします。
あと、この手の内容をアツく語るサイトのデザインがアレなのはなぜなんでしょうね?
時間のない中ありがとうございます。
やっぱりそうですよね。
ただやっぱり背理法は背理法でしかないですもんね。
しかしほんとにアレです。
神の存在は憲法20条で認定されています。
「信教の自由は何人にたいしても、保障する」との事です。
神とは、信じる人の心の中にあるのですから、質問者さんが いかなる反論をしようとも憲法違反です。
.
という冗談は置いといて、
神を「知性ある我々を創った意志ある存在」と規定します。
「知性ある存在」を意志的に創る事はできるのか、という問いには、できると答えましょう。人類がすでにロボット、コンピュータ、遺伝的アルゴリズムなどにおいて達成しています。(「知性ある存在」を無意志的に創るのが性交。デザイナーズチャイルドは少し微妙)
では我々自体は「意志ある存在」に創られたのでしょうか。
.
この世界が意図を持ち、創られた証拠は以下です。
植物の葉の色が鮮やかになったり、花の色が鮮やかな理由を考えてみましょう。植物自体には目がないのに。
また植物自体は口や胃がないのに食べられて播種する方法を選択するなんて、「知性ある人間」を創るための神の恩寵ではありませんか。
.
.
付記 基本的に無神論者なので、質問者さんの「神=統率者」論は違和感があります。「この世界を統率している」という一つの価値観で世界を意味づけてしまう事自体、「絶対者」がいる一神教の価値観かと思います。本文はthe Creatorとしての神をでっちあげてみました。
本文補足については
http://d.hatena.ne.jp/perfectspell/00000000
に書く予定
神の定義が端的でとても美しいなと思います。それです。
●当然ですが、知性ある存在を意志的につくることは可能、は、知性ある存在はすべて意志的に創造可能、とは別です。すなわち、ロボットを意志的に作れるからといって、人間も意志的に作れるとは言い切れない。このくだりの最後でperfectspellさんが「では我々自体は」と問われている、まさにそこです。
本題はそこから展開される「証拠」ですが、やはり疑問が残ります。
1:このロジックは信仰者からよく口にされる印象がありますが、なぜここで花を選ぶのでしょう。「鮮やかさ」を神の恩寵とするなら、花以外もすべて「鮮やか」でなくてはなりません。が、世の中には花とは対照的に醜いものも数多くあります。それらはすくなくとも一般的な感性の主観からすれば「鮮やか」ではありません。
2:仮に花が神と密接な関係にある特別なものだとして、その特別な存在だけが選択的に「鮮やか」だったとしても、「鮮やか」は主観にすぎません。
3:主観客観に逃げ込むのは卑怯として、仮に「鮮やか」が絶対的な「鮮やか」だとします。しかしなぜ「鮮やか」が神の恩寵なのでしょう? ただ「鮮やか」なのではないでしょうか。
●すみません、植物のくだりは意味を正しくとらえきれないのでコメントひかえさせていただきます。
●付記について。神の厳密な定義はあまり重要視していません。統治者、というのも正直、イメージを伝えるためにノリで書いてます。「心の中の神」とか「宇宙の法則」とかのことじゃないよ、信仰をもつ人が畏怖する、なんというか存在としての神のことだよ、って伝えるためです。ご指摘、もっともだと思いますよ。
「神はいる」と考える貴方がいる限り「神はいる」のでしょう。しかし、「神はいない」と貴方が考えるなら「神はいない」となるでしょう。
どんなに偉い人が「神はいる」と言ったところで、貴方が「神はいない」と思っている限り「神はいる」と言う証明になりません。
貴方がこの世に存在しないのであれば「神の存在」もなくなります。「神はいる」と信じる貴方がいるからこそ「神の存在」は証明されるのです。
禅問答のようですが「神の存在」は自分の中でしかできません。誰かに言われてどうなるものでも、誰かに言ってどうできるものでもありません。
「神の存在」を誰かに対してしようとするのは注意した方がいいでしょう。一歩間違えると「洗脳」ってことにされてしまいます。あくまでも主体的に信じるという形をとらない限り真の証明になりません。
これと同じように「地球はある」というのも説明できます。貴方が「地球はある」と思うからこそ「地球は存在」します。貴方が「地球はない」と思うようになったら、目の前に見えるものは「地球のようにみえる何か」になってしまうでしょう。
「××はいる」「××はある」の××にはあらゆる言葉を入れて説明することができます。ただし、「彼女」みたいに相手がある対象の場合は注意して使ったほうがいいでしょう。「それは妄想だ」と言われてしまうことがありますから(笑)。
iseekerさんいつもありがとうございます。ラスタマンの「I&I」、小説への入り方、でご回答いただいていました。
僕はいないと思っているけど実際にはいる、という可能性を追究する意図の質問です。
あたまのおかしな人が、「地面がない!」と叫んでいても、地面は絶対にそこにあるわけで。なんというか、そういうふうに、絶対的に存在する神がいるのかを問いたいと思っています。
実際、信仰者が信じている神はこれが多いと思うんですが、「あなたたちはなんでその存在を信じるにいたったの?」というのが気になっています。
端から宗教を見て思うに、信者の大半は「神の実存証明」を必要としていません。それでその人々が幸せならそれでいいとも思います。いろんな宗教観がありますし。
ただ、そんな中にも、神を実存するものとして論理的に納得し、信仰するにいたった人もいると思います。そして、その人たちは、どう納得したのか、こここそが今回つきつめたいポイントなんです。
> 「世界のはじめこそが神」との解釈はなりたつと思います。が、実在はどうでしょう?
> 事象自体を名付けるのでなく、事象を起こし、意志をもってコントロールする「力」のようなものの実在。
> 自然はそれ自体が無意志に運行している、という可能性を否定できるでしょうか。
“ハジメのハジメ”ではなく、「意志をもってコントロールする「力」のようなものの実在。」を神と呼ぶ場合の話をします。
世界をコントロールする力──世界の超越者に意思/意志があり、我々を作り動かしていると仮定します。
このとき、私たちは超越者の脚本通りに動かされているマリオネットですね。
では、私たちを操る超越者は、どのように生まれたのでしょう。
何もないところからは何も生まれません。
超越者が存在するなら、超越者を創った超越者も存在し、その超越者を超える……と、結局“ハジメのハジメ”に行き着ます。
やはり、“ハジメのハジメ”はだれの意志にも意思にもよりません。
“ハジメのハジメ”が誰かの意図によるモノなら、その誰かが存在する必要に駆られます。そして、その誰かも……。
突き詰めると、“ハジメのハジメ”はただ“在る”だけだと考えられます。
ここで、考えます。
なぜ、雨が降るのでしょうか。
なぜ、太陽が昇るのでしょうか。
なぜ、天災が起こるのでしょうか。
なぜ、大地に草木が芽吹くのでしょうか。
なぜ、命が生まれるのでしょうか。
21世紀に生き、科学を知るものにとって、この問いに答えることは容易です。(一部、未だ解明されていませんが。)
しかし、かつては、どの答えも分かりませんでした。
ここで人は、「なぜだろう」と考えます。
その問いの、一つの解が神話です。
雨が降るのはトールが槌を振るから、太陽が昇るのは天照大神がおわしまするから、地震が起きるのは……。
宗教も科学も、元来、“なぜ”に答えるために生まれました。(そして、究極の“なぜ”が“ハジメのハジメ”です。)
この“なぜ”に対する、一つの解答がキリスト教であり、一方の解がイスラムであり、また別の答えが仏教です。
“世界をコントロールする力”“世界を動かすルール”を、意思/意志を持つ超越者──神と仮定した一つの答えが、宗教の本質です。
さて、科学の発達に伴い、なぜ雨が降るのか、台風が来るのか、地震が起こるのかと、一つ一つの謎は解けてきました。
(正確には、模範解答と思われる解答が示されました。)
同時に、様々な出来事を同時に説明できる“法則”が見つかりました。
例えば、世界は“四つの大きなルール”に従って動いています。
四つの力は、「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」です。
現在は、その四つの力を、一つの力で占めそうと研究が行われています。
そのルールこそ、“世界をコントロールする力”──神です。
そして始めに書きましたように“世界をコントロールする力”も、辿れば“ハジメのハジメ”に行き着きます。
そう、“ハジメのハジメ”こそが神の本質です。
ありがとうございます。
初の反・反論です。
納得のいくご説明です。”この宗教観の中においては”神は確かに存在します。が、違和感を覚えます。そういう宗教観に基づいた宗教というのが実際にはほとんど、あるいは全く存在しないからだと思います。
「そういう宗教観」とは「世界を動かす意志をもった神」はいるが、「悪いことをしたら罰をくだす意志をもった神は存在しない」宗教観です。
もうすこし説明します。
たんに「ハジメのハジメ」が過去に一度あった、そして、世界がある法則のもとに運行されているーーこれだけではすべては動かすことのできない運命にすぎず、多くの宗教に見られる、あるいはこれこそ宗教の特質と呼ぶべき「祈り」「畏怖」などの必要がなくなります。
いっぽう、信仰者が「祈る」のは神の加護や慈悲を求めてのことで、また彼らが「畏怖」するのはたとえば神の怒りだと思います。
人間の行いによって、結果を変える意志。世界の宗教のほとんどの神は、これをもっていて、これがあるからこそ、宗教は存在、拡大しえるのだと思います。
そしてこのとき、罰と救いはセットです。救いのある宗教が多くある現代において、罰だけの宗教は勝ち得ません。いずれ消えます。
現在、世界に拡大している主要な宗教が設定している「人間の行いに判決をくだす意志をもった存在」としての神を、なぜ多くの人が信じるのか。ここをもうすこし掘り下げたいです。
ご意見、あらためてありがとうございます。
たいへんお待たせしました。castironさん、いつも刺激的なご回答、楽しませていただいています、ありがとうございます。今回は遠慮なく反駁させていただきますが、ご容赦ください。
「未知こそ神である」との前提で論が進められていますが、「神は未知なるもの」でこそあれ「神は未知ということそのもの」ではないと思います。
個人的いち解釈でなく、「万人のもっている神のイメージ」からひねくれず判断するに、です。
「神=未知」のロジックにおいては、未知であることはすべて神となり、宇宙の果ても神、人間の心も神、ひいては僕にとって僕の知らない知識はすべて神となって、ちょっとおかしなことになりそうです。
反論、お待ちしてます。