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匿名質問者

【江戸時代の時刻の言い方】の質問ですけれど、①武士は十二支を使っていたということなんですか、果たして、それはいつ頃からなんでしょうか。江戸に住む武士だけでなく、各地の武士はどうなんでしょうか。②公家も、同じでしょうか。朝廷がどうであったか、それと同じだろうと推測していますが。③数字で言っていたようですか、それは鐘の打つ数から来てるということらしいのですが、すると、江戸だけでしょうか。全国各地(ます、大阪と京都)、そして、その他の城下町はどうでしょうか。それぞれ、鐘があったのでしょうか。

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  • 登録:
  • 終了:2025/01/26 01:14:47

回答1件)

匿名回答1号 No.1

①と② 十二支の歴史は古く、中国の古代王朝に端を発すると言われています。

と言うよりも文字記録されている最古の文字が中国古代王朝時代と重なると言うだけで、最古の干支の起源は確定していないと言えるでしょう。

当時は中国も多民族国家が郡立していたから、メソポタミア辺りからの伝承である可能性すらあります。

日本で干支の記録が残るのは遣隋使以前まで遡ります。

大和朝廷が朝鮮半島から植民してきたときには既に干支を携えていたというのが正確なところでしょうけど状況証拠しかありません。

 

③ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#%E6%99%82%E5%88...

 

日本で時刻を十二支にあてたのは推古天皇(聖徳太子の時代)が最初のようですね。

江戸時代には歌舞伎などの庶民の娯楽にも干支が登場したようで当時としては洒落た言い回しだったようです。

他1件のコメントを見る
匿名質問者

メソポタミアは、

12進法が生まれたとも聞きますし、

星座も12宮あります。

十二支が12であることが、無関係だとは思いにくいです。

倭の五王(また、卑弥呼など)のときに、

時刻というものについて、

どのような遣り取りをしていたのか、と思います。

中国王朝と日本からの使節との会話で、

時刻の概念とか言い方とか、そういうことは話されなかったのか、

そういうふうところ、気になります。

2025/01/14 21:40:41
匿名回答1号

古墳の天井に四神などが描かれた高松塚古墳などの例もありますし、古墳時代のいつ頃かには伝来していたのは確実です。

記紀に書かれたもっと古い時代が正しいのでしょうけど、残念ながら記紀は時代感覚がアバウトで信用できない部分が多すぎるので正確なところは分かりません。

邪馬台国の時代まで遡ると文字すら無かった時代ですが、朝鮮系の移民には既に普及していた可能性が高いと言えます。

2025/01/14 22:23:12
匿名質問者

質問者から

匿名質問者2025/01/14 21:41:22

鐘を撞いて、時を伝えるという時報のシステムですが、

下記のセイコー様のホームページによると、

  当初は、江戸の町だけであったようですが、その後、

  全国へ広まったようでした。

  ただ、これは、全国の主要な城下町(また、門前町や宿場町)なら

  そうかもしれないのですが、

  農村地帯ではどうであったのだろうか、と思いました。

  また、山村や漁村はどうであったのか、

  そこも私には、ハッキリとはわかりませんでした。

   https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_07/

「17世紀中頃になると、全国的な規模で「時の鐘」の「捨て鐘」による連動を伴った、時報システムが拡大して行き、全国津々浦々、鐘の鳴らない所はなかったとまで言われるようになりました。このように一つの国で、これだけの時報専用設備を網羅して、人を配置して遅速なくそれらを連動して鳴らすという時報システムは、鉄道や電信などが発達していた19世紀末の欧米諸国でも見られない画期的な事であり、現代の鉄道の運行ダイヤをはじめとする時刻に細かいとされる日本人の素地が、既に出来上がっていた一つの例では、と思われます。」

  • 匿名回答2号
    匿名回答2号 2025/01/14 11:48:47
    武士に限らず、江戸時代までは全国的に時刻を干支で示していました
    (以下雑学的な話なのでコメントに書きます)

    ・時刻を干支で表す名残として、現代でも昼12時前後を指す「午」の刻を使った、「午前」「正午」「午後」などの言葉が残っています

    ・時間を2時間ごとに干支に当てはめているわけですが、正確には日の出と日の入の時刻を基準に等分しているため、春分・秋分の日以外は昼と夜で一刻の長さが異なります 

    ・時刻を数字で表すときは子の刻を「九つ」、丑の刻を「八つ」・・・巳の刻を「五つ」と数字が減っていって、次の午の刻が「四つ」かと思いきやなぜか「九つ」に戻り、もう一度数が減って「五つ」までで1日となります

    ・現在でも昼食と夕食の間食の事を「おやつ」と言いますが、これは未の刻を「八つ」という所からきています

    ・ゆったりした時代ですので、2時間ごとの時間区分でたいして問題なかったものと思いますが、もう少し細かく分けたい時は現在のおよそ1時間にあたる長さを「半刻」と言ったり、一刻を1/4に区切った数字で「丑三つ刻」(いわゆる「草木も眠る丑三つ時」ですね)という使い方もします

    ・前述の数字で表す時刻が9~5までなのは、陰陽道的にうんぬんかんぬんと言われますが、案外一刻を1/4に等分したときの「一つ」「二つ」と混同しない目的もあるんじゃないかと思います




  • 匿名質問者
    匿名質問者 2025/01/14 21:26:52
    レファレンス協同サービス(国立国会図書館)で、次のような情報がありました。 
    これを見ると、数字で表わす方法は、延喜式ですでに書いてあるようです。
    政府の法令、つまり、法律/政令/府省令といったところかな、と思います。
    延喜式にあるということは、中国ですでにそうであったのだろうと思います。
    唐王朝からでしょうか。唐の律令でそういう時刻関係がカバーされていたのか、
    当方の能力では調べきれませんが(中国大陸は、すでに唐は滅んだばかりで、五代十国の時期です)。

      https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000025881

         ****************

    『国史大辞典 7巻』の「時法」の項には、「混乱を避けるために、暁九ツ・八ツ・七ツ・明六ツ・朝五ツ・四ツ・昼九ツ・八ツ・夕七ツ・暮六ツ・夜五ツ・四ツと呼称された」とあります。
     『古時計』(新装改訂版 塚田泰三郎等著 東峰書房)のp101に、時計盤に見たてた一覧があります。
     『日本の時刻制度』(橋本万平著 塙書房)には次のように述べられています。
     「延喜式に見られる時報の数は、後世まで襲用されているのであるが、何故にこの様に子午で九つ、丑未で八つという様な不思議な数が使用されるようになったかについては、首肯し得る説明は見つからない。次の様な説もあるが、いずれも信用できない。」 
     「第一は、陰陽思想から発したものである。陰陽思想では九という数字を非常に重視し、日中及び真夜中の時刻すなわち午の時と子の時には九九の、十九が九で九を打ち、以下順に申寅では三九の二十七で七つ、酉卯では四九の三十六で六つ、戌辰では五九の四十五で五つ、亥巳では六九の五十四で四つを打ったというのである。
     第二の説は、日暮れである申の時を基準として、十二支を逆に勘定し九番目に当たる子時に九つ、八番目である丑の時に八つ、以下順に七つ、八つと鳴らしていった。又他方、夜明けである寅を基準として逆算し、九番目の午の時から同様に九つ、八つと打っていったとするのである。全く荒唐無稽に近い説であるが、現在ではこれ以外の説明は見つかっていない。」
     また、『大江戸テクノロジー事情』(石川英輔著 講談社)では、「なぜこんな奇妙な数え方をするのか、その理由についてはいろいろな説があるが、いずれも現在のわれわれが納得できるような合理的な意味はない」


         ****************


     回答2号様の
       >案外一刻を1/4に等分したときの「一つ」「二つ」と混同しない目的も
       >あるんじゃないかと思います
     はとても、説得力があると思いました。そのような実用面への配慮も、
     あったのだと思いたいです。

  • 匿名質問者
    匿名質問者 2025/01/14 21:43:42
    有難うございました。貴重な情報有難うございました。


    https://mag.japaaan.com/archives/120557  
    で、
    「●江戸で幕府を開いた徳川家康は、以前よりかわいがっていた奈良興福寺の蓮宗という人物を江戸城に招き入れました。そして家康が蓮宗に何か望みはないかと聞いたところ、『時を知らせる太鼓を叩く役目をしたい』と申し出たのです。家康はそれを聞き入れ、蓮宗は“卯の正刻(午前6時頃)”と“酉の正刻(午後6時頃)”の日に2回、時を知らせる役目を任じられ太鼓が鳴らされるようになりました。
    徳川二代将軍秀忠の頃には2時間ごとに鳴らされるようになり、その役目は蓮宗の子孫が担うことになりました。
    そしてその子孫である辻源七という人物が、寛永3年(1626年)日本橋本石町3丁目に約200坪の土地を拝領し、鐘撞堂を建て鐘を撞いて時を知らせるようになりました。これが江戸で最初の「時の鐘」となったのです。」
    「●江戸の町に「時の鐘」が鳴り響くようになって、初めて民衆の中に「数で時刻を数える」という感覚が浸透していったのです。」
    とありましたので、
    数字で表すのは、江戸の町の特有の話かなと思いました。鐘の音が届く範囲です。
    少なくとも江戸初期は鐘が鳴るのは江戸の町であり、
    鐘が鳴らないのに、数字で、一般の人々が時刻情報をやりとりするのは、
    どうかなと思った次第です。
    しかし、鐘を何回撞くかという話が、そもそも、ありますね。
    何回撞くかを決めるにあたり、陰陽道の考えを使ったという憶測も成り立ちますね。
    9~4の六つの数字を使うようになったのは、一刻を4つに割るって使う為ではないか、
    というのは、鋭いご指摘ですね。
    すくなくとも、すんなり受け入れられ、混乱も招かなった理由だと思いました。
    次のように、改めて整理してみました。

    ①十二支で表わすのは、時間であり、約2時間です。
     例えば、ちょうど夜中の12時であれば、それは正刻ということになります。
     子の刻が始まるのは今でいう23時近辺であり、子の刻が終わるのは今でいる01時近辺で、
     その真ん中が正刻です。
     ちょうど正刻のタイミングで、鐘を撞くことになったようです。

     ちなみに、例えば。
     明け6っつの鐘のタイミングでは、卯の刻は約一時間前に始まっています。


    ②十二支で数える方法のほか、数字で数えるという作法もあった。
     数字で数える方法は、鐘を撞くというやり方と馴染みやすい。
     一日を12で割り、さらに、2で割るという前提では、六つの数字が必要になる。
     十二時辰のやり方には、
     一刻(約2時間)を、4つに細分する方法(四刻)があり、つまり、約30分である。
     なお、「一刻」「二刻」「三刻」「四刻」という言葉があるので、それとの混同を避けるためには、
     「9~4」が最も都合が良い。

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