窓の外に流れゆくありふれた町並は、ことのほか私に痛みをもたらした。
隆とふたりでよく行ったイタリアンの店。
初めて指輪を買ってもらった小さな雑貨屋。
そのひとつひとつにある小さな幸福の記憶に、じくじくと胸をしめつけられる。
「きれいでしょう」
ふいに、運転手が言った。
一瞬、なんのことかわからなくて返答に詰まってしまった。
「黒髪山の紅葉はね、毎年このへんのテレビで特集を組んでやるんですよ」
あぁ、紅葉のことね、と気づいてタクシーの進行方向に目をやった。
はるか前方に臨む小高い山が、なるほど赤く染まっている。
「そうですね。きれい」
と一応相槌を打ってみた。
私の心情を知ってか知らずか、運転手は話し続ける。
「黒髪山って名前の由来はね、昔このへんに、近所でも評判の美しい黒髪の女がいたそうなんです」
「はぁ」
「それが男に捨てられて、首を吊ったんだね。あの山で。
それで黒髪山って言うらしいんですけどね」
「へぇ…」
わたしはぴんと来た。
「それでね、あの紅葉のあんなにも鮮やかな紅色っていうのは…」
「女の血の色?」
「その通り!」
クイズ番組のように間断ない遣り取りに、ふふっ、と私たちは笑った。
笑った自分にすこし驚いた。
驚いて、うれしかった。
だからわたしは会話を続けることにした。
「怖いですね。女の情念って」
「ははは。いやしかし、おかげで毎年こんなに綺麗な紅葉を拝めるんですからな。怖いばかりでもないでしょう。
女ってのは不思議な生き物ですよ。脆いと思えば頑丈で、しかしやっぱり不安定で、執念深くて。
なにやらうまく言えませんが、混然としていて、何がなんだかわからない。
そのわからなさも、女の美しさなんだとぼくは思いますな。
…いや失礼、お客さんの前で」
「いえ、いいんです」
情念が深すぎた女の、血の色の美しさ。
その血の色が、年毎に見る人の心を静かに揺さぶる。
前方に結婚式場が見えてきた。
流行りのプロヴァンス風の建造物が、広い芝生の庭の奥に建っている。
わたしと隆は、ここで式を挙げる予定だった。
「そろそろですね。どのへんで降ろしましょう?」
運転手が、仕事の顔に戻って声をかけてきた。
しばし考えて、わたしは言った。
「ごめんなさい。目的地を変えてもよろしいですか?」
「おや」
運転手はくすっと笑った。
わたしのこれまでの一連の言動から、何かを悟ったようだった。
「ここはやめて、向こうの…」
「黒髪山?」
「その通り!」
わたしたちはしばし笑い合い、タクシーは濡れ落ちそうに鮮やかな紅葉を目指して走り抜けた。
全てをあの恋に注いでいました。
どんなに忙しくても、
あの店で毎晩あの人を待っていました。
どんなに忙しくても、
あの人は毎晩会いにきてくれました。
全てを注いでいたから、今はこんなに空っぽに感じられます。
目を閉じるとあの頃が鮮明に浮かんで一層
今が空しいのです。
私を気遣ってか
運転手がつけたラジオからノイズ交じりで流れてきたその歌は
いつもあの店に流れていた歌で
涙がこぼれた私は声を殺して
逃げ出すようにタクシーを降りてかけ出しました。
すてきですね。
ありがとうございました。
遠くに汽笛を聞きながら、車にゆられて思い出の場所に着きました。
あのころとちっとも変わっていないその場所は、一人だけの私を
そっと受け止めてくれました。
もう泣くのはやめよう・・・私は、そうかすかに決意して その場を
立ち去りました。
これからの私は、今までの私じゃない。
新しい私なんだ、そう言い聞かせるように 一歩、一歩しっかり踏み出したのです。
つづく・・・。
ありがとうございました。
その場所を指名して、運転手さんに告げる。
運転手さんはただ「はい」とだけ告げる。
目的地について運転手さんは一言。
「お代はいりませんよ。私が出来ることはこれだけです。。。」
彼女はこらえる涙を我慢しながら、精一杯の笑顔でそのタクシーを離れた。
座席にはしっかりと1万円札を残して。
きれいですね。
ありがとうございました。
窓の外に流れゆくありふれた町並は、ことのほか私に痛みをもたらした。
隆とふたりでよく行ったイタリアンの店。
初めて指輪を買ってもらった小さな雑貨屋。
そのひとつひとつにある小さな幸福の記憶に、じくじくと胸をしめつけられる。
「きれいでしょう」
ふいに、運転手が言った。
一瞬、なんのことかわからなくて返答に詰まってしまった。
「黒髪山の紅葉はね、毎年このへんのテレビで特集を組んでやるんですよ」
あぁ、紅葉のことね、と気づいてタクシーの進行方向に目をやった。
はるか前方に臨む小高い山が、なるほど赤く染まっている。
「そうですね。きれい」
と一応相槌を打ってみた。
私の心情を知ってか知らずか、運転手は話し続ける。
「黒髪山って名前の由来はね、昔このへんに、近所でも評判の美しい黒髪の女がいたそうなんです」
「はぁ」
「それが男に捨てられて、首を吊ったんだね。あの山で。
それで黒髪山って言うらしいんですけどね」
「へぇ…」
わたしはぴんと来た。
「それでね、あの紅葉のあんなにも鮮やかな紅色っていうのは…」
「女の血の色?」
「その通り!」
クイズ番組のように間断ない遣り取りに、ふふっ、と私たちは笑った。
笑った自分にすこし驚いた。
驚いて、うれしかった。
だからわたしは会話を続けることにした。
「怖いですね。女の情念って」
「ははは。いやしかし、おかげで毎年こんなに綺麗な紅葉を拝めるんですからな。怖いばかりでもないでしょう。
女ってのは不思議な生き物ですよ。脆いと思えば頑丈で、しかしやっぱり不安定で、執念深くて。
なにやらうまく言えませんが、混然としていて、何がなんだかわからない。
そのわからなさも、女の美しさなんだとぼくは思いますな。
…いや失礼、お客さんの前で」
「いえ、いいんです」
情念が深すぎた女の、血の色の美しさ。
その血の色が、年毎に見る人の心を静かに揺さぶる。
前方に結婚式場が見えてきた。
流行りのプロヴァンス風の建造物が、広い芝生の庭の奥に建っている。
わたしと隆は、ここで式を挙げる予定だった。
「そろそろですね。どのへんで降ろしましょう?」
運転手が、仕事の顔に戻って声をかけてきた。
しばし考えて、わたしは言った。
「ごめんなさい。目的地を変えてもよろしいですか?」
「おや」
運転手はくすっと笑った。
わたしのこれまでの一連の言動から、何かを悟ったようだった。
「ここはやめて、向こうの…」
「黒髪山?」
「その通り!」
わたしたちはしばし笑い合い、タクシーは濡れ落ちそうに鮮やかな紅葉を目指して走り抜けた。
ラストが少し気になります。
すばらしい作品をありがとうございました。
「どちらまで?」
「・・・・海、海岸までお願いします」
「はい」
タクシーは静かに走り出しました。優しい運転です。この先のガソリンスタンドのある角を曲がると・・・・。
あ・・・・、スタンドがありません。いつの間にか、流行りのファミレスに変わっています。時の流れを感じます。
ファミレスの角を曲がると、今まで黙っていた運転手さんが、前を向いたまま、そっと語りかけてきました。
「窓、開けていいですか?」
「あ、は、はい」
すーっと窓が開きます。ぱあっと入り込む潮の香り。ああ、これだけはあの日と全く変わりません。
「どうです、いい香りでしょう」
「ええ、とても」
車は急な坂道にさしかかりました。と同時に、左手に海原が広がります。傾斜した車内から見る海は、まるで水面が盛り上がっているように見えます。
うわー。私は、悲しみも忘れて、その雄大な眺めに見入っていました。いつしか車は平坦な道に入り、そして海岸線に横付けされました。
「ここでよろしいですか?」
「あ、はい」
懐かしいこの場所。あの日と変わらない穏やかな海。真っ青な青空の下に、波の背がきらきらと輝いています。
「お帰りはどうなさいます?」
「あ・・・・」
「ここでお待ちしますよ。なあに、個人タクシーですから、メーターは止めておきます」
「い、いいんですか?」
「はい。私もちょうど休憩がほしいと思っていたところでしたから。ごゆっくりどうぞ」
運転手さんの優しい笑顔に送られながら、私は波打ち際へと歩を進めました。靴を脱いで、砂浜を歩いてみます。素足に砂が心地よく感じられます。ちょっと波に足を浸してみます。ひゃっ、冷たい。気になってタクシーの方に目をやってみると、車の外に出ていた運転手さんが大きく手を振ってくれました。もっとゆっくりどうぞ、と言ってくれているようでした。
私は一時間ほどを海岸で過ごし、タクシーに戻りました。
「すいません、遅くなってしまって」
「いいんですよ、もう、お気持ちは落ち着かれましたか?」
「・・・・あ・・・・」
私は気が付きました。あの日、この浜に来て、そして恋人と別れた私を、今日と同じように乗せてくれた運転手さん。泣き顔の私を、何も言わずに駅まで送り届けてくれた運転手さん。それがこの人だったのです。だから、ただ海岸へと言っただけで、ぴったりあの日と同じこの浜へ、車を着けてくれたのでしょう。
再び車が走り出しました。
「実は私も、この浜には思い出がありましてね」
運転手さんは静かに語り始めました。
「私も、ここで最愛の人と別れたんです。この浜で、海を見ながら泣き続けましたよ。でもね、今は優しい妻と可愛い子供たちに恵まれて、とても幸せなんです。あの日の別れがあったから、今の妻と出会ったということですかね」
運転手さんはそれだけ語ると、あとはずっと黙ったままでした。私がちょっと泣いていることに気が付いたのでしょう。
車が駅前に着きました。車を降りると、運転手さんが微笑んで私を見送ってくれました。
「次は新しい恋人と、きっとここにやってきます!!」
私は振り返って、そう言いました。運転手さんはこぶしをぎゅっと握って見せながら、うん、とうなずいてくれました。私の新しい日々が、今、ここから始まります。
さすがですね。
いつもありがとうございます。
ラストが少し気になります。
すばらしい作品をありがとうございました。