若い頃は新刊ばかり読んでいたが、経験を積んでからは時間の無駄と悟ったため、現在の読書傾向に落ち着いた。本は時の淘汰を待ったほうがいい。本当に必要な本なら読むべき時はいずれ来る。
著者は映画評論家ではなく市井の映画マニアらしい。内容は専門家裸足といった感じで充実していた。
本書はルビッチとスタンバーグから説き起こし、1940年代から50年代にかけてのフィルム・ノワールを概観していく。フィルム・ノワールは戦争という暗い時代の産物であり、たとえば30年代のギャング映画はそこに含まれない。フィルム・ノワールの人間観は、普通の人と思われていた人も実は普通ではないというもので、身につまされる恐怖感こそがこのジャンルの神髄なのだという。主人公と同じシチュエーションに置かれたら、自分も同じ行動をとるに違いない。そういった共感が肝のようだ。
この定義が正しいかどうかはともかく、「身につまされる恐怖感」は僕もフィルム・ノワールを見るたびに感じているので、わりと的を射ているような気がした。しかし著者は触れていないが、フィルム・ノワールは男性映画だろう。というのも、これを見て身につまされるのは男性だろうから。著者は1941年生まれであり、本書は2002年刊行である。ジェンダーの視点がないのも無理はない。本書の想定読者は男性のような気がする。
フィルム・ノワールの時代が終焉したのは、赤狩りと朝鮮戦争とテレビが原因らしい。
ハリウッドを蝕んだ赤狩りは、優れた映画作家たちから仕事を奪い、仮に仕事はあっても、野心的なテーマを扱う意欲を減退させ、映画そのものを停滞させる結果となった。
朝鮮戦争は資本主義対共産主義という、それまでとは違ったイデオロギーの戦争だった。当然この時期に作られた映画には、反共を前面に掲げた作品も少なくなかった。第二次大戦中に多くの反ナチ映画が作られたのと、事情は同じだった。
テレビの攻勢で映画館から客が遠のくという困った事態に直面したハリウッドは、新たな対応策を求められるようになる。ワイドスクリーンと大作化である。テレビでは味わえない映画を作ろうという考えである。逆に低予算で作られていたB級映画は、テレビにまかせるという考え方だ。ハリウッドはB級映画をテレビのシリーズものにし、その製作も請け負い、共存を目指そうという戦略をとる。
ハリウッドのプロデューサーたちは、このような時代の要請を無視するわけにはいかず、映画作りの戦略を変更するようになる。かくして、次第にフィルムノワールの出番は少なくなっていく。(pp.226-227)
時々著者の思い入れが噴出するのはご愛嬌として、本書はフィルム・ノワールをハリウッド史と絡めて論じているところが良かった。発端から終焉まで過不足なくまとめていて参考になる。
著者は社会学部の助教授(当時)。本書は現代社会学選書(全8冊)の1冊で、フィルム・ノワールという概念の変遷を追い、その概念が孕む矛盾を明らかにしている。
フィルム・ノワールとはカラーの時代から振り返ったノスタルジーであり、特徴とされる紋切り型も、当時のハリウッド映画の特徴に過ぎないことが暴かれる。新井達夫『フィルムノワールの時代』と違って学術的な本だった。多数の文献に当たっている。
フィルム・ノワールが何を指すのか具体的に指摘するのは難しい。
要するに、フィルム・ノワールという現象に固有の厄介な事情は次のようなものである。フィルム・ノワールを語る者は「フィルム・ノワール」という語が指し示す特定の映画の集合について、つねにすでに一定の厚みと強度をそなえた記憶や心的表象を持っている。しかしその記憶や心的表象は、西部劇やミュージカル、あるいはギャング映画のように社会的・制度的に共有されていない。換言すれば、フィルム・ノワールはそのような「ジャンル」とは異なった特殊な出自を持っているのだ。したがって、フィルム・ノワールを語る者は強迫的に定義や説明へと駆り立てられることになる。けれどそれは、知識の社会的配分の偏りを是正するといった善意からではなく、むしろ、彼らが持っている記憶や心的表象が、けっして確固たる知と呼べるようなものではないことを彼ら自身が自覚しているという居心地の悪さからなのである。なるほど理論的な明確化の試みも積み重ねられてきた。とはいえ「フィルム・ノワール」はあたかも固有名のようなものであり、少なくとも「確定記述の束」に還元しようとする類の試みはことごとく失敗に帰したといって過言ではない。フィルム・ノワールの謎、それは個々の映画という対象の側にあるのではない。それはフィルム・ノワールを語る者たちの側、つまり言説のなかで主体化された者たちの側に、あるいはそのような言説という出来事のただなかにこそあるのだ。(pp.11-12)
これはアメリカン・ニューシネマ(ニューハリウッド)も同様で、今年の8月にネット上で論争があった。
フィルム・ノワールもアメリカン・ニューシネマも確固たる概念が共有されてない。だから映画ファンの間で無駄な争いが生じてしまう。僕のような素人が言及すると火傷を負うのは必定だ。触れずに粛々と映画を見るしかないのだろう。
ところで、アメリカにおいてメロドラマとは元々「アクション、冒険、スリル」を主眼とする「男性的な」映画を意味したのだという。1940年代の犯罪映画は殺人メロドラマなのだそうだ。僕はメロドラマに女性的なイメージを抱いていたので、この指摘は興味深かった。
星5をつけたので年末まとめ記事に書く。
pulp-literature.hatenablog.com
キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』【Amazon】を起点としてフェミニズム思想の展開の中にケアの倫理を位置づけている。本書はフェミニズムの本であると同時に哲学の本でもあり、カント的な正義論の限界を暴露しているところが面白かった。ケアの倫理は近代リベラリズムの盲点だったようである。
ジョン・ロールズ『正義論』【Amazon】は方々から批判されたが、ケアの倫理から見ても瑕瑾のある代物だった。完璧な理論を作るのは難しい。
フェミニズムとは本質的には運動であり、理論は運動を補強する材料に過ぎない。そのダイナミズムを既存のリベラルが吸収できなかったのがショックだった。
古代においてケア労働はもっぱら奴隷が担当していた。そう考えると、女性に押し付けられがちな現代においてその問題は根深い。
なお、日本のケアの現状については上野千鶴子『ケアの社会学』【Amazon】が参考になる。2011年出版の本。上野は「ケアは個別ケアが望ましい」と書いているが、その後色川大吉の介護を彼女がしていたことを考えると、有言実行の人なのだなと感心する*1。
ビッグ・ブラザー(『一九八四年』【Amazon】)の時代からリトル・ピープル(『1Q84』【Amazon】)の時代になった、というのがおおまかな趣旨で、村上春樹の小説を足掛かりにサブカルチャーの分析を行っている。ウルトラマンをビッグ・ブラザー、仮面ライダーをリトル・ピープルに見立てていたのが面白かった。
第一章の村上春樹論は読む価値がある。というのも、フェミニストがなぜ村上を嫌うのかの答え合わせになっているのだ。村上作品における女性の扱いが、フェミ嫌いの僕から見ても相当酷い。ほぼ一貫して、男性主人公が支払うべきコストを女性が肩代わりする歪な物語構造になっている。こういう小説が老若男女に受けて世界的ベストセラーになっているのが不思議だ。世間はポリコレなんて求めてないことの証左になるだろう。
第二章では仮面ライダーシリーズの分析を行っている。このジャンルはあまりよく分からないが、同シリーズが好きな人は楽しめるのではなかろうか。特に平成ライダーシリーズの論考が充実している。門外漢の僕が読んでもまあまあ面白い。
しかし、本書で一番すごいのはあとがきだ。ここでは村上春樹的なナルシシズムの記述で父への思いを語っている。宇野常寛というペンネームの由来があまりに特殊で面食らった。ラスト一文も強烈で余韻が残る。この人はサブカルを語るより自分を語ったほうがよっぽど面白いのではないか。
ところで、糸井重里的な「悪」はビッグ・ブラザーなのかリトル・ピープルなのか。コピーライターだけあって言葉がするりと入ってくるところが怖い。
カナダ在住のユダヤ人によるシオニスト批判。緊急出版と銘打っている。急いで翻訳したせいか、翻訳が直訳調で読むに堪えなかった。
結局のところ、イスラエルはヨーロッパの歴史の鬼子であり、あのようなならず者国家になったのも必然なのだろう。歴史的な蓄積や大国の思惑といった外的要因が大きい。そこは同情する。しかし、だからといってシオニストが免責されるわけではなく、自分たちが受けてきた苦しみを他者に与えるのは筋違いである。僕はそう思うし、大方の日本人もそう思っているのではないか。
古いナショナリズムを未だに堅持しているのは累積的な抑圧経験によるもので、子育てにおける虐待の連鎖を想起させる。
ドイツが過去の反省からイスラエルに強く出られないというのも情けない話だ。
単行本で読んだ。引用もそこから。
アンソロジー。批評の種子となる文章を51編収録している。単行本は1987年出版で、2012年に文庫化された。
本書には五十一編の文章が収められている。これらは筆者自身がそれぞれに何かとぶつかりながら築き上げた批評精神の発露であるが、それと同時に、読者の側からの遭遇を待ち受けている、いわば批評の"種子"でもある。読者の心の共感にすくい上げられたとき、やがてそれは豊かに芽を伸ばすことだろう。
しかし、批評は決して楽天的な喜ばしいだけの精神ではない。むしろこれまで何の疑問も持たずに幸福に(幸福であると思い込んで)過ごしてきた生き方に対して、思わぬ疑惑や不信を突きつけられることでもある。無批判に成り立っている価値を解体してしまう力が批評にはあるからだ。しかも、それが自分自身に対しても向けられるものだからだ。
批評にめざめるということは、世界の中で一個として在る自己に直面させられるということであり、あるいは世界に向ける眼を受け持たされてしまうことである。重荷といえば、それは厄介な重荷である。しかし考えてみれば、この世に一人生まれ落ちて生き抜いてゆくということがそもそもだれにとっても厄介な重荷ではないだろうか。鍛えられた信念と、強固な「流儀」だけがその重荷を支えられるであろう。批評の精神は、むしろその厄介な人生と複雑な世界とをしたたかに生き抜く武器ともなる力なのである。本書が読者に身に着けてもらいたいと願う力とは、うまく立ち回って点をかせぐ"学力"よりも、そのような"生き方を支える力"なのである。(p.22)
批評というと評論や論説文を連想してしまうが、実は「私」と世界のあり方を捉え直す行為であり、自身の生き方の問題であることを理解した。
世界とは「他者」と言い換えることができる。世の批評嫌いは批評が嫌いなのではなく、本当は自我を持った他者が嫌いなだけなのだろう。それは「自己愛が強い」とも言える。批評によって自己愛が脅かされるから防衛本能が働くのだ。僕もそういうところがあるので心の持ちようを変えようと思った。
批評精神を鍛えるにはとにかく他者の文章を読みまくるしかない。読書のモチベーションがだいぶ上がった。
著者は関西大学文学部教授。ハロプロの稲場愛香推しだったが、彼女は2022年5月にJuice=Juiceを卒業することが決定した。本書はファンの立場からその顛末について語っている。
僕はハロプロどころかアイドル全般が分からないが、本書を読む限りアイドルとは『旧約聖書』【Amazon】の金の子牛で、ファンにとっては崇拝の対象のようだ。本書に記されているのは信仰告白である。「現場」に足繁く通って推し活をする。その活動の記録はすこぶる退屈だが、しかし第4章「アイドル文化を考える」ではアイドルの概念を多角的に検討していて、そこだけは面白かった。正直、門外漢にとっては読みどころが少ない。ハロプロが好きな人向けになるだろう。
ところで、僕は推し活に対しては批判的で、広告代理店の用意した枠組みに自分の趣味を預けるのが気に食わない。率先して資本制の奴隷になっているところに嫌悪感がある。
僕は昔からツイキャスで素人の生配信を見るのが好きだった。ところが、ある時期からプラットフォームが有料アイテムを導入し、推し活を推奨するようになった。それまで趣味でやっていた配信者たちは「活動者」を自称し、金儲けを意識したプチアイドルに変貌することになる。素人が趣味でやっている配信から在宅の小遣い稼ぎに移行したのだ。その結果、弱者男性たちがこぞって金を投げるようになり、プラットフォームの空気が一変してしまった。僕はそのことを残念に思っている。自分の聖域を拝金主義によって汚されたのだ。趣味という純粋な場所に金銭は介在してほしくない。そうでないと「好きでやっているから」という名目が成り立たなくなってしまう。それは不健全だ。昔は嫌儲のことが理解できなかったが、自分の聖域が汚されたことでようやく理解できた。この世から推し活を一掃したいと思っている。
著者はニューヨーク在住の内科医。ニューヨーク大学医学部の准教授でもある。
医師と患者のコミュニケーションがいかに重要か説いた本で、科学的知見を織り交ぜつつ、具体的なエピソードを主体に語っていく。ストーリーテリングが上手くて引き込まれた。やはりコミュニケーションの主体は人間なので、実際にあったエピソードが理解の手引きになる。
プラセボは有意に効果があり、期待感は実際の薬と同じくらいの影響を与えることができる。ポジティブなコミュニケーションは患者に期待感を抱かせ、プラセボみたいな効果をあげる。話を聞くことは良質な医療の基礎なのだ。
また、医療過誤訴訟もほとんどは医師と患者のコミュニケーションの破綻が根底にある。両者はものの見方がまったく違うため、すれ違いが生じる。患者はできる限りの情報が欲しい。起こり得たありとあらゆる過誤を知りたがる。医師もその点は同意しているが、訴訟の恐れが付きまとってるせいでミスを認めるのに不安がある。
医師は自分が犯したミスに心を乱される。それを知った患者は驚く。ミスも悪い結果も医師にとっては日常茶飯事だと考えていたから。医師の苦悩が長く続くことを知って驚愕する。こういったところにもすれ違いがある。
本書は翻訳が読みやすい。内容が内容だけに訳者にも医療の専門知識が必要になるが、それを満たしつつ自然な日本語で翻訳しているのだから感心する。また、本書の読みどころは医師と患者の具体的なエピソードである。これが自然な日本語で淀みなく語られるため、物語が好きな人にお勧めだ。ストーリーテリングの妙を堪能した。
加藤典洋のデビュー評論。元の単行本は1985年刊行である。
江藤淳『成熟と喪失』【Amazon】を叩き台にして、戦後日本と密接に関わるアメリカの影を描出している。個人的には『敗戦後論』【Amazon】より面白かった。江藤が『限りなく透明に近いブルー』【Amazon】を否定し、『なんとなく、クリスタル』【Amazon】を肯定した。そこにはアメリカに従属する日本の「弱さ」があり、アメリカなしにはやっていけないというやり切れなさが浮き彫りになっている。本書は『成熟と喪失』を中心とした著作の読み直しを通して、江藤の葛藤を炙り出したところが面白い。
太平洋戦争の無条件降伏を検討し、そこから原爆と天皇に論理を繋げたところも刺激的だった。
日本国民は天皇の「聖断」によって戦争の軛を脱することができたということが、しばしばいわれる。しかし天皇は「原子爆弾」の投下という「超自然的な兵器の出現」によって、その「聖断」の可能性の端緒をとらえた。
ここに生じているのは、ちょうど一ヶ月前ポツダムでバーンズとトルーマンに生じたこととほぼ変らない。八月十五日、ぼく達は、天皇自身を含め、原子爆弾の「威力」をかりて国民規模で天皇の「威光」からの"出エジプト"を果たした。そこで原子爆弾の「威力」は、チャーチルの述べたように、ぼく達が天皇の「威光」から離脱する無意識裡の理由とされ、ぼく達の頭上に掲げる「天皇」の傘を脱すると同時に、いわば「原子爆弾」の傘の下へとそっと移ったのである。
アメリカの影の淵源は原爆にあるのではないか。そして、アメリカが原爆を切り札にしているからこそ、日本は従属的な依存関係から抜け出せない。反米保守の知識人はそれに歯痒い思いを抱いている。
シリア内戦は、「アラブの春」が波及したことに端を発しているため、民衆と政府を当事者とし、民主化の是非を争点としている紛争に思われがちです。でも、これほどまでに長引いているのは、さまざまな当事者が、さまざまな争点をめぐって重層的に対立し合っているという事情があります。つまり、シリア内戦は、当事者と争点を異にする複数の局面が折り重なるかたちで展開していることを最大の特徴としています。(p.163)
おたく文化をフックにして内戦下のシリアについて解説している。漫画と文章の2本立てで、漫画は天川まなる、文章は條支ヤーセルと青山弘之が担当している。また、青山は監修もしている。
アラブ人は一般的に個人主義的傾向が強いが、特にシリア人はその傾向が強く、反体制派も派閥争いが多いという。シリアは湾岸諸国に比べると世俗的だが、完全な自由恋愛というわけでもなく、相対的に自由でしかない。本を読む習慣を持つ人は少なく、漫画よりもアニメのほうが人気がある。衛星放送の普及率が高く、チャンネル数も多いようだ。
こういった知識を得られたのは収穫だったし、シリアのアニメ事情も分かって参考になった。『機動戦士ガンダム』が流行らなかった理由には思わず唸ってしまう。
本書は2023年1月出版。2024年12月8日にアサド政権が崩壊したが、シリアは今後どうなるのだろう? 一介のおたくとしては平和が訪れるのを祈るのみである。
特集「このマンガを読め!」を読んだ。ランキングは知らない漫画ばかりでおたく向けというよりはサブカル向けだった。上位20位で知っているのは『ヒストリエ』【Amazon】しかない。売れ筋は避けようというのがサブカルの矜持なのだろう。
呉智英「天才の闇に棲むもの―追悼・楳図かずお」を読んだ。ある重大なことが仄めかされているが、果たしてこれは……。もし本当だったらぞっとするし、また、作品を読む解像度が上がるような証言でインパクトがある。
今月は田中宗一郎の万引きポストが炎上していた。
レコードが死ぬほど欲しくて
— 田中宗一郎🖖 (@soichiro_tanaka) 2024年12月1日
万引きした経験のない同世代の連中は
基本的に信用してません😊
田中は1963年生まれ。バブル世代より少し上の世代である。
このポストが炎上したのも価値観が現代にそぐわなかったからだが、価値観をアップデートするのは思いのほか難しい。いずれ老害になる僕にとっても他人事ではないので、今から戦々恐々としている。田中宗一郎は未来の我々なのだ。
朴景利『土地』【Amazon】が世界初の完訳である。全20巻。
登場人物700人超、不倫も復讐も 「韓ドラの原型」世界初の完訳 https://t.co/RRAuyXVx3f
— 朝日新聞文化部 (@asahi_bunka) 2024年12月8日
若い頃だったら迷わず手を出していたが、今はそうもいかない。ともあれ、無事完訳したことを言祝ぐべきだろう。
上野千鶴子の発言が話題になっていた。
上野千鶴子さん「若い世代は親の介護から学ぶことが大事」 自分の老後前に備えるべきこと https://t.co/ZePTFAekwt
— AERA dot. (アエラドット) (@dot_asahi_pub) 2024年12月18日
上野が他のフェミニストと違うのは、アジテーターとしての才能があるところだ。言葉を器用に操る能力に長けている。この人に論争を挑んで勝てる気がしない。
プライム・ビデオで宇多田ヒカルのライブ映像を見た。
両方とも歌詞が字幕に出るのだが、宇多田ヒカルってけっこういい歌詞書くんだなと思った。今まで音しか気にしてなかった。
ちなみに、ツアータイトルの「Laughter in the Dark」はウラジーミル・ナボコフの小説『カメラ・オブスクーラ』【Amazon】の英題である。
プライム・ビデオでアイナ・ジ・エンドのライブ映像を見た。
コンテンポラリーアートといった感じのパフォーマンスですごかった。清水舞手はいったい何者なのだ……。
それにしても、2024年9月の公演がこんなに早く配信されるとは。
プライム・ビデオでAdoのライブ映像を見た。
Adoは顔出しNGなのでスクリーン越しで歌っているのだが、これが初音ミクのライブみたいだった。歌い手とは本質的にボーカロイドの代替ということが分かる。
それにしても、めちゃくちゃ喉に負担がかかりそうな歌い方だが、この調子で大丈夫なのだろうか? 時々デスボイスを出すところが戸川純っぽい。あと、身体表現も影絵だからこそ際立っていた。海老反りになって歌っているのが圧巻である。
顔を出さずにここまでパフォーマンスできるのはすごいことで、Adoを知らない人でも一見の価値がある。
今月からYouTubeのゲンロンチャンネルで「人文ウォッチ」というニュース番組が始まっている。これがなかなか面白い。毎週土曜日に配信。疲れた時にソシャゲをポチポチしながら見ている。YouTubeはアーカイブが残るからいい。
一流のゲームは総合芸術という信念を持っているが、如何せんゲームをやる時間がない。だから動画を見ながらプレイできるソシャゲに手を出している(PCで動画を見ながらタブレットでプレイしている)。これはこれで最適なシステム設計を学べるから貴重だ。
『東浩紀巻頭言集』【Amazon】のPR番組を見た。
とにかく長いが、ゲンロンの歩みが分かるのは面白い。また、日本最高レベルの知性が哲学や批評についてざっくばらんに語る、それが見られるのも貴重ではないか。とはいえ、忙しい現代人が見るには長すぎる……。