少年時代の知り合いの電話番号も記憶
田中角栄のもっとも大きな特性は、その記憶力にある。田中のインタビュー記事、あるいは口述筆記した内容を検証していて驚かされるのは、日時、場所、人名などがすべて記憶のファイルにしまいこまれているかのようなのだ。
田中自身、昭和50年代にはいっても、少年期からの、知り合った人物の電話番号や生年月日をすべて記憶していると豪語したことがあるが、その大半は正確だったというエピソードもある。
田中は、過去のある事実を語るときに、本筋とは離れた別な事実を事細かに説明する。
たとえば、昭和20年12月に代議士に立候補した経緯を述べるときに、どのような動きがあったかを日時、場所などを特定しながら話す。
戦後すぐにかつての民政党系の政治団体が進歩党として再出発したが、その中心人物であった大麻唯男は自らの興した田中土建工業の顧問であり、その大麻が田中を説得したというのである。この経緯をインタビューで、メモなしで話している(59年4月の取材速記より)。
約40年前の出来事をスラスラと語る
「僕がね、政界に入ったのは昭和20年の10月頃、占領軍が『総選挙をやれ』ということで12月31日に解散して、1月31日総選挙だと。そのころ私の会社(注・田中土建工業)には大麻唯男ほか有能な連中が顧問としていっぱいおったんですよ」
「(大麻に立候補を勧められたのは)昭和20年11月3日の日ですよ。紀元節(注・誤り。明治節)文だからよく覚えてんだ。(大麻に)呼びだされて、『おい、代議士にならんか』といわれたから、『絶対出ませんよ』といった。昔、大麻さんがしょっちゅう使っておった新橋の秀花という料亭だ。そこは民政系の巣だったんです」
「(説得に応じて立候補することになって)それで昭和21年の1月2日の日に、わしは上野駅から新潟行きの急行に乗ったわけだ。そのときに連れて行ったのがうちの監査役をしていた塚田十一郎君であり、朝岡という男と、もう一人、曽我某という者だ。それで新潟に着いて、料亭『玉屋』に入ったわけだな。新潟の代表的料亭だ。それが運のつきになっちゃった(笑)」