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近代日本文学史メジャーのマイナー

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analog純文

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2025.02.22
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  『共に明るい』井戸川射子(講談社)

 前回の続きです。
 前回で私は、本短編集は、いかにも芥川賞受賞後第一作に相応しい、新しい作家の文体上の実験がたくさんなされていると書き、そのうちの「外堀」の実験を一つだけ考察してみました。

 実はわたくし、少し前に、筆者・井戸川射子さんの講演会に行ったことがあるんですね。いろいろと興味深いお話をなさってましたが、編集者とのこんなエピソードを語ってくれました。

 作品が活字になり始めたころ、校正の時編集者からいわゆる独特な表記について何度か確認をされたが、この表記でいいとそのまま出すと、そのうち確認はなくなった、と。

 当たり前ではありますが、かなり確信的に独自の表現ならびに表記を用いていることがわかりますね。
 前回は、そんな一つとして「不思議な読点」について取り上げてみました。
 今回は、二つの短編小説の表現について報告したいと思います。
 一つ目は、この作品がまさに芥川賞受賞後第一作なんじゃないかと思いますが、単行本の総タイトルにもなっている「共に明るい」についてであります。

 そもそも筆者は、かなり人称にこだわりがある(少なくともこれらの一連の作品を書いていたころは)と思われますが、本作についてもそれは際立っています。
 作品冒頭の一文はこうなっています。

 ​冷え、結露する、ドリンクホルダーに入れられた誰かの、ペットボトルの水が揺れる。​

 で、以下、続いていくのですが、とりあえず地の文は三人称であります。三人称とはいえ、作中人物の誰か(多くは主人公)の視点や心情にほぼ寄り添って描いていくという手法で、これは多くの小説の設定にも見られます。

 驚く、というか、少し笑ってしまうのは、この小説が寄り添っているのは、まさに「誰か」だとしばらく読んでるうちに気が付くことです。

 「誰か」に寄り添っているその「誰か」というのは、一人称の「私」とか、三人称の「彼」や名前などと同じように、本来それらの人称や固有名詞が入るべきところに「誰か」が入っているということであります。
 それは、上記の引用文でいえば、「誰か」は「whose」ではなくて、仮に「誰か」を「my(私)」に入れ替えて読んでも物語的にはほぼ問題がないということであります。

 だから、驚いて少し笑って、いたずらみたいだと思ってもよかったと思います。
 ただ、文中3か所、それだとどうもしっくりしない部分がありました。

 わたくしわりとへんにこだわるタイプなんですね。
 だから、この単行本で12ページの短編小説の中に、何か所「誰か」が出てくるか、そしてそれらはどんな働き並びに意味であるかをみんなチェックしてみたんですね。

 するとまず、15か所「誰か」が書かれていました。
 その内、1つだけ(あるいはどちらか決めづらいのがもう1つ)が、本来の不定称(who)の働きとしての「誰か」でした。しかし残りは、仮に「私」(或いは例えば「井戸川」とか「山田」とかの苗字と同じ働きの「誰か」さん)と入れ替えることが可能な、むしろ読者は心中でそのように入れ替えたほうが読みやすい「誰か」でした。

 ただ、3か所だけそう読むといかにも変な表現になる所がありました。
 その3つの文には、助詞が付いてないのであります。つまり、

 ​「誰か思った」「誰か思った」「誰か思う」​

 これら以外の「誰か」には助詞が付いています。そして、普通わたしたちが書く文章においてはそうです。

​ 「誰かが思った」「誰かの目の前の」「誰かは思う」……​

 上の助詞の付いてない3つの「誰か」は(あるいは「誰」だけでも)、「私」などには置き換えられません。
 ……これは何なのでしょうねえ。

 もちろん、一つの答えは思いつきます。
「誰か」を別の語に置き換えるからよくないのだ、と。「誰か」は「誰か」以外の何物でもないのだ、と。

 しかし、だとするとそこには従来の日本語文法には則っていない、我々の知らない意味働きの「誰か」が生まれませんかね。

 やはり、前回の報告で書きましたように(前回のは、読点について、筆者が独自のルールで用いているものがあるのじゃないかというのでした)、この度も「誰か」に、一般的な「誰か」以外の言葉の意味や働きを付加した表現なのでしょうか。

 これらの表現も、必ずや筆者の中では、確信的な表現上の区別があるのでしょうが、ちょっといたずらめいた実験で、でもそれだけ刺激的な実験のような気もします……。

 さて、上記に二つの短編小説を報告したいと書きました。もう一つ考えていたのは「野鳥園」という短編です。
 この作品にも、かなり独創的な実験がなされていると私は思いました。
 それは、この時期筆者がたぶんあれこれこだわっていたのであろう、作品の人称についての、これまたなかなか刺激的な取り組みであります。

 どんくさい私はこの話を、一度目よくわからない小説だなと思いながら読み、二度目途中ではっと感じてびっくりして、そして三度目、うーん、と唸りながら読みました。

 少しだけ報告しますと、上記にも触れた、「三人称とはいえ、作中人物の誰か(多くは主人公)の視点や心情にほぼ寄り添って描いていくという手法で」という部分について、いわば新機軸を試した表現だと思いました。

 もう少し具体的に書きますと、地の文で心情などを描いている人物が、主語をほぼ表さずに、次から次へと変わっていってるんですね。これは、読んでいて始めびっくりします。何なんだと思いますよ。

 (今、はっと気が付いたのですが、上記に新機軸と書きましたが、これって、平安古典の文章じゃないですか!)

 そんな短編小説です。
 センスのいい人なら、一度読んだだけでその工夫にすぐ気づくのかもしれませんが、なまじっかどんくさい私だからこそ、3回読んで初めて気持ちよく読めたという経験も、なかなかエキサイティングでありましたよ。

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Last updated  2025.02.23 08:40:04
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analog純文@ Re[1]:父親という苦悩(06/04)  七詩さん、コメントありがとうございま…
七詩@ Re:父親という苦悩(06/04) 親子二代の小説家父子というのは思いつき…
analog純文@ Re:方丈記にあまり触れない方丈記(03/03)  おや、今猿人さん、ご無沙汰しています…
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