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北海道での青春

紀行文を載せる予定

令和7年 3月の俳句

      【弥生の句】

①夕光(ゆうかげ)のレンギョウ遺(のこ)る父祖の庭

② 禅の寺 籬(まがき)レンギョウ 昼下がり

レンギョウの 散りし花筒 孫集む   《仲春の一日》

 

 学校現場を離れて久しいので、3月の「その年度をまとめる」という発想から縁遠くなっているはずなのだが、今年度の場合、そうでもなかった。例年だと、弥生と聞くと、寒さはさて置き、日の出時刻が生活時間に近づいてきて、寒さ厳しい佐久の地でも、日一日と確かな春の訪れを感じて嬉しくなる。それが、そうではなかったのだ。

 いくつかの要因がある。第一は、M教授のご厚意で、私の山中白亜系西域の地質研究を大学の紀要に載せてはというお誘いを受けて、取りかかったことである。苦労が伴うという覚悟はあったが、やはり学術論文としての最低レベルをクリヤーする壁を乗り越える必要があり、負担も大きい。日々苦しんでいる。
 第二に、地学同好会の皆さんの総会兼研修会での講演を依頼されたことである。これは、3月に入ってからの突貫工事で「Power-point」にまとめ、当日は何とか乗り切った。緊張感はあったが、やり遂げたことへの満足感も残ったので、貴重な体験となった。

 第三に、地域公民館長と地区公民館会計係の仕事があり、N地区公民館の集いの運営スタッフの仕事や、年度のまとめと引き継ぎの雑用があった。面倒ではあるが、この程度のプレッシャーには耐えられる。
 第四は、例年の事とはいえ、年間の療養医療費請求と確定申告申告手続きなどが、今年の場合は少し複雑であったので大変だった。
 第五は、私事になるが、1歳の孫の子守の必要があり、家内と共に奮闘した。

 まだ、その気になって、老体に鞭打てば動ける状態であったので、何んとかこなすことができた3月ではあったが、私の散歩習慣の時間が削られ、孫と共に早く寝てはいるものの、普段より2~3時間早めの未明に起きて、論文に関する作業に取りかかることも増えたので、寝酒が復活してしまい、勢い酒量も増えてしまった。それで、「Sober-Curious」は、かなり破ってしまっていた3月ではあった。

 ところで、忙しい中、我が家の庭に咲く「連翹(レンギョウ)」の良さに改めて気づいた。それで今月は、連翹(レンギョウ)を季語に、俳句を創作してみた。

 

【俳句-①】日が延びた夕方、黄色一色に咲き誇る連翹(レンギョウ)の力強く生きる事を訴えかけるような迫力に感動していた。それを遺してくれた父や祖父のことを思い出した。季語は、レンギョウで、春である。

 春休みに帰省した孫が、黄色の花に気づいて、私に名前を聞いてきた。私は、レンギョウだと伝えると、「一年生が横断歩道を歩いているみたい」と感想を述べた。
 自身は、4月から小学2年生になるのだが、
黄色の通学帽子を被って横断歩道を渡った時のことを連想したのだろう。確かに、ひとつずつの花の存在はあるものの、黄色のペンキを塗ったような統一性と、警告するような黄色のイメージが強い。

連翹(レンギョウ)の花

               *  *  *

 

 突然、話は飛ぶが、私は梅も桜も好きだが、どちらかを選べと言われたら、梅を選ぶ。遠目には、梅も桜も似たように見えるが、なぜか梅は近づいて一輪を見る。
 咲く時期が、寒風の時期に、小児の「うてな」のような花を、けなげに咲かせるからなのか、一枝、一輪に目が向く。これに対して、桜(ヨメイヨシノ)は、なぜか油絵の具のひとタッチのように、全体に目が向く。花が散った時に、初めて花びらの存在に気づくのは、私だけの感覚なのだろうか。

 そんな観点からすると、レンギョウは、桜とかなり似ている。そして、強烈に黄色をアピールするのは、桜以上かもしれない。日中も、夕闇せまる頃も、存在感を示している。
 少し疲れて、落ち込んでいた時、「しっかりしろ!」と、父から叱責されたような気がして、レンギョウを遺してくれたことに感謝しつつ、庭を眺めた。


 【俳句-②】参道の一部に、両脇にレンギョウを籬垣(ませがき)にした禅寺がある。四季のいずれの時期に訪れても風情を感じるが、早春の華やかさを具現させてくれた。季語は、レンギョウで、春である。

 年間を通じ、杉や欅の巨木に覆われた寺山は、遠くからでは、伽藍の様子がわからない。
 しかし、山門をくぐり、参道の階段を登れば、次第に仏門の世界に入っていく。
 苔の参道を経て、本堂へと通ずる広場に出ると、レンギョウの真っ黄色の色彩が飛び込んできた。
 まさに、春爛漫である。  

放生池を過ぎ、苔の参道を行く



 【俳句-③】孫(1歳11ヶ月)が、意味不明な言葉で尋ねてきた。白く変色したレンギョウの花筒を拾い集めてきたので、元の花はここだと伝えたやりとりを詠んだ。同時に、私自身、花筒が白く変色することに気づかされ、驚いた。
季語は、レンギョウで、春である。

 幼児は、万物に興味があり、何でも手で摘まみ、私に見せる。特に、幼児の視線は低いので、大人が見落としている地面には、様々な新発見がある。
 孫が、レンギョウの花筒(合弁花なので全体が残る)を集めていた。何かと聞くような雰囲気であったので、元は黄色の花のレンギョウだと教えたが、実のところ、レンギョウの花が散るようになると、変色して、鮮やかだった黄色が失せていることなど、私は知らなかった。

枯れると花びらが白くなる


 改めて、花のつくりを見直した。調べて見ると、花びらは4弁あるが、合弁花で、花の下は筒状になっている。それを支える「がく」は、きれいな緑色の4裂で、英国ではレンギョウのことを「Golden bell」と呼ぶ名前の由来だと知った。原産地は中国だが、日本へは平安時代に伝えられていて、すっかり日本の花として位置付いている。
 高村光太郎が愛した花だそうで、命日の4月2日が、連翹忌となっている。
前述の梅と桜の話題もあったが、どちらかというと、一花に目が向かずに、全体の黄色に関心が向いていたが、花の「ウンチク」を知ると、父が大切にしていたことと共に、味わいのある花だと改めて意識した。

 

 【編集後記】

 令和6年度の俳句は、この3月で終了となる。退職後の3年目、平成28年5月から「前山みゆき会」に入り、途中2ヶ月ほど入院のために俳句を作らなかった時はあったが、ここに丸10年の足跡が残せた。コロナ禍で、会が中止になったこともあったが、個人的には俳句の創作を続けてきたので、欠けた月は、計3ヶ月である。

 今年度は、「前山みゆき会」が、実質6月から休会となり、7月から正式に解散したので、それ以降は、先輩諸氏のご意見や批評をもらうことなく、独力で創作してきた。 

代わりに、昨年から、佐久俳句連盟に入会し、年に1~2度の俳句会や、吟行会に参加しているが、私のレベルとは段違いで、毎回、挫折感を抱いては、気落ちした何日かを過ごすことになる。もともと、自信などあるわけでは無いが、それでも、自分の俳句の評価に1票も入らない現実を目の当たりにすると、劣等生の気持ちの一端が理解できたような心境になる。思えば、私もそんな思いを、彼・彼女らに味合せて教師を30数年間も続けてきたのかもしれないなあと回顧した。

 ただ、私の場合、そう長くは悩まずに、俳句を題材にしたエッセイのような文章を書くことを趣味として割り切ることにしている。私の人生の日記帳ならぬ、月記帳と思えば、生きた証を綴ることなのだと独り合点している。ちょっと図々しいかな?

 

3月下旬の浅間冠雪 <例年より多い>

 

土の匂い(長野牧場の麦畑と八ヶ岳

 今季の佐久は、本当に雪が少なかった。雪かきをしたのは、数える程度で、しかも、雪はその日の内に消えてしまった。雪かきをして道の端に集めた所だけが残る。これなら、何もしないでそのままにしておく方が、寧ろ、良く雪が解ける。一方、県の北部や日本海側では大雪で、浅間の峰峰は、強い季節風で雪雲が流されてきて積雪となった。
だから、麓の光景と冠雪は、どこか違和感がある。

 気がつけば、四月を迎えている。今年は、まだ、一度も畑仕事に出かけていない。周囲の田畑は、春ぶち(春耕)が済んで、日々、畑も水田も着々と作業が進んでいる。

まだ、例の論文の方が、なかなか進まず、もんもんとしている。(おとんとろ)

令和7年2月の俳句

      【如月の句】

 

 ① 稚児担ぎ 賢母先達 福参り

 ② 瀬音聞かば 偲い遥かな 春の川

 ③ 備蓄野菜 減る嬉しさよ 日脚伸ぶ 

                 《二月の声を聞いて》
 ④   性別は 老若男女 初音聞く  (編集後記で)

 

 今年の冬も異変が起きている。小寒(1/5)から15日を経た大寒(1/20)では、冬型の気圧配置が崩れて、弥生初旬の陽気となった。
 諏訪湖の「御神渡り」は、一時期、湖のほぼ全面が結氷して期待されたが、日中の気温上昇や強風による波で、氷の多くが解けてしまった。2月11日には、今年も「御神渡り」が出現しなかった宣言がなされた。最後に御神渡りが出現した平成29年(2018年)以来、「明けの海」は7年連続で最長記録となった。
 そんな2月、春の訪れを楽しみに待っていたが、1月以上に寒さの厳しい朝が訪れた。試しに、最低気温の変化を折れ線グラフにしてみた。(下図)
 この時期、佐久地方は冬型の気圧配置が強まると、晴天の日が続くが、今年は特に続いた。記入の無い日は、全て晴れ(快晴)である。朝の気温(最低気温)は、氷点下の日がほとんどで、何んと暦の上での話題とは言え、雨水(2/19~)の頃は、今季の最低気温記録(-10℃)を4日間も維持した。ちなみに、降水量は、0(ゼロ)mmである。
 ただ、日の出・日の入時刻も調べると、毎朝1分ずつ早く、毎夕1分ずつ遅くなっていることに気づいた。つまり、1日で2分ずつ昼時間(日照時間)の長さは伸びていっていたのだ。これには、改めて感動した。感覚的には、朝が早まり、夕暮れが遅くなっていることはわかっているが、時刻換算してみると、着実に進行していた「光の春」の存在を、頭でも十分に理解できた。
 今月11日には、鼻顔稲荷神社の初午祭があって、奉燈俳句も提出した。地質研究のまとめに追われ、なかなか俳句ができず、千曲川縁を歩いたこともあった。里山の間から、白銀の北アルプスの峰々が、より鮮明に目立つのも、この時期の特徴である。そんな中、今月は「二月の声を聞いて」と題して、生活体験の中で、春を意識した場面を俳句にしてみた。

2025年 (令和7年) 2月の最低気温と日の出・日の入時刻

 

 

 【俳句-①】は、稚児を担いだ母親が、家族の先頭となって、稲荷神社の石段を登っていく。初午の福参りの女性の迫力に感動した様を詠んでみた。後から付いていく男性(父親)を応援する気持ちもある。季語は、「福参り」で、春である。

 

鼻顔稲荷神社と湯川 (佐久市岩村田)

 初午祭は、本来、2月の初めての「午(うま)の日」(2025年は2月6日)だが、鼻顔稲荷神社では、毎年、祝日の建国記念の日(2/11)に行なっている。
 佐久俳句連盟は、神社に奉納する俳句を募集していて、私は今年も2句出品したが、これは、選ばれなかった方の俳句である。(ちなみに、今年(2/6)は都合が悪く、奉燈俳句額を入れ替えて掲げる手伝いができなかった。)

 俳句の光景については、既に説明したような状況だが、実の所、私が目撃したある家族が、福参りをしたら、こんな姿だったろうなと思ったことで、想像の場面である。
 大事ではなかったが、家内が心配するので、孫を連れて佐久総合病院小児科へ行った師走のことである。我が家は、私(祖父)が孫を担ぎ、家内(祖母)が、衣類や「紙おむつ」・食糧品などを入れた布袋(バッグ)を携えて、少し急ぎ足で行く。
 私たちの少し前を、稚児を右肩に担ぎ上げ、左肩には大きなショルダーバッグを携えた若い母親が、急ぎ足で歩いていた。その後ろから、父親らしき男性と、小さな女の子が付いて行く。大きな荷物を抱えた女性の速足に、付いていくだけの人たちの方が、精一杯歩いているという風に見えた。
 「おい、おやじ(若い父親)!お前が、稚児を担ぐか、せめて荷物を持てよ」と言いたくなってしまった。そんな光景が、印象深くて、季語「福参り」に対して、家族の先達として石段を駆けあがっていく姿を想像してみた。
 昨今は、「男なら、女なら」というジェンダーに関する言動は控えることが多くなっている。多分、事情もあったのだと思うが、女性、それも母親が子育てに熱心で、ましてや、怪我や病気になった時の対応の真剣さは、男性以上なのだと察する。 我が子では見えてこなかった事が、孫との交流で、良く見えてきている。
 頼り甲斐が無さそうな父親(♂)ではなくて、寧ろ、我が子の危機に真剣な防御体制を採っている母親(♀)の逞しさが勝っていたからと理解した方が良さそうである。そんな母親を称賛する言葉として、差しさわりの無いように「良妻」は除いて、「賢母」だけを採用した。

鼻顔稲荷神社・初午祭「奉燈俳句」の額

 

 

 【俳句-②】は、一足先に春が訪れたような陽気の日の午後、散歩コースの橋の上から片貝川の瀬音と流れに気を取られたら、その後、歩を進めるにつれて、半世紀以上も昔に見た尻別川の「雪解け水による増水」の光景が脳裏に浮かんできて、懐かしさから詠んでみた。季語は「春の川」で、春である。

 小さな子供が憧れる乗り物は、消防車やミキサー車・パトロールカーのような特徴的な自動車が多い。孫を見ていてわかる。今では、飛行機や宇宙船などもあろうが、私の場合、船舶に興味があった。それは小学校高学年の頃まで続いた。

 その理由は、我が家に池があったことに起因していたかもしれないと思う。池には、第四紀湖成層からなる薬師堂の山の地下水が、湧き水となって流れ込んでいる。私の祖父(次男)が、分家して新居を建てる為に土地を購入する前は、「染物屋」さんが布を洗うのに利用していた池だと聞いた。長方形(3m×7m)で、深さ1mほどのプールのような池である。
 ここに、木製の手作り舟を浮かべて遊んだものだ。後には、プラモデルの船舶も加わったが、板材を切ったり、削ったりして造った「ゴム動力のスクリュー舟」や、「蝋燭(ろうそく)を燃料としたブリキ製ポンポン舟」で遊んだ。私と同世代で同じ趣味の人でないと理解し難いと思うが、古き良き時代の物は無くても、創意工夫精神に溢れた子供たちの遊びの世界であった。
 更に、山国育ちの私は、水平線や地平線に憧れた。周囲を山に囲まれた佐久盆地の西端に住んでいる私は、若者が理想を求めるような心理要素も加わり、とにかく、果てしなく続くもの、広大な展望に飢え、そんな風景との出遭いを欲していた。
 そんな願いが叶ったのか、晴れて北海道大学に受かり、初めて札幌に向かう列車の車窓から、今にも堤防を越えるかのような勢いで流れ下る、雪解け水で増水した「尻別川(しりべつがわ)」の春の光景に出遭った。
 ・・・「ずいぶん眠ったような気もした。気がつくと、いつしか空は白み始め、雑木林の隙間から川が見え隠れしていた。鉛色に輝く川筋は、雑木林の島々の間を静かに蛇行していた。さざ波が、鈍く光る残雪を乗り越えんばかりに、力強く押し寄せていた。(- 中略 -) これが、北国の春なんだなあと思った。」
(尻別川の思い出、1973年4月13日)
 上野発の夜行列車と青函連絡船を乗り継いで、北海道に入った。大学受験は、函館で受けていたので、大学生活の始まる札幌へは、初めて列車で向かっていた。函館を出た列車は、長万部(おしゃまんべ)から、倶知安(くっちゃん)や余市・小樽を経由して札幌に入る。函館本線の車窓から見た「尻別川」の、北国の春の雪解け水を集めた力強い流れに感動し、その印象を日記帳に綴った。経路から類推すると、蘭越ニセコ間の川の蛇行部分らしい。

モンゴル・セレンゲ川の蛇行

          *    *    *

天塩川の風景

 ちなみに、大河の蛇行への憧れから、大学2年の時、N君と二人で、天塩川の川下りをすることになった。最後の3日間は、川を北に遡上してサロベツ原野を尋ねるという全12泊13日の山行(川下り)計画であった。不覚にもゴムボート流失事件があり、9泊10日(8/19~8/27)の行程となってしまった。

サロベツ原野と利尻岳

             *   *   *

 詳しくは、「はてなブログ」に既に掲載してある「天塩川」にあるので、もし興味を持った方は見てください。

 

 

 【俳句-③】は、主に朝の「味噌汁」と「ポテトサラダ」の食材として、納屋や二階北口のベランダに冬囲いしてある野菜が、減っていくことに対する季節感を詠んだものである。季語は「日脚伸ぶ」で、春である。

 冬越し野菜は、その野菜の特性に応じて加工、保管する。
 量の少ない長薯や里芋は、1月中旬には使い切ってしまうが、ジャガイモと葱は、3月下旬まで余裕がある。その年の収穫量にもよるが、白菜や大根・人参・玉葱などは、2月中旬まで持ては良い。俳句で話題にした野菜は、まさにこのグループのことである。
 保管場所から野菜を取り出してくる時、残り少なくなった野菜を数えるようになると、寂しい気がする。だが、同時に少しずつ日が伸びて、春の訪れが近づいてくることを実感できるようで嬉しくもある。
 さすがに、野菜の味も劣化してきているので、惜しいと言うよりは、そろそろ終わってもいいでしょうという諦め感も出てくる。夏野菜の取れ過ぎて、食べ切れなくなった頃の、多少粗末な扱いになってしまいう時の心理にも似てくる。

 

ジャガイモの冬越し準備パート2

 

 ちなみに、【写真】のジャガイモの農作業は、(ⅰ)ジャガイモを干して土を落とし、選別する、(ⅱ)暗所での一次保管の後で出てきた芽を摘み、プラスチックケースから発砲スチロール製箱に入れる作業の後半である。ジャガイモは、凍みに極めて弱く、凍らせてしまえば、まずくて食べられない。
 さらに、納屋には鼠(ネズミ)も出てくるので、ケースで覆い、取っ手部分の穴も塞がないといけない。ネズミ捕りシートも設置してあって、時々、小さなのが捕れる。
 ・・・農家ならではの、生活に根ざしたひとつの季節感だろうと思う。

 

           【編集後記】

 『性別は 老若男女(ろうにゃく・なんにょ) 初音聞く』との意味は、何のことなのかわかると思います。季語は、「初音」すなわち鶯(ウグイス)の鳴き声で、春です。ちなみに、我が家での初音は、3月12日の朝(最低気温-1℃)でした。前日、11日の0℃と共に、暖かな日差しが当たっていました。
 さて、米国ドナルド・トランプ大統領の発言に由来する俳句で、初音の意味は、
『初めて聞きました』というつもりで、やや川柳にも似ているかもしれません。
 【俳句-①】でも話題にしましたが、性別やジェンダーに関わる人権の話題は、昨今、慎重に対処しないと、トラブルの原因や、人からの非難の元にも成り兼ねない微妙さがあります。
 私は、トランプ氏発言に対して、「Yes or No」と、二択で尋ねられたら、賛同する立場です。
 「LGBTQ+」は、確かにその事情を理解し、尊重されるべき人権だとの認識はあります。しかし、「事情があるので配慮して欲しい」という立場であって、「やや例外的な事情を当然である」と、一方的に押し付けてくるような印象を、多くの人に与えるような姿勢は適切ではないと思っています。


 先日、公民館行事の駐車場係で、車の差配をしましたが、身障者の付き添いの方から、「身障者マークが見えないのか!」と叱責されるように言われ、少し腹が立ちました。水戸黄門の印籠を付きだすシーンと同じです。
 満車状態なので、長く待たされていてイライラしていたのかもしれませんが、
車の台数から言えば、例外的な台数ですが、きちんと、専用場所も設けてあります。だからと言って、VIP(来賓)並みに、優先して案内する理由には当たりません。
 さらに、これからの社会の変化を考えると、日本の田舎にあっても、外国籍の人や、日本の風習・文化とは異なる背景を背負った方々と接する機会が増えると思います。昨今の言葉で言えば、ダイバーシティ(Diversity)の受け止め方にも関わってくるはずです。
 「組織や集団において、年齢、性別、国籍、人種、宗教、価値観、性的指向、障害の有無など、様々な属性やバック・グラウンドを持つ人々が共に存在し、それぞれの個性を尊重し合いながら活動している状態」という意味のようです。
 確かに、これが実現できれば素晴らしい。しかし、その実現への過程で、互いに尊重し合う兼ね合いが難しい。この段階が既に、トラブルの起爆剤になることもあるような気がしてなりません。
 まあ、私自身、過激な考え方をしている訳でも無いので、当たり障りのない程度で、これらの話題は終わりにしておきます。

三月の浅間山(浅間火山群)の遠景

 最後に、信濃毎日新聞の「信毎俳壇」・「信毎歌壇」を切り抜いて、鑑賞する機会は多いですが、最近、「信毎柳壇」にも興味が出てきました。川柳には、季語は無いですが、季語を入れた川柳調というのも面白いかもしれません。さしずめ、上記の俳句のことです。

 今シーズンは、同じ長野県内でも、北信地方や山岳地帯では、大雪となっていますが、私たちの住む佐久地方の平地では、雪が降ってもすぐに消えてしまいます。

 農作物を育てている頃には「恵みの雨・慈雨」という季語もありますが、もう少し、湿り気が欲しいなあという、少し贅沢なお願いもしたいようです。

 早く、「佐久の地質調査物語シリーズの3」に取り掛かりたいと思いつつ、まとめている地質関連の原稿がまとまらず、連日、奮闘しています。それでも、「日脚伸ぶ」の言葉に象徴されるように、同じ北西~西北西の季節風でも、厳しい寒風から心地良い風に変わってきて、散歩をしながら眺める浅間山系の残雪も、心静かに眺められます。昨年、記録した残雪の移ろいに注目しながら観察するのも、楽しみです。(おとんとろ)

 

                 
 

令和7年 1月の俳句

      【睦月の句】

 

① 産土(うぶすな)の 暮らし守れる 初山河

② 首(こうべ)垂る 孫のあいさつ  初笑い

③ ZPF(宇宙)から 波動集めし 福寿草

                《新春を迎えて》

 

 大晦日(12月31日)の晩のことを「お年取り」と呼ばなくなってから久しい。
私の子供の頃には、大晦日から元旦へ年を跨ぐと、満年齢とは別に、ひとつ年を取ると言われていた。その年齢は、「数え年」と呼ばれていた。
 私の場合、誕生日が11月2日なので、大晦日の晩は、71歳1カ月と29日が満年齢となるが、お年取りをするので、数え年では72歳を迎え、乙巳(きのと・み)年の「年男」となる。
 そんな意義深い年越しの晩、帰省した長女の夫D氏と、久しぶりに酒を酌み交わし、除夜の鐘を聞くことなく、早々と寝てしまい、新年を迎えた。
 毎年、地域の「元旦挨拶会」は、我が家の前の四辻で行なわれる。
 今年は時代を反映してか、≪ノンアルコールビール≫で乾杯を行なった。その後は、薬師堂~尾垂山前山寺~伴野神社(産土神社)~洞源山貞祥寺(菩提寺)を、全員で参拝し、お年賀の挨拶回りをした。
 元日の昼食は、D氏の計らいで、佐久平の回転寿司で外食することになった。思えば、昨年の元旦は、菩提寺産土神社を参拝して帰宅した後で迎え酒をして寝ていた夕方、「能登半島地震」が起きた。その反省の意味もあって、心掛けた去年今年ではあったが、胃腸はやや副快調で、好きな青魚の寿司を適度にいただいた。それにしても、元旦に外食していると、傍らで働いているお店の人に申し訳ないような気持ちになった。
 さて、新年1月と言えば、「実業団駅伝大会」・「箱根駅伝」に続き、全国都道府県対抗駅伝「女子」と「男子」の競技が、それぞれ第2・3日曜日に開催された。駅伝競技は、マラソンや、スキー・スケートと共に、楽しみにしている。
 特に、暮れの京都で開催された「全国高等学校駅伝競走大会」で、長野県は、男女共に優勝したので、その高校生の活躍で、全国都道府県対抗駅伝の成果を期待していた。ちなみに、女子は惜しくも第4位、男子は4連覇の偉業であった。
 そんな新年・令和7年の始まりであったが、今まで新年の季語をあまり使っていなかったので、「新春を迎えて」という題材を選んでみた。


 【俳句-①】は、元旦の初詣と御年賀の挨拶回りをした折り、小市民的な安寧な生活に感謝すると共に、見慣れた風景を改めて有難いと思う気持ちが湧いてきたことを詠んでみた。季語は、「初山河」で、季節は新年です。

 毎年、元旦には家族全員で、御年賀の挨拶を兼ね、産土の神社仏閣を初詣している。その折り、元旦の寺社の淑気や神々しさの中で、家族の幸福を祈り、今年の抱負も意識する。
 同時に、寒空の下でも帰れる家があり、飢えることもなくどころか、豪華な正月料をいただけるという平穏無事なことが、とても有難いことだと思う。地球上では、紛争で住む場所を追われ飢えに苦しんだり、自然災害から不自由な避難生活を耐えていたりする人々もいる。故郷の山河に感謝である。

浅間火山群の遠望


 【俳句-②】は、幼い孫が、朝の挨拶や「お辞儀」には頭を下げるという行為をすれば良いことを、いつの間にか発見したようで、その仕草を初めて見た時、思わず笑ってしまったという、文字通りの初笑いである。
季語は、「初笑い」で、季節は新年です。

 幼児の言語の発達過程に興味をもって、孫たちの言動を観察している。ここに登場した孫は、私にとって3番目の男児である。
 何かに気づいたのか、指差して「あ」とだけ声を発する。『あれは何?』と尋ねているのか、それとも『変なもの発見した!』と、言いたいのか、見当もつかない。
 一方、人の動作を真似ることは、割と早く身に付いた。神仏に祈る時は、手を合わせて首を垂れることや、「いただきます」「いただきました」の挨拶は両手を合わせることは、既に身に付いているようだ。
 幼児は、大人の言葉を発することはないが、話している内容や意味は、少しだけ理解しているらしい。もちろん、言葉以上に人の表情や音の調子も理解する。
 考えてみれば、私が、突然、外国語だけの会話が聞こえている見知らぬ社会に置かれたら、どう思考し行動するかと想像してみると、多分、しゃべれるようになるより寧ろ、話している会話の意味や雰囲気の方を先に理解できるようになるのではないか?同じことが、幼児の脳細胞の中でも繰り返されているのではないかと思う。
 最近は、「あ」以外に、少しは意味のありそうに聞こえる内容も発音するようになってきている。そんな状況で、私が「おはよう」と、少し会釈気味に声掛けすると、ちょこんと首を垂れた。その拙い動作がおかしくて、思わず笑みがこぼれてしまった。

「おかめ」と「ひょっとこ」


 【俳句-③】は、茶褐色の萼(がく)が弾けて、福寿草の花弁が現れると、そこに光が集まり、眩い。ふと、過去・現代・未来が同居すると言われる「ゼロ・ポイント・フィールド(ZPF)」からの波動エネルギーが共鳴し、幻想的な気持ちになるような気がして、詠んでみた。
季語は、「福寿草」で、季節は冬である。

 「ZPF」は、理解しにくいと思われるので、「宇宙」とフリガナをふった。
 最近の佐久地方は、寒さは変わらないが、元旦に積雪が無いことが多い。私の子供の頃は、雪も多く、積雪が「ザラメ雪」になる頃、福寿草が、その異名の「雪割草」ように、雪面の中から鮮やかな黄色の花を開花させた。
 早く開花させようと、ビニール袋で福寿草を覆って温室を作ったことがあったが、袋を開けて中の匂いを嗅いだ時、あまりに気持ち悪い臭いで、がっかりした記憶が蘇った。
 今はまだ、茶褐色と黒ずんだ葉だけだが、もうすぐ光を放つかのように咲き誇る光景が見えたような気がした。まさに、ZPF(宇宙)からの波動エネルギーに、満ちていた。

 

「雪割れ草」の異名もある「福寿草



 【編集後記】はてなブログ

 現在、5年ほど前に、一端まとめた「佐久の地質調査物語(山中地域白亜系)」の原稿を読み返したり、新たに図版を作成したりと、結構、忙しい毎日を送っている。もっとも、そのことと、日課の散歩がノルマの毎日なので、現役で活躍されている方々から見れば、遊んでるようなものだと馬鹿にされそうである。

 しかし、それなりに頭も身体も使って生活しているので、まあまあ健康を保っている。「10年ひと昔」と言う言い方があるが、定年退職後、既に10年は優に過ぎ、今年は12年目であり、還暦からもう一回りして、巳年の年男となった。

 毎日の生活は、上記に述べたようなことの繰り返しではあるが、新聞やインターネット、YouTubeなどで、国際政治や世の中の動きにも関心をもって、日々見聞きしている。月並みな言い方になるが、私が、正月元旦に故郷の山河を眺めて、ありがたいと感じたような、特別に豊かでなくとも、生活場所に感謝して生きられるような日本国土、そして、それぞれ国際人たちの国土でありたいものだと思う。(おとんとろ)

冬の薔薇(バラ)

 

令和6年12月の俳句

      【師走の句】

① 佐久の空 裸木透かす 「あをさ」かな

② 銀ジェット 寒半月に ニアミスす

③ 冬田道 付いてくるかい 影法師 《寒風の中三題》

 

 12月は農閑期で、特別な用事や対外的な事がなければ、午前中のデスクワークと午後の散歩が日課になる。それでも、乗用車と軽トラの冬用タイヤへの交換や、各種野菜の越冬準備は、欠かせない大切な活動である。
 収穫した野菜類は、しばらく日に干した後で、種類によっては新聞紙で包み、ある程度の保温効果に配慮した方法で保管しなければならない。
 ジャガイモは暗所に置くと、芽が出てきてしまうので、越冬前に伸びてきている芽を摘む。同時に、二度目のチェックで品質を選りすぐる。特に、凍みに弱いので、保温が必要である。春先まで持ちの良いものは、中型で形の良いものだ。
 大根と白菜は新聞紙を巻き、気温差の少ない所で管理する。葱は寒さに強い方だが、保温と共に水分管理にも工夫がいる。人参、里芋、山薯は、量が少ないので、発砲スチロール箱に入れる。鮮度が落ちるから、2月初め(節分)まで持てば良い。鷹の爪(辛子南蛮)のように吊るしただけのものもある。軒に吊るしたままの玉葱は、例年早めに終わっていたが、今年は少し多いので、凍みて周囲が傷んでしまうかもしれない・・等と、気を回してはみるが、どこか「だめだったら、そこまで」と言うようないい加減さもある。
 夏野菜の冷凍保存もしているが、季節外れの食用に耐えられる物と、そうでない物がある。残念ながら、野沢菜漬け、沢庵漬けは、作っていない。
 ところで、師走の後半には、私が関心を持って楽しみにしている行事がある。ひとつは、家の大掃除や正月飾りの準備である。まだ、身体は十分動かせるので、棲家を綺麗にしたり、伝統的な方法で飾ったりすることに喜びを感じて取り組んでいる。そんな準備に入ろうとする頃、「全国高等学校駅伝競走大会」が開催される。12月22日(日)は、午前に女子、午後に男子の競技が実況放送された。
 マラソンと駅伝が大好きな私は、テレビの前で釘付けとなって過ごしてしまうので、今年は対策を練った。散髪の間隔には15日ほど早いが、お正月も控えているので、忙しい師走の時間を有効活用する為に、床屋さんのテレビで、女子競技を見ることにした。散髪が済んだ後でも、長野東高校がゴールして優勝が決まるまで、お邪魔してテレビ観戦をしてきた。
 帰宅後、今度は、男子の佐久長聖高校の二連覇優勝をテレビで視聴した。長野県の男子と女子の優勝という快挙に、大きな拍手を送った。それから少し夕暮れの遅くなった冬田道へ、散歩に出掛けたが、元気をもらい、いつもより速足であった。

 

長野東高校アンカー(田畑)のゴール

                           *   *   *

 数日後、You Tube で、女子のレースの録画を見つけ視聴した。床屋さんで散髪をしてもらいながら見ていたので、見落としたり、じっくり見られなかったりした部分もある。圧巻は、1区(6㎞)のラスト数百mで、長野東高校エース真柴愛里選手が、ラストスパートを掛け、渾身の力でストライドを伸ばし、後続の選手を引き離していく場面である。同じ場面を何度も繰り返して見た。水戸黄門の「葵の御紋」が登場する場面より、数十倍は痛快で、活力が湧いてきた。ありがとう。
・・・今月は、寒風の中での散歩を、俳句の題材にしました。

1区ラストの力走(真柴)

 【俳句-①】は、冬晴れとなった佐久の空の素晴らしさを詠みました。落葉して枝だけとなった裸木なので、空の「あを」さが透けて見えるのは当然の現象ですが、普通に見上げた空の「あを」さより、更に色調が鮮明になったように感じました。季語は、「裸木」で冬です。

諏訪神社からの浅間山(佐久の冬晴れ)

 「裸(はだか)」という言葉のイメージは、内容や状況によって、また文化や風土にも関係して、大きく異なるのではないかと思う。
 例えば、裸体(らたい)から連想する場面や状況で、太って腹の出た男性の裸姿を見る時、相撲廻しの力士とパンツ姿の肥満男性では、好感度が違う。もっとも、見方は、人それぞれとも言えるが・・・。
 また、裸婦像についても、絵画や塑像・写真の場合、ある種の芸術的鑑賞からの視点や性描写からの視点、人の好みからの観点からと、こちらも好悪には複雑な背景があるように思う。 
 その点で「裸木」は、「素(そ)」という無味乾燥な響きでありながら、「生きる為の仕方の無さ」という雰囲気がして、少なくとも悪い印象は無いのではないか?
 それ以上に私は、自然環境の変化に順応し、健気に逞しく生きていく樹木(植物)という生命体の神々しさを感じる。とりわけ、年数を経た大木には、畏敬の念を抱く。
 だから、「裸木」という季語は、好きである。それ故、昨年の師走の俳句にも使ったが、今年も素直に口を突いて出てきた。
 ちなみに、我が家から歩いて往復60分の散歩コースの折り返し点が、この諏訪神社である。

諏訪神社から茂来山を臨む

 

 


 【俳句-②】は、青空に上弦の白い月が見えていたが、折しも、佐久上空を飛ぶ定期ジェット旅客機が、あたかも月めがけて衝突するかのように接近し、通り過ぎて行った様を詠んだ。季語は、少し造語っぽいが「寒半月」で冬である。

寒半月(上弦の月)

 2024年(令和6年)12月1日の月齢は29.4で、2日が0.7であるので、完全な「新月(月齢0.0)」は、1日と2日の間にあるが、大雑把な言い方をすれば、暦の日付け引く1日で、月の呼称にして良い。つまり、三日月は12月4日、十五夜は12月16日、三十日月(29.7)は12月31日となり、令和7年の元旦は、切り良く一日月から始まることになる。
 私が、散歩していて見た光景は、12月8日の午後3時頃だったので、まさに上弦の半月で、方向は南東である。
 季節変化による太陽と月の軌道の関係は逆で、冬は太陽の南中高度が低いのに対して、月は高い空を通る。それ故、月の形には関係なく南中する時に「空高く懸かる寒月」を見ると、心なしか小さく寒々と見えるようだ。
 私が目撃したのは南中前であったので、高度はまだ低く、目線の方向であり、ここへ、ジュラルミン製の機影が銀色に輝くジェット旅客機が、衝突するかのように「ニアミス(near miss)」をした。

 しかし、言うまでも無いが、高度数千mを飛ぶ旅客機が、38万㎞隔てた地球の衛星「月」にぶつかるはずは無い。偶然にも、同じ方向に見えたに過ぎない。
天体ショーの「日食」や「月食」を観察する原理であることは言うまでもない。

 蛇足ながら、「銀ジェット寒半月にニアミスす」と、「に」と「す」を連続させて接近させるという「ニアミスす」を文字遊びをしてみた。特に、「す」は、テレビ番組「ドクターX」大門未知子医師の決め台詞の『私、絶対に失敗致しません』と共に多い、『いたしますー!』と、語尾を強調した口調が、印象深かったので、採用してみたのですが・・・、だめですか?
 今は、句会で遭えなくなってしまった先輩S女史に、私が『俳句と言えども自然科学的に不自然なことは嫌です』と言うと、『俳句は情緒よ』と窘(たしな)められていましたが、今回は私が、ぶつかるはずもない月とジェット機を同列に取り上げている姿勢に免じて許してください。
 ちなみに、ジェット機が通過した後にできた「飛行機雲」を撮影した秋空を思い出して載せます。お隣、山梨県北杜市の「ハイジの村」での光景です。

飛行機雲(ハイジの村・R4.9.11)

 

 【俳句-③】は、寒風の中、冬田道を散歩している時、ふと不安になって振り返り、自分の影法師を見た様を詠んだ。季語は、「冬田道」で冬である。

影法師



 「冬田道」という季語は、冬の田圃中の道という意味であるが、私の日常に良く合うので、好きな言葉である。水田地帯で、季節によって変化する稲の生育に関して環境を物語る冬の季語として、華々しい農繁期の光景と対峙する。殺風景ではあるが、心を癒してくれる飾らない自然を良く表現してくれる言葉で、趣深いと感じている。
 さて、少し夕暮れが遅くなってきたので、午後3時~4時に散歩をするが、できる影は長く伸びる。散歩コースは、南北方向への選択によりバリエーションがあるが、基本的に我が家の位置関係から、冬田道を東に向かい、帰路は西に向かう。この為、行きに影法師を見ながら進み、帰りは影法師を引きずって来る。
 自分と同じ動作をする分身としての影法師に愛着を感じるが、進行方向が変わり、その影が見えなくなると、不安に思う。当然あるはずとは思いつつ、振り返って見て安心する。

「馬鹿だな!」と独りごとを言いつつ、帰路を急いだ。
 そして、「光に向かうと影は見えないが、光を背にすると影ができる」などと、哲学的な言葉をつぶやいた。

師走の十三夜 (夕暮れ)

 

           【編集後記】

 令和6年12月の俳句は、せめて大晦日までに、「はてなブログ」に載せようかと計画していたが、年を越してしまった。

 今日は、令和7年1月8日。佐久地方は、良く晴れているが、最高気温3℃で、西~西北西の季節風が強い。今日から1月10日にかけて、冬型の気圧配置が強まり、日本海側では大雪となる予報が出ている。既に、山陰地方~北陸地方~東北の日本海側にかけて、そして、長野県の北部や群馬県の山岳地帯も雪が降っているようだ。

 そんな気配は、佐久地方の空を見ていても想像できる。

 

北(浅間山火山群)の雪雲

南(八ヶ岳の山並)の雪雲

 佐久平は、良く晴れているが、盆地の北(浅間山火山群)と、南(八ヶ岳連峰)は、強い季節風に流された「雪雲」が水平にながれ、高い山岳地帯を覆っている。

西~北西方向(飛騨山脈北アルプス)

 普通の冬型気圧配置であれば、千曲川の瀬音の聞こえる堤防から、山容に特徴のある「槍ヶ岳」を始め、北アルプスの山脈(やまなみ)が、真っ白く見えているが、今日は、雪雲に覆われて見えない。

 これに対して、佐久~関東方面(群馬県側~秩父)の空は、真っ青である。(今日は、流された「ちぎれ雲」があったが・・・)

 【俳句-①】佐久の空裸木透かす「あを」さかな 
・・・と、佐久の空を俳句にしたが、敢えて、「」付の「あを」と空の色を表現したが、佐久の空の色は、単純な青色ではない。

 薄い水色~青色~群青色~藍色~紺碧・・・その日の天候や空の位置(見上げる方向)によって、色々に見えている。そんな複数な色であることを表現したくて、古風な「あを」としてみた。

 ちなみに、物理的(科学)な言い方をすれば、電磁波の内、可視光(太陽光)が大気圏を通過してくるので、大気層の厚さや屈折などの要素から、見上げる高さや見る方向で「青色散乱」が違うように見えるのは、冬季だけの特徴ではないようだ。

 いずれにしろ、毎日、見慣れた「佐久の空」ではあるが、日々、時刻にもよって変わる美しさを感得できることに感謝である。 (おとんとろ)


 

令和6年11月の俳句

          【霜月の句】

① 畑の先 山の影さす 暮れ早し

② 鼻歌で 鬼笊の柿 つるべおり

➂ 綿虫や 山旅終えた 懐古あり 

             ⦅初冬の農作業から》

 

 朝の最低気温が10℃を下回ると、寒いと感じる。10月下旬にも2度あったが、11月4日からは連日となり、「初冬」らしい朝の趣となった。その後、しばらく足踏みするような時期を経て、11月20日に初めて氷点下となる気温を記録した。月末の3日間は再び暖かな日となりつつ、月は師走へと改まった。それにしても、佐久地方としては、かなり暖かな冬の始まりである。 
 この暖かな気候は、野菜にも影響していた。白菜の収穫時には、カラマツの落葉(針葉)が、食べる方の葉や外葉(そとば)の隙間に紛れ込んでいて、大変である。料理前に、何度も水洗いをして除かないといけないからだ。だが、今年は違う。茶褐色に変色してはいても、針葉は、まだ枝にしっかりと付いていて、かなりな強風が吹いても舞い散ることはなかった。カラマツを基準にすれば、白菜は十分な寒さを経験しないまま、巻いてしまったのかもしれない。どうも味噌汁の具材に入れても、旨味が出てこない。高原で栽培している専門家の育てた、我が家の白菜より一回り以上も大きく立派なもので調理しても、明らかに美味しくない。
 反対に、葱は違った。何度か霜を経てから抜こうと計画していたが、日数だけが経ってしまうので、待ちきれずに収穫することにした。それでも、本来の旨味がある。もっとも、昨年は、途中で錆病(さびびょう)が発生したので、味が格段に落ちていたせいもあるかもしれないが・・・。素人でも感じる気候変動と野菜の品質の違いであるが、商業ベースで見れば、売れ行き筋に大きな影響を与えているだろう。

 さて、世界の気候に関する異変を伝えるニュースも飛び込んできた。スペイン東部のバレンシア地方で、鉄砲水が発生(10/29~)し、死者223名・行方不明17名の大水害が起きた。激流で流された自動車が、まるで自動車解体場のように折り重なる街中の光景は、日本の水害で見たことがなかった。被災地見舞いに訪れた国王に泥を投げたり、救助の遅れに抗議する13万人のデモがあったり、こちらも日本では想像しにくい。
 さらに、南部のアンダルシア地方のマラガ(ジブラルタル海峡に近い避暑地)で、
70mm/時を越える豪雨被害(11/13~)が発生した。その他、各地で水害が発生している。晩秋~初冬、「DANA」と呼ばれる寒気を伴った低気圧が移動し、ここに北アフリカからの暖気が吹き込み、巨大な雨雲に発達したのが原因と言う。
「ハリケーン」や「サイクロン」は見聞きするが、DANAは初耳だった。

 解説によれば、バレンシア州パイポルタ地区の鉄砲水被害は、スプロール(sprawl)現象と言われる「都心部から郊外へと無秩序・無計画に市街地開発が急速に行われた」結果、被害を大きくしたとも言われている。

都市近郊の農地・緑地が減っている「パイポルタ地区」

           *   *   *


 ところで、今月は、畑仕舞や冬に向けた準備の農作業で、見聞きし感じたことを題材にして、俳句を練ってみた。~初冬の農作業から~である。

 

 【俳句-①】は、畑仕舞も済んで、「冬ぶち」と呼ばれる耕作をしていた時、
管理機が進んでいく先(東側)に、山の影ができていた様を詠んだ。思わず、もうそんな時刻かと思った。季語は、「暮れ早し」で冬である。

11月下旬午後二時半、西の里山に陽は隠れてしまう

 晴れの特異日10月10日は、今年も晴れたが、その前に雨がまとまって降ったので、焼却処分する夏野菜の枯れた枝葉は、なかなか乾かない。 
 それらが乾くのを待ちつつ、庭木や山の畑で剪定した枝を積んでおいたものを大量に集めて、11月9日に燃やして畑仕舞をした。翌10日に、取り入れの済んだ水田から事前に運んでおいた刻み藁を散らした後、耕作をした。これが、「冬ぶち」と呼ばれる今季最後の畑作業となる。
 正確に言うと、鋤を使った本格的な耕作は既に終えていて、この日は、藁を土にすき込むことが目的である。畑には、まだ下仁田葱と松本一本葱が残っているし、越冬する玉葱とニンニクが植えられている。だから、完全な終了は、葱を収穫した後の11月26日の午後であった。
 さて、佐久平の西端の高台にある我が家や、その少し東側の平坦地の田畑は、この時期、実質的な日暮れが極めて早い。盆地の西の縁となる里山が、沈み行く太陽光を遮り、山の影が佐久平に映る。冬晴れの日であればあるほど、【写真】のように、空は澄んで明るいのに、周囲は間接照明を受けて、照度が落ちる。
 管理機で東西方向に耕していると、東に向かう時が、まさに、俳句に詠んだ光景である。腕には新調した「電波時計」を付けているので、1秒と違わぬ時刻を知ることはできるが、畑を何往復かしている間に、山の影が移ろい、時刻が気になり出すようになる。
 ふと、私の祖父は、「牛耕」をしながら、この光景を見て、時刻を想像していたのだろうかと思う。祖父のまた祖父、さらにもっと昔の御先祖さんたちも、この光景を見ていただろうなと思う。単調なエンジン音だけが響いていると、どこか催眠術にでもかかったかのように、不思議な連想が湧いてくるものだ。

 


 【俳句-②】は、私の妻が鼻歌を唄いながら、鬼笊に入った柿の蔕(へた)の小枝に紐を括(くく)り付け、吊るして干し柿にするセットを作っている様を詠んだ。
 情景は、文字通りの意味だが、まずは柿の皮むき作業もあるので、とても面倒な仕事になる。それを彼女は、大好物の柿と対話するかのように楽しんでいる。季語は、柿で秋である。但し、干し柿(冬)を作っている作業なので、冬という解釈であっても良いのかもしれない。

鬼笊の柿 (皮は剥いてない状態)

 我が家の柿の木3本の内、生で食べたり、干し柿にしたりするのは、1本だけで、残りは放置されたままである。昔(私の子供の頃)は収穫していたが、今では樹高が高くなり過ぎて、一番下の枝まで竿が届かない。

 「長寿郎柿」と呼んでいた記憶がある。食べたくても届かないブドウに対して、『どうせ酸っぱい』と言い放った「イソップ童話」の狐ではないが、確か『渋柿』であったようだ。最も、干し柿にしたり、完熟させたりすれば、甘味が出てくる。
 今日収穫している柿の木の方は、上へは伸びないように、大きな枝ごと剪定している。何しろ、私自身が高齢となっていくので、ちょっとした台に載って届く程度の高さに抑えている。それでも、今年は大豊作で、推定600個ぐらい収穫できた。
 帰省した妹夫婦に、新米と柿を持って行ってもらったが、『干し柿を274個作った』とメールしてきたので、収穫の半分で300個以上はあったと思う。妹の夫は、私の妻以上に柿が大好物なので、二人して干し柿作りに精を出したことだろう。

干し柿 (夜間は不織布で完全に覆う)



 我が家では、【写真】のように、柿の蔕(へた)の小枝に紐を絡めて吊るし、干す。蜂や虫が寄って来たり、埃が付いたりしないように、不織布で覆っておく。昔のように、細い藁縄の暖簾(のれん)にしたり、蚕用の籠(かご)に広げたりして、野ざらしという製法ではなく、今では妻が、衛生を重んじているようだ。


                       *    *    *

 ところで、今年は、私の身体に異変が起きたのか、何と、私が柿を食べている。しかも、「結構、美味い」と思って、生柿を自発的に食べている。
 私は、子供の頃から、今年になるまで、柿は大嫌いで、食べたことが無かった。正確に言うと、数える程だが、学校給食のデザート献立に柿が出た時には、日頃、『食べ物は残さない。好き嫌いなく完食!』と指導している手前、我慢して食べたことはある。しかし、美味いとは思わなかった。
 それが、71歳にして、食べてみる気になり、美味いと感じ、健康に良いものなんだと、食卓に出されれば必ず食べている。理由もわからず、不思議な体験だ。
年齢と共に、子供の頃からの「食わず嫌い」な食物が次々に減っていく。数年前は南瓜だったが、今度は柿である。きっと、令和6年の秋の収穫から初冬の干し柿作りの光景と共に、忘れ得ない思い出のひとつになるかもしれない。

 

 【俳句-➂】は、陽の傾きかけた畑で、小さく群れている「綿虫」を見て、ふと旭岳山行から帰札(札幌)した列車の車窓から、原野を霧のように舞う「雪虫」を初めて見た時のことを思い出していた懐かしい心証を詠んでみた。
季語は、「綿虫」で冬である。

 ※綿虫(わたむし)は、カメムシ目(半翅目)アブラムシ科の内、翅(はね)を持ち、白色の蝋(ろう)物質を分泌する昆虫の総称である。
綿くずが飛んでいるように見えるところから、「綿虫」と呼ばれている。

札幌市街地の西に位置する「手稲山

 雪虫(ゆきむし)は、「トドノネオオワタムシ」というアブラムシの一種で、成虫になると蝋状の白い綿毛をまとって飛ぶ様子が、雪が降るようなので、北海道では「雪虫」と呼ばれている。


 雪虫の研究を北大構内で30年以上されている秋元信一北海道大学名誉教授によると、大まかに2種類あり、それぞれ大発生のピークが違うそうです。
 2023年に大発生したのは、綿のない雪虫ケヤキフシアブラムシで、夏から秋にかけて気温の高い年は、ケヤキフシアブラムシの方が発生し易い。一方、白い綿があるタイプの雪虫トドノネオオワタムシは、少し早めに最盛期を迎えると言います。(北海道新聞記事から)

※ちなみに、春の季語「雪虫」は、早春の雪の上に現れ、動き回る虫を総称するもので、「雪解虫」・「雪消し虫」と呼ぶ地方もあります。北海道で初冬の雪の降る前に現れる「雪虫」とは、まったく別なものです。

                      *   *   *

大雪山系の最高峰・旭岳

 

 俳句の話題に戻ります。綿虫を見て、初めて雪虫と出会った時のことを連想し、懐かしさで一杯になりました。
 やや薄暗くなり始めた頃、函館本線普通列車の車窓から、霧や靄(もや)のような景色が見えました。札幌駅まではもう少し、まだ原野の残る野幌辺りでした。
一緒に旭岳山行に行った道産子のS君から『雪虫だ!』と教えてもらいました。粉雪が、どんよりと曇った空から舞い落ちる光景に似ています。小さな蠢(うごめ)く虫の個体は見えませんが、無風状態に近いので、遠目に落ちてくるはずの雪は、空中に漂っている感じでした。後日、雪虫の正体について調べ、実地に微細な昆虫を手にした時には、北方種は単一なものが大量に発生するんだなあ等と、雪国の風情とは別な意味で感動もしました。

 ところで、この雪虫との出会いの光景をはっきり記憶しているのは、旭岳山行での失敗も、それ以上にしっかりと覚えているからです。
 11月2日~3日(1泊2日・停滞1日)の計画で、大雪山系の最高峰・旭岳(標高2291m)を登頂を果たした。(昭和50年)
 リーダーは私(WV部3年目)、サブリーダーはAさん(WV部4年目)で、他に同期S君と2人の下級生の5人パーティでした。
 

大雪の奥座敷トムラウシ山


 
 私は、同じ大雪山系トムラウシ山(標高2141m)には厳冬期も含めて3度、それぞれ別方向から入山して登頂していたが、旭岳を含めて大雪山系の表側(北側)・黒岳方面への山々は一度も歩いたことがなかった。
 それで、多くの人が日本の最高峰・富士山(標高3776m)に憧れて登るように、北海道の最高峰でもある旭岳に挑戦してみたかった。

富士山と茶畑


 但し登頂する目的は、少し不純で、「私の誕生日を旭岳で祝いたい」という、もうひとつの希望もあった。加えて、旭岳ロープウェイ(山麓駅~姿見駅・標高差500m)を利用するという軟弱ぶりであった。
 古稀を越えた現在の私なら、堂々と参加者を募ることができるが、当時の若者たち、しかも山に対して畏敬の念を抱いている人々が集まるWV部にあって、かなり恥ずかしい提案であった。
 私(山行のリーダー)の提案に対して、賛同するサブリーダーがいなければ、計画は没である。
 トップの2名(L&SL)を決めてから提案するのが多かったが、こんな恥ずかしい提案に対して、一緒に天塩川の川下りをしたN君や、ヒマラヤに憧れているT君が、友情で挙手してくれるとも思えない。しばらくの沈黙があって、駄目かなと諦めかけた時、Aさんがサブリーダーに名乗り出てくれた。それに続いて、3人が加わってくれて山行が成立した。その後、正式な計画書を練り、山行の安全等審議機関の承認を得て、計画を実行した。
 ところが、山の上で、大失敗があったのだ。
 誕生祝いと言っても、ケーキを持参した訳ではない。途中、ロープウェイを利用すると言っても、基本は歩く。しかも、旭岳の初雪は、10月中旬あたりからあり、積雪もあり、シーズン何度目かの雪の恐れもある。実際、11月2日の晩は、冷え込んで雪となった。

誕生日のイメージ

             *  *  * 

 そんな状況下で、下級生の一人が持参してくるはずの、石油を燃料とする調理用器具スベア・ストーブ(写真参考)を忘れてきてしまったのだ!
 少し長期間に及ぶ冬の山行では、故障の可能性にも配慮して2台持ち歩く。テント内の暖房器具でもあるからだ。
 ただ、冬山に限らず、例え日帰りの山行でも、全員が非常用食糧を携帯しているので、夕飯が作れなくても、それを食べれば良いので危険は無い。ちなみに、計画では「停滞1日」となっているので、食糧は1日分の余裕がある。だが、それもスベアが使えての話である。

スベア・ストーブ

固形燃料「通称・メタ」

 この時、もうひとつ対応策がある。それは、冬山の場合、もし、遭難して雪の中で待機する(ビバーク)場合を想定し、非常用「固形燃料・メタ(ノール)」を全員が携帯している。それを使えば、1回分くらいの料理は十分可能である。
 そこで、装備を忘れた彼が、気づいて「メタ」を出してきたが、持参した物は小型で、火力が弱く調理の途中で終わってしまう。他の人の物で途中で追加しないと難しい。
 その状況下で、私は、自分の鼓動の高鳴りを意識していた。
 私も、すぐに「非常用パック」を開いて、中身を確認したのだが、スベア点火用「メタ」はマッチやライターと共にビニール袋に包んであったが、非常避難(ビバーク)用「メタ」は無かった。古くなり、買い替えるつもりで、非常用パックから出したままで、追加してなかったからだ。私は、焦っている自分が、仲間から悟られないように、冷静を装った。

 

 もう一人の下級生も、小型のものだと言う。皆が、躊躇(ちゅうちょ)していた
その時、A君が、大型の「メタ」を出してきて、『これでやろう』と極めて自然体で缶の蓋を開いた。
 ・・・・私は、恥じていた。リーダーである私が、基本中の基本とも言うべき装備に不備があり、しかも、下級生と言えども一人前なのだからと、出発前に、再点検をしなかった。(多くの場合、そこまでしていないが、私が2年生の冬に参加した厳冬期山行のリーダーは、アタックの時ですらしていた。)
 夕食の後、持参したウィスキーを少量ずつ回し飲みをして、他の愉快な会話になったので、気は紛れてきたが、きっと、楽しくない誕生日だったのかもしれない。
 と言うのも、当時(ほぼ50年前)の日記帳を見つけて、その「3November(Monday)旭岳から無事下山。自転車を盗まれる。・・・と書くまでに2枚のページを破いてしまった。以下略」記述を思い出そうとするが、楽しかった感想などは書いてなかった。
 今、振り返って見ると、私が繕った表情や仕草を見て、Aさんは、私の失敗に気づきながらも、さりげなく最善の解決策を提案、実践してくれたのかもしれないと思っている。しかし、真実はわからない。
 一方、忌まわしい失敗の記憶は曖昧になりながらも、列車の車窓から眺めた原野を舞う「雪虫」の幻想的で情緒的な感触は、鮮明に覚えている。
 それは、記憶していたという表現より、感触というイメージに近い。どこか、癒された気がするし、本能的な快感として受け止められていたのではないかとも感じる。だから、左脳より右脳記憶として、半世紀という時空を越えた現在にあっても、蘇ったのではないか、とさえ思う。


 【編集後記】

 毎朝、信濃毎日新聞の「今朝の一句」の蘭を切り抜いて、日記帳を兼ねる大学ノートに貼っている。俳句の短評を、俳人の土肥あき子さんがしていて楽しみにしている。
 11月12日の句は、『綿虫やすぐそこまでも旅めける(宮尾直美)』で、『綿のような蝋物質を身にまとう綿虫。体長2ミリの小さな雪のような虫が、飛ぶともなく浮遊する姿を追えば、空想の世界に紛れ込んでしまったような心地となる。見慣れた家並みがどことなくよそよそしくなり、行き交う人の顔の輪郭もぼんやりとにじむ。綿虫の、この世とは別の世界で生きているような浮世離れした存在が、いつもの道をあやふやに霞ませ、「旅めける」気分にさせる。』と、短評にあった。
 これを読んで、「旅めける」が脳裏に残り、半世紀も前の北海道旭岳山行の帰りの車窓で見た雪虫の光景と共に、冬山での失態を思い出して、【俳句ー➂】を創作することになった。
 それにつけても、人の記憶の世界は、不思議だ。ある契機で時空を越えた体験が蘇ってくる。睡眠中に見る夢の世界も不思議だが、突然、湧き上がってくるのは、まさに自分の頭の中で「Big Bang」が起きているかのような気持ちにもなる。

「ビック・バン」のイメージ

 綿虫の句から1カ月経って、今日は12月12日。祖父から教わった「十二月十二日」と短冊に書いて、火を扱う場所に貼ると、火の用心になるというので、台所の「竈神(かまどがみ)」の脇へ今年も筆ペンで書いて画鋲で留めました。  (おとんとろ)

 

令和6年 10月の俳句

     【神無月の句】

 

① ひさかたの 光の朝の 芋の露

② 野に唄う 玉むらさきの 粒ぞろい

③ おびただし 産卵トンボ 何故マルチ(シート) 

                ≪秋寂の風景≫

 

 衣更えの10月1日、部屋の模様替えと夏物衣料の整理を計画したが、臨時の農作業で、実行できなかった。翌2日に、簾(すだれ)の片付けと共に実行した。まだ終活では無いが、思い切って着ないだろう夏服は処分することにした。充実した一日になったが、最高気温29℃と、真夏と変わらない天気だった。3日からは秋雨前線に伴う曇り空が続き、夏の終わりを実感できた。
 但し、令和元年(2019)10月12日~13日に、台風19号被害があったことは、信濃毎日新聞紙の警告に促されるまでもなく、父の命日と共に気にかけていた。
 今月前半には、大切な人々の不幸もあって大変であったが、既に乗り越えた。後半に予定される個人的に大変な用件はあまり無いので、心配は27日の衆議院選挙の結果ぐらいだろう。
 そこで、夏の疲れからか、気分は低迷状態で復元力が弱くなっていた10月で、秋寂(あきさぶ)しい晩秋ではあるが、自然界で気づいた、なるべく明るい題材を選んで俳句に詠んでみようと思った。


 【俳句ー①】は、まだ収穫の済んでいない里芋の葉に、冷えた朝の結露現象から水滴が集まって載り、それが朝日に輝いている様を詠んだ。季語は、「芋の露」であり、秋である。ちなみに、里芋も露も、併せて秋の季語である。

山畑の端に植えた里芋の様子

 定年退職後11年間で、里芋栽培をしたのは、今年で4回目である。家庭菜園の必需品目ではないので、気の向いた年度にしか栽培していない。
 今年の場合、積極的な理由があった訳ではないが、「長薯(別名ヤマイモ)」が気に入って昨年の失敗から他の場所で育てることになった跡地が空いて、里芋を3株植えてみることにした。それが何んと、今月の明るい題材のひとつとなった。

 それには、栽培した年のそれぞれで、印象深い出来事があったが、今年の場合が、一番まともな印象感覚で、趣深い体験だったと思うからだ。
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 毎朝、味噌汁など調理をしているが、具材となる摘み菜は、前日の夕方までに収穫してきて、水に浸しておいた瑞々しいものを使う。まさに田舎ならではの、ささやかな贅沢である。
 ところが、準備してなかったので、軽トラに乗って畑へ調達に行った。そうしたら、まさに俳句に詠んだ光景であり、里芋の大きな葉に、ダイヤモンドなら数千カラット(carat)にもなる大粒の水滴が朝日に輝いていた。「蓮の葉の水滴のロータス効果」や、「蓮の葉の水滴で墨をする」という風流な話題のことも知ってはいたが、まさに、それらに似た現象でもあり、感動は倍増する思いだった。

里芋の葉に溜まった水滴

 ところで、他の栽培年度では、里芋の、まったく別なことで感動していた。
 初年度は、里芋の根が、宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」に登場する年を経た猪の「乙事主(おことぬし)」が、「祟り神」となって暴れ狂う場面で、体内から無数のミミズのようなウジのような奇妙な物が噴き出してくる光景と、里芋の根の付き方が似ていたことが印象深かった。監督は、里芋の根からシーン描写をイメージしたのに違いないと思ったことであった。

 二回目は、里芋の茎を使った「ずいき」作りに挑戦してみたことである。里芋の茎は、維管束の延びる方向にきれいに裂ける性質があり、包丁を使わなくても手できれいに裂けて、乾燥させれば「干瓢」のようにもなるし、生だと「蕗」のようにも扱えるので、調理してみた。貴重で珍しいとは思ったが、苦労して味わうほどでも無いという感想だった。

 三回目は、お正月の「おせち料理」に調理したら、家族に好評であったので、越冬用ジャガイモのように翌年の種芋にしようとしたら、保存が効かなかった。そこで、一部を掘らずに地中で越冬させようとしたら、寒さ厳しい佐久の地では無理で、春先には全て腐っていました。(後で知るが、里芋の原産地は、亜熱帯の東南アジアであった。)

 さて、四回目の里芋は、まだ掘り返し、調理もしていないが、さらに何か新しい情報を提供してくれるだろうか?

 

 【俳句-②】は、庭先の「ムラサキシキブ」の果実が、集団として調和のとれた「混成四部合唱団」のように感じられ、一粒ずつは、歌声を構成する一人ずつの懸命な思いのようにも感じられて、心地良かったことを詠みました。季語は、「玉むらさき」こと「ムラサキシキブ」で、秋です。

ムラサキシキブ (インターネットから)

栽培種に多い「コムラサキ」(インターネット)

 秋になると紫色に熟して重なり合った果実となるので、京都では「紫重実(むらさきしきみ)」と呼んでいたが、いつしか平安時代の「源氏物語」作者の紫式部に例えたものだというのが通説であるようだ。別名に「実紫(みむらさき)」や「玉紫(たまむらさき)」というのがあると知り、『玉むらさき』を採用した。
 ちなみに、学名はCallicarpa japonicaで、シソ科というのも驚きである。
 ただ、多くは栽培種の「コムラサキ」が多いというので、我が家の「紫式部」なるものを見ると、やはり、指摘のように、正確には「コムラサキ」と呼ぶのが良いらしいことがわかった。
 ただ、今は、家内が春先に大きく剪定してしまい、芽生えさえ心配したことが嘘のように繁茂して実を付けているのが嬉しい限りである。

我が家の紫式部(?)の枝葉

 

 【俳句-③】は、タマネギの植え付けをしている時、産卵中の「連結した蜻蛉(トンボ)」が、頻繁に黒色のマルチシートに訪れることの不思議さを詠みました。
季語は「トンボ」で、秋です。

マルチシートへの「連結トンボ」の産卵を目にして

 いきなり脱線ですが、私は、これまで「トンボ」を題材にした俳句を既に3句作っています。
 『淡き恋 番蜻蛉を きみと見し』(令和元年9月:若き頃のデート中にトンボの交尾を彼女と見た恥ずかしさ)
 『秋茜 群れて飛び交う 平和かな』(令和3年10月:編隊飛行の戦闘機でなく赤とんぼが飛び交う平和な郷土)
 『秋茜 千日紅が ヘリポート(令和5年10月:赤とんぼと千日紅の赤の対比の美しさ)
 それぞれ「トンボ」の姿に感動したので創作したものでした。

 ところが、今回は、「なぜ、マルチシートに産卵するのだろう?」と疑問に思い、インターネットで調べていて、私が漠然と「番蜻蛉(つがいとんぼ)」と認識していた内容の間違いに気づきました。つまり、雄(♂)と雌(♀)の2匹のトンボが一緒にいるのは共通していても、交尾している時と、産卵している時では、目的も姿も違うということです。

写真ー1 とんぼの交尾(インターネットから)

 以下、調べた内容の概要です。
 トンボが連結しているのは、交尾ではなく、【写真ー1】の形が交尾です。
 写真の場合、上が雄(♂)で、下の丸くなっている方が雌(♀)です。♂は、♀の頭部を押さえ、自分の腹部にある交尾器に、♀の尻尾に相当する部分(腹部)を受け入れます。この交尾活動で、♀の体内に、♂の精子が入ります。

 ※ちなみに、私は、初めて写真を見た時、♀の腹に♂が性器を押し込んでいると誤解していました。逆の動きなので、驚きでもありました。(交尾器に精子を貯めておく。)

 さて、交尾後に連結して産卵する場所に向かいます。雌(♀)と雄(♂)が離れ離れになると、♀は他の♂と交尾してしまいます。すると、前に交尾した♂の精子は掻き出されて捨てられ、後に交尾した♂の精子が受精できるようになります。だから、交尾した後、産卵する場所まで同行しないと、自分の子孫を確実に残せないので、連結していくのだと言います。

 畑で写した写真では、2匹が、ひとつの棒のようになって写っているだけで、詳細はわかりません。それで、【写真ー2】を見つけてきました。
 連結トンボは、♂が、♀をしっかり捕まえて離れないようにしています。写真の2匹の内、先頭が♂で、尻尾に相当する部分で、後方の♀の頭部を掴まえています。

写真ー2 連結トンボ(インターネットから)


 ※こちらの写真でも驚きました。掴まえるというイメージからすると、♂が後方から♀を押さえると思いがちです。しかし、♀が尻尾に相当する部分(腹部の後方)から産卵が行なわれるので、後ろが♀であることは、当たり前のことだと理解しました。
 それにしても、人間の場合、二人乗り自転車を、男女2人で漕いでも、なかなか上手く乗れないのに、トンボは空中を飛び回るのだから、そのバランス感覚はすごいと驚嘆しました。

 最後に、まとめです。「なぜマルチシートに産卵するのか?」は、わかりませんでした。
 トンボが、水面にちょんちょん尾部を付けて産卵する姿は良く見ます。また、まだ刈られていない稲の茎や葉でも見ます。ものの本によれば、水辺の自然の草木、石などにも産卵するようです。
 ただ、我が家の畑のマルチシートの上では、水がかかることもないので、いずれ、卵は空しく死んでいくはずです。それなのに、おびただしい数の番蜻蛉(連結トンボ)がやってくるのです。私は、農作業の手を休め、眺めていました。


 【編集後記】

 今月から、私の創作した俳句は、俳句会などで他の人の目に触れ、批評されたり修正されたりすることが無くなりました。まさに完全に悪い方の意味で「唯我独尊」となってしまいそうです。
 信濃毎日新聞の「信毎俳壇」や「今日の一句(土肥あき子・選)」を切り抜いて、俳句への関心は、それなりにありますが、肝腎な作品の方は、なかなか上手くならないものですねえ。 (おとんとろ)

令和6年9月の俳句

      【長月の句】

 

① 寿ぎに 辛味噌和の 九日(くんち)茄子

②  閼伽流山 岩観世音も 秋の色  (明泉寺にて) 

③「風立ちぬ」青春の夢 敬老日   ≪秋を味わう≫

 


 我が家でも、ついに「クーラー」を入れることになった。母の暮らす棟続きの離れには、既に2台設置してあったが、夏のキッチンで料理をする時に耐えられないという家内の要請に応えての決断である。思い切って、座敷と我々の寝室も加え、つごう3台設置した。
 都会から見れば、避暑地である佐久地方で、しかも、クーラーとは縁が薄いと思っていた我が家にとって、大異変である。
 9月の最高気温が30℃を越えた日は、13日も記録されたにも関わらず、汗をかくのは、そんなに嫌でもないので、日中の農作業は少しも苦にならなかった。

さすがに、半日(正味2時間ほど)で作業着を着替えて洗濯するのは大変でした。一方、冷房を入れた夜の寝室は快適で、早く導入すれば良かったと思いました。
 (ちなみに、8月の最高気温30℃を越えた日は、21日もありました。)

 例年、お盆を過ぎた頃から9月にかけては、夏野菜が次々と収穫時期を終え、片付けが始まります。

 西瓜を皮切りにトウモロコシ、ズッキーニ、胡瓜、南瓜、レタス・キャベツと進みます。支柱棚や囲い(ネット類)、マルチシートの片付けは骨の折れる作業ですが、製作を始めた初夏の苦労の記憶も蘇り、しみじみとした気持ちになります。ただ、茄子・トマト・オクラ・ピーマン類は、初霜の降りる頃まで収穫時期があります。もう、食べ飽きているのに、数日、収穫を滞ると、取れ過ぎてしまい、贅沢な悩みですが、捨ててしまいたくなります。初物の頃は、待てずに小さいのに収穫していたことが嘘のようです。 

 一方、初冬の収穫を楽しみに育て始めた白菜・大根・人参・野沢菜などは、可愛らしく見えます。自分の人間としての身勝手さや横暴さを自覚してしまいます。

2024年台風10号・大雨の説明図

 さて、9月と言えば台風シーズンですが、
今年も異例な気象状況でした。【説明図】は、8月29日朝に鹿児島県薩摩川内市に上陸した台風10号の被害が、全国各地に及んだ時の気象メカニズムです。この後、次々と発生した台風11・12・13・14号は、太平洋高気圧の西への張り出しが強い為、朝鮮半島~中国~ベトナムを襲い、大きな風水害を発生させました。
 そして、9月20~22日には、ほぼ同じ現象が台風14号と秋雨前線によって起き、地震からの復旧途上の能登半島地方は、更に過酷な自然災害を被りました。
 猛暑とともに気圧配置が変わってきて、予想し難い自然災害が極東アジアを襲うようになってきています。全地球規模でも、似た傾向にあります。そんな暗いニュースを見聞きするにつけ、平穏な故郷に守られている恩恵に感謝しつつ、懸命に生き、生活している私だと思いました。
 今月は、佐久俳句連盟吟行会での俳句を中心にしたいと思います。尚、9月は、社会的・政治的大事件がありました。「編集後記」で触れるつもりです。

 

 【俳句-①】は、9月9日(重陽(菊の節句)に茄子を食べると病にならないと聞いたので、茄子の味噌和えを作って食べたことを詠んだ。季語は「九日茄子」で、秋と解釈しました。ただ「茄子」だけや、「茄子の花」なら夏の季語です。

 さて、旧暦9月の行事ですが、「9日・19日・29日」の3回の9の日は、三九日(みくんち)と呼ばれています。 この9のつく日に茄子を食べると、中風を病まないと言い伝えられていて、茄子料理を食べる習慣があるそうです。
 旧暦9月は、新暦なら8月に当たるので、私は、9月9日のつもりでいましたが、8月9日のことなのかもしれません。但し、俳句の世界で8月は、初秋となるので、「九日茄子」は、やはり秋の俳句として良いのかなと思いました。

父の好物の茄子

 ちなみに、【野菊の俳句】は、父の命日に墓地の参道に咲く野菊を見ながら、草道を踏み分けて墓参した時のものです。父の好物のひとつが、茄子であったので、俳画に茄子と茄子の花を描きました。

朝の夏野菜定番料理(味噌汁は別に)


 【写真・定番料理】は、夏野菜の収穫時期になると、ほとんど同じメニューでつくる朝飯料理です。品数によって料理に要する時間に幅がありますが、味噌汁と併せると1時間~1時間半です。
 (ア)ポテトサラダ:一年中作ります。調味料やチーズ・ハムなどは市販のものを使いますが、栽培・収穫・保存ができる時期の野菜は、我が家の畑が産地です。 (イ)「ラタトゥイユ」風:各種ピーマン類とトマトの煮込みで、味付けはオリーブ油と岩塩です。少し贅沢に肉類やベーコンを入れることもありますが、入れなくても十分おいしいです。新鮮なトマトの味のお陰なのでしょう。
 (ウ)オクラ:湯掻いただけのもの。味噌汁には、火を止めた後に入れる。冷凍保存しておいて、夏季以外は納豆と混ぜることもある。
 (エ)茄子の味噌和え:茄子の新焼き(鴫焼き)と交互にする。サラダ油(紅花油)で軽く炒めた後、味噌と黒砂糖・唐辛子(七味)を水で溶いて煮込む。

 辛味に弱い人がいると、鷹の爪は入れないで、甘味噌和えにしておいて、個人的に七味唐辛子などを振りかける。
 ※俳句に詠んだ時は、甘味噌より辛味噌の方が、男性的でいいかなと感じたが、ベースに甘さが無いと、辛さだけでは旨味が出ないように感じる。
 話は反れるが、信州味噌の味に慣れると、他の地域の伝統的な味噌、とりわけ白味噌系統の麹や甘さのあるものには、違和感を感じてしまう。それぞれの旨さがあるにも関わらずである。

茄子の辛(甘)味噌和え

 

 

 

 【俳句-②】は、閼伽流山に通じる山道脇に安置された石仏群の背後の岩に「観世音菩薩像」の大きな影ができることを知り、不思議な現象だと思った。折しも、爽やかな初秋の様を詠んだ。季語は、「秋の色」で、抽象的表現だが、それが不思議さと調和するかなと採用した。

閼伽流山と明泉寺 (平山郁夫・画)

 「閼伽流山(あかるさん)」は、長野県佐久市香坂(こうさか)地区にある山で、近年、日本最古と言われる香坂山遺跡の少し西に位置する。山体は「溶結凝灰岩(weldedtuff)」と呼ばれる火山岩で形成されている。噴出した火山噴出物が高温の為、構成物質がもう一度溶かされて固まってできるが、固結地形や諸条件によって均一でなく、後に風化浸食により奇岩となることも多い。
 佐久地方の溶結凝灰岩の起源は、新第3紀・本宿カルデラを伴う超巨大噴火に求められ、群馬県境に近い(千曲)川東地区に広く分布している。
 現地形に調和的なAタイプもあるが、渓谷を成すBタイプもあり、閼伽流山は、距離的にも近いBタイプだろう。
 そこで、平山画伯の麓、閼伽流山観音院明泉寺の夏の風景画(スケッチ)の背景が、少しわかると思う。

 ※参考:私の「佐久の地質調査物語Ⅲ」で、佐久地方と本宿地域との関係がわからないが、目下、奮闘中です。

溶結凝灰岩塊(転石)中の黒曜石(重力方向がわかる)

A:堆積後、表土に覆われる(青沼小の東側崖)

B:浸食され奇岩となる (内山狭)

 ところで、天台宗の明泉寺(みょうせんじ)」で行なわれた佐久俳句連盟吟行会の折り、寺名を「めいせんじ」と述べるほど、住職から寺の縁起と歴史について聞くにつけ、あまりの私の無知であったことに反省しています。
 明泉寺は、天長3年(826年・平安初期)に、天台宗の慈覚大師が訪れた時、当地の地形が比叡山延暦寺と琵琶湖の関係を縮小したように感じられ、建立されたと伝承されている。(※方向は南北が逆。現香坂川中流部に湖があったことになるが、地名や伝承はあるものの、考古学的・地質学的には、まだ十分に確かめられていない。)

 

 かつて観音堂脇から清冽な泉が湧き出ていたことから、サンスクリット語起源の閼伽流山となったと言う。そして、開山1200年を迎える古刹だっと知った。
 私にとって衝撃的だったことは、檀家の「洞源山貞祥寺(ていしょうじ)」が、信州への武田氏侵攻により、本来の天台宗から曹洞宗に改宗させられたということである。明泉寺は、源氏・頼朝の寄進関与した寺院の為に、改宗が免れたと言う。
 明泉寺から散策コースとなっており、1町目から12町目まで1町(約109m)毎に歌碑が建立されている。10町目のある観音堂脇には、秩父三十四観音菩薩碑・板東三十三観音菩薩碑・西国三十三観音菩薩碑の百番観世音が祀られており、約30mほどの崖下に立ち並ぶその風景はパワースポットのような圧倒感がある。(後半の内容は、佐久市のホームページから引用)

パワースポットなのか?

 

時間帯により観世音像が発生する



      

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 私が不思議と感じて、話題にしたのは、岩石塊の形状と日光(場合によっては月光)の射す方向による創作的映像の偶然なのである。
 観世音像は、信者が寺へ寄贈したものを、住職が「額縁」に入れたものを硝子越しに撮影したものなので、周囲の状況は見難いが、影の全貌は確かである。要するに、ある時間帯にこの場に居れば見られる現象のようだ。

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 歴史ある寺の御威光と閼伽流山信仰の霊験の暁とも解せますが、偶然の一致は、あまりにもユニークな話題となります。

河童に見える石(香坂川第3沢)

 【写真・河童またはおかっぱの子】は、近くの香坂川第3沢の地質調査の時に体験しました。
溶結凝灰岩の転石に午後の日光が射し、奇妙な姿に見えたので写しましたが、別方向から見ると、ただの岩塊に見えました。「人面木」も、同様です。人間が、自分で姿を想像してしまうようです。但し、時間と場所は運命的です。

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 最後に、寺の本堂天井に描かれた龍の「天井画」を作者「三鈴」氏の署名がわかる画像で紹介します。 
 小4の時、遠足で訪れて以来、こんなに素晴らしい名刹があることを知らず、申し訳ないと思いました。

三鈴の銘のある天井画

 

 【俳句-③】は、「敬老の日」を迎えた晩に、なぜか高校時代のことが夢に出てきて、しかも、堀 辰雄の小説「風立ちぬ」に関する内容であったことを詠んだ。季語は、「敬老日(行事)」で、秋である。

1938(昭和13)年初版

 私が高校生の頃、NHKラジオで「日曜名作座」という番組があった。森重久彌さんと加藤道子さんの二人だけで、少ない効果音の中で、小説などを朗読していた。これが気に入ってしまい、私も真似をして録音・編集をして、学校放送に流してみようと計画した。そして、昼の校内放送で音楽や製作番組を流したが、「橋のない川(住井すえ)」や歌「手紙(岡林信康・作詞作曲)」など同和問題に関係した話題も提供したので、注意人物視された経緯もあったと聞く。ただ、堀辰雄の小説「風立ちぬ」は、製作半ばのままで、完成できなかった。その意味で、まさに青春の「夢」のままで立ち切れた。
 当時の私は、この作品や「伊豆の踊子(川端康成)」のような清らかな恋愛に憧れていて、ややオタク趣味もあったようだ。

宮崎 駿 監督作品 (2013年)

 しかし、時は流れて、「スタジオ・ジブリ」宮崎 駿監督の同名「風立ちぬ」の作品を視聴する機会があり、私の解釈が浅かったことに気づくと共に、『何があっても、生きることの大切さ』を教えられた。改めて、原作を読むと、テーマは青臭い恋愛ドラマだけではなかったことに気づいた。「生と死」という重い内容を含んでいた。
 また、アニメ動画の時代が第二次世界大戦前後での「零式戦闘機」の設計・製造の話題に関連していて、最近話題の「あの花が咲く丘で君とまた出会えたら(汐見夏衛・作)」の映画を思い出した。

2023年に映画公開(汐見夏衛・作)

 こちらは、SF的な発想から、戦時末期の特攻隊飛行兵と、令和の時代からタイムスリップした女子高校生の恋愛ドラマである。戦時下で、時代差と価値観の違う少女は、いくつかの事件にぶつかる。その過程で、ふたりは引かれ合うが、叶わぬ恋だった。
 最後は、1945年からタイムスリップして戻った少女は、社会科見学で「特攻資料館」に行くことになり、そこで自分宛の手紙と出会い、涙枯れるまで泣く。そして、青空を仰ぎ「ここは新しい世界だ」、「あなたたち(特攻隊員ら)が命を懸けて守った未来を私は精一杯生きます」と静かに誓うというシーンで終わる。

 

      【編集後記】

 令和6年9月の社会面重大ニュースのひとつは、中国・広東省深圳市の日本人学校に通う10歳の男児が、殺害された事件だったろう。9月18日午前8時(日本時間9時)、男児は登校中、中国人男性(44歳)に果物ナイフで突き刺され、救急搬送先の病院で、9月19日未明に亡くなった。
 中国では、6月24日にも、江蘇州日本人学校のスクールバスを待っていた母子が、中国人男性(52歳)に切りつけられた。さらにバス内への侵入を阻止しようとして中国人乗組員女性が殺害された事件が発生していた。
 9月23日、柘植芳文外務副大臣は北京を訪れ、反日的なSNS投稿を取り締まるよう中国側に求めたが、同日の記者会見で中国外務省は「中国には反日教育はない」と反論。その後も、中国側は、「偶発的事件」とし、犯人の動機を明らかにしていない。
 You Tube情報によれば、習近平体制となり、ネット空間での政権や共産党批判は厳しく取り締まられているのに、反日的コンテンツは溢れている。日本人学校は、日本のスパイ養成機関であるとのフェイク・デマ情報さえ流れていると言う。
 ・・・中国国民の不平・不満が、政府や共産党に向かないように、悪意に満ちた嘘情報に基づく教育が巧みに行われている。亡くなられた少年が気の毒でならない。ご冥福を祈ります。・・・犯人も憎いが、それ以上に黒幕とも言える、明らかに犯罪を作り出した原因となっている政治・社会体制はもっと憎い。

 その次の重大ニュースは、自由民主党総裁選挙であろう。
 9人の立候補者が立ったことや、第1回投票・第2回投票(決選投票)の内容については、報道済みである。

あの花が咲く丘でまた君と出会えたら



 私は、【俳句-③】の解説の最後で触れた「あの花の咲く丘で君と出会えたら」(汐見夏衛・作)(小説・漫画・映画)に関連して、この映画を取り上げた総裁選出馬会見(9月9日)での高市早苗候補のスピーチが心に残っている。
 (前略) 彼女(主人公・加納百合)は気づきます。
『私たちが生きている今、それは誰かが命がけで守ろうとした未来だった。』       (略)
『今、皆様も私も、誰かが命をかけて守ろうとしてくださった未来を生きています。』『今の一時代をお預かりしている私たちには日本列島を強く豊かにして、次の世代に引き渡す。その責任があると思います。』『地方を元気にしていく。どこに住んでも安全に暮らせる。そういう日本列島にしていく』・・あの花とは、白い百合だった。

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 パリ五輪女子卓球の早田ひな選手が、「鹿児島の特攻資料館に行きたい」と会見(8/13)で述べ、『生きていること、そして自分が卓球をこうやって当たり前にできていることが、当たり前じゃないというのを感じてみたい』と語りましたが、これに噛みついたC国らがいました。彼女は、知覧特攻平和会館で平和の尊さを学び、そして、高市早苗氏が感動を込めて演説した加納百合さんと同じ気づきをしたかったのだと、私は思います。
                      (おとんとろ)