ゲームゼミが1万字の選評と共に選ぶ、2024年のGame of the Year
ゲームアワードの役割についてずっと考えていた。
The Game Awardsを筆頭に、世界のゲームアワードの限界が露呈し、失望されつつある。TGAの主な審判者はゲームメディアなのだが、今年はそのゲームメディアの最大手が次々に買収・解雇・閉鎖された。その代わり、急速にゲームの評価をにない始めたのがYouTubeなどのSNS、そしてSteamのような大衆のゲームレビューだ。
現実的に考えて、筆者自身でさえ、少数のメディアによる評定よりも大衆による風評を参考にすることはよくある。しかし、一方でゲームアワードにのみできる批評的な達成もまた、あるはずなのだ。それはより俯瞰的かつ体系的に、ビデオゲームに向き合うということ。知的なアングルをもって、作品の価値を理由とともに判断すること(N・キャロル)。あるいは、いや何より大切なことは、ビデオゲームの秘めたる美に対して誰よりも情熱を燃やすことではないか。
では、具体的に専門的なゲームアワードにのみできることとは何か──それは「選評」だ。このゲームがGOTYだと指名するだけなら、誰にでもできる。誰にでもできるなら、誰でも参加できるSNSやSteamレビューの説得力がまさる。しかし、一体何故そのゲームが優れているのか、あのゲームよりも上位といえるのか。その理由を訴えることは、批評的な視点を持ったゲームアワードにこそ可能ではないか。
だから、私はこの小さなインディペンデントメディアで、授賞式もスポンサー(の長ったらしいトレイラー)もなく、青い寒空の下でゲームアワードを開こうと思う。
私は今年を通じて100本以上のゲームに触れたが、単純な売上やレビュー、あるいは既存のゲームアワードも広い損ねたゲーム作品とその「根拠=選評」は多数あるように思う。だからこそ、この1万2000字を超える「選評」を通じて、新しい視点を2024年のビデオゲームに対して提示できれば幸いだ。
正直、今年もすばらしい豊作で、すべて紹介したいほど優れたゲーム作品があるのだが、今回は上位10本に絞り、ランキング形式で紹介する。自分が考える中でも珠玉の10本なので、もし選評を読んで興味が湧いた方は、実際に手に取って遊んでみてほしい。
10位:UFO 50
インディーゲーム黎明期の何が面白かったかといえば、それは未知との遭遇であった。大企業の作品傾向が凝りかたまり、どこもシリーズ続編に拘泥していた時代、見たことも遊んだこともないゲームや、ずっと前に廃れて長らく遊んでいなかったゲームが、唐突に我々の前に現れる。
こうしたゲームのありようのインパクトという点で、『UFO 50』はすばらしかった。なんせ『UFO 50』はそもそもゲームではない。本作を起動すると、UFO社という架空のゲーム企業が作った(ということにされた)クラシック風ゲームが50本現れるというゲームなのだ。(元ネタは『Action 52』という作品)
デレック・ユーを中心に、ボードゲームデザイナーのジョン・ペリー、コンポーザーのエイリーク・サークがそれぞれディレクターとして開発し、さらに麓旺次郎やポール・フーバンスも駆けつけており、平生は個人開発が可能な才能が集まって作った、いわばゲーム版のコンピレーション・アルバムとでも呼ぶべき内容となっている。
もちろん『UFO 50』内の個々のゲームは優れた物が多いのだが、個人的に興味深かったのは、作品のなかにはかなり尖ったもの(全く説明がなかったり、難易度が恐ろしく高かったり)が多いということ。仮に、これを単品で販売すればSteamレビューで不評を買うやもしれないが、50本あるうちの1つだからこそ少し遊んで放置するも、そもそも遊ばなくともよい。『UFO 50』はSteamなどのプラットフォームがインディーゲームを包括するのに対して、これ自体が一つのプラットフォームとなって作品を包括しているのである。
9位:HELLDIVERS 2
協力ゲームというジャンルは、恐らく数あるゲームの形式の中で、最も創発が困難である。
まず協力ゲームには、大きく分けて2つのアプローチがある。1つは、プレイヤーごとの能力を意図的に削ぐことで、協力を促すこと。これは昨今流行のアプローチで『It takes Two』や『Overcooked!』などが挙げられる。もう1つは、プレイヤーの能力をそのままに、1人ではどうにもならないほど困難な課題や強力な軍勢を差し向けること。これはシューター系のcoopにありがち。
実は『HELLDIVERS 2』はこの中間的存在である。『HELLDIVERS 2』はTPSだが操作の手触りは非常によく、何より大作FPSもかくやという戦術兵器の運用が可能な点から、窮屈な制約は感じない。その一方で大味な「共有ゲーム」に陥っていないのは、膨大な敵よりも味方の戦術兵器の運用それ自体にあり、長年Arrowhead Game Studiosが追求してきたFFの駆け引きに落とし込まれているからだ。
また本作のオマージュ元となっている『スターシップ・トゥルーパー』からして米国の帝国主義的な外交政策に対するアイロニーが籠められていた(そして、失われていった)のに対し、『HELLDIVERS 2』がそのアイロニーをインタラクションによって見事に継承している点も強く評価すべきだろう。
奇しくも、国際秩序が音を立てて崩れ、多くの非人道的な航空兵器とドローンにより何の罪のない市民が蹂躙されている現代、その威力を(主に味方によって)身を持って知る戦術兵器の存在は、それがDiscordやTwitchのようなソーシャルネットワークで愉快な笑いとして消費されてしまっている実情も含め、まさに『S・T』的アイロニーなのだ。
8位:ANIMAL WELL
もともと好ましく思っていたゲームの形式を踏襲した「面白いゲーム」よりも、むしろ好ましからず思っていた形式でも「面白いゲーム」の方が、意外性をもって高く評価できる。ちょうど、苦手に思っていた料理にハマった瞬間のように。
『ANIMAL WELL』はまさにこの点で評価したい作品だ。本作は、スキルのアップデートとともに広大な2D世界の探索範囲を広げていくというサイクルから成るゲームで、いわゆる「メトロイドヴァニア」と呼ばれる一連の作品の影響が見られる。
しかしながら、筆者は「メトロイドヴァニア」をあまり好ましく思っていない。もちろん上流の『スーパーメトロイド』や『月下の夜想曲』には熱中したし、インディーゲーム文化の黎明期にこのジャンルが復権した際には胸が踊った。しかし、昨今リリースされる「メトロイドヴァニア」の多くはあまりにも消極的だ。少しずつアップデートされているものの、単なる懐古趣味の域を出ておらず、私は少なからず失望を抱いていた。
ところが『ANIMAL WELL』はまさに、「メトロイドヴァニア」というジャンルを単なる懐古趣味でなく、このジャンルの再編を試みた。本作の特徴は何よりも、戦闘がほぼ皆無であること。その代わり、「探索」とそこに強く結びついた謎解きだけで構成されている。こうしたミニマリズム的な取捨選択によって、本作は「メトロイドヴァニア」の醍醐味は「探索」であり、その「探索」をどう最大化するかという点でこのジャンルを蘇らせている。
もう一つ、本作の美点は全体的にとても「チル」いこと。タイトルの通り、本作の世界は幻想的な自然界で、登場するのもあくまで動物(精霊らしきものもいる)。また世界全体でも物語らしいものはなく、そもそも言語的な説明もほとんどない。戦闘がほとんどないこともあって、プレイ行為自体に何ら強迫的なプレッシャーはなく、ただ気の向くままに時間を過ごす。恐らくこの、ただ2D世界にいるだけで幸福だという全体の雰囲気が、同ジャンルに対するアンチテーゼでありメッセージなのだろうと思う。
7位:黒神話:悟空
本作は「ソウルライク」と呼ばれる、宮崎英高がディレクションした一連のシリーズの影響を鑑みられるのだが、残念ながら多くの人はこのシリーズの素質をあまり適切に捉えてはいない。それは別に論ずるとしても、少なくとも極度の高難易度や、紋切り型のダークファンタジーといった特徴はポイントレスで、それゆえにアジアでも欧米でも「ソウルライク」を自称する多くのフォロワーは落伍する傾向にある。
『黒神話:悟空』の優れている点は、こうしたソウルライクの素質を比較的、正しく捉えた上に、独自に解釈した点に尽きる。ソウルライクの表面的な魅力に囚われることなく、そこで宮崎が追求した「ソウルライク」のコアを、自覚的か無自覚的かはともかく、かなり正しく踏まえている。さすがにアクションのキレでは一枚劣るものの、国際水準では十分上質である。
こうしてゲームメカニクスを謙虚な模倣に留めて起きながら、物語は極めて独創的である。タイトルにもある通り、トータルでの世界観は四大奇書『西遊記』に依拠するのだが、物語としてはむしろ『西遊記』の再解釈とでも呼ぶべき内容となっており、それ自体が現代中国文学(それもウェブカルチャー)の潮流にあるのだ。
実はこれこそ、ソウルライクのもう一つの素質である。ソウルライクとは表面的に上質で「本場の」ファンタジーかのように演出しているが、内実としては宮崎個人の人格が反映され、それは戦後日本の様々なサブカルチャーに遡る。『黒神話:悟空』は既にソウルライクというつまらない枷を外れているからこそ、物事の本質を見極めて批評的に実践するという点で、皮肉にももっとも「ソウルライク」と呼ぶに相応しい作品なのである。
6位:崩壊:スターレイル
GaaS(ライブサービス型ゲーム)の評価は難しい。The Game Awardsも「新しい〜価値があると判断する限り」と実質的な敗北宣言をしており、個別賞に押し込んで処理する始末である。そのうえGaaSはリリースされた初年度のインパクトをすぎると、翌年以降に「新しい価値」を見出すことはなお難しい。
しかし、『崩壊:スターレイル』のVer.3.0~通称「ピノコニー編」はまさにその「価値」を見出さずにいられない傑作であった。『Bioshock』に目配せをしたアメリカ的20世紀的ユートピアの表象を多いながら、一貫したテーマとして掲げた「夢」には押井守〜今敏のメタフィクショナルな批評性を見せつつも、その「夢」において敵対者が掲げる理想のそれは、偶然にも今年新作がリリースされた「S.T.A.L.K.E.R.」の核心と同じマルクス・レーニン主義の反復という、虚偽の重層が展開される。
極めつけは、そこに生きるキャラクター──特にアベンチュリンとホタルという対照的な存在が突きつける、偽りの「夢」に対する答えだ。砂漠の辺境で生まれ育ち、大企業によろう虐殺から逃れた幸運が、半ば宿痾として本人のアイデンティティを規定してしまったアベンチュリン。同じく辺境の軍事国家で兵器として育てられたホタル。そしてその2人こそが「夢」を否定し、それを打ち壊す最大の存在となる一連の流れは、現代中国における若者像ならではのリフレインだ。
二重三重に張り巡らせた伏線と、意図的に現実と虚構のテーマを反復させた末に、「夢」を夢のまま壊して次へと進もうとする一連のドラマツルギーには、今年ビデオゲームで味わったどの物語をも勝る感激があった。そして、言わずもがなそれは今中国大陸に生きる若者たちにしか描けない臨界の果てにあったことが、国際社会に対する極めて強いプレゼンスを持っている。
5位:Mouthwashing
インディーホラーの、一つのマイルストーンとでも呼ぶべき名作。そもそもホラーゲームというジャンル全体で、もはやFrictional Gamesを超えるスタジオは存在しないのではと落胆していたところに、新興Wrong Organがこの『Mouthwashing』にて開花したのは感慨深い。
本作はたった2時間程度のゲームプレイの中に、可能な限り独創的な演出を詰め込み、簡易かつ能動的なインタラクションによって没入させ、その上で個性豊かなキャラクターたちとのやり取りを経て、ごく普遍的な結末へと導く。ビデオゲームにおけるストーリーテリングの、お手本のような作品である。
一方、そうしたホラーの「お手本」のような部分を差し引いたうえで、更に評価するべき点があるとすれば、内包されたメタファーである。Riot Gamesクラスの大企業が次々レイオフを敢行し、SIEやMicrosoftがスタジオを解散させるなど、大企業による過去最悪の横暴がまかりとった2024年ゲーム業界において、本作が二重に内包するテーマはあまりにもクリティカルだ。
何より本作が2024年のビデオゲームの中で卓越していたのは、女性の性被害を巡る物語である。宇宙船内でアーニャが経験したものは、ビデオゲームとしてかつてないほど慎重に、しかし性被害の実情を訴えることに成功している(後日、批評する予定)。Wrong Organとして、またナラティブデザイナーのヨハンナ・カリスネン氏の今後には一層の期待を寄せたい。
4位:学園アイドルマスター
結果的に、2024年内の日本国産タイトルの中で最良のものを決めるなら、私は『学園アイドルマスター』を推すことになる。もちろん、今年は日本大手の存在感が控えめであったこともあるが、何より、誤解を恐れず言えば「日本ゲーム産業の格差」──天才的感性でヒットを連発できる企業と、過去の遺産に依存して埋没する企業との格差──がじわじわと露呈する中で、極めて潔い回答を出したからである。
こうした日本ゲーム産業にあって『学園アイドルマスター』の開発陣は、過去に依存して衰えゆくでもなく、逆に天才的一手に期待するのどちらでもなく、ゲームの外にいる「他者」との共作を選んだ。テキスト面ではライトノベルカルチャーからの刺客を受け入れ、「アイマス」を象徴する音楽面では日本のポップカルチャーから多様な逸材を招く。業界外の才能によって本作はシリーズにとって新しい境地に達している。
中でも印象的だったのは、日本のポップアーティストの中でも筆者も知る鬼才、長谷川白紙が作中のアイドル、篠澤広に寄せた曲「光景」。白紙と広のクィアネスが昇華される物語・曲・演出が渾然一体となったライブシーンには、過去・現在の日本ゲーム文化では決して到達し得ないポップならではのカタルシスがあった。
その結果、本作は日本のゲームカルチャーよりむしろ日本のポップカルチャーの集大成とでも呼ぶべき内容となっており、『学園アイドルマスター』はモバイルゲームながら、コンソールゲームが実現しえなかった「もう一つの日本ゲーム企業の戦い方」を鮮やかに見せた点を鑑み、この評価に至った。
中沢新一がインベーダーゲームからポケットモンスターまで注目していた頃のように、日本ゲーム文化の性質は強く20世紀後半──戦後日本の豊かな人材(のはずれ値)が支えていた日本ゲームの黄金期に依存している。そうした中で、ゲーム企業がどう生き残るのかのヒントが、ゲーム業界の内側にあると限らない。
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