周司あきら・高井ゆと里「トランスジェンダー入門」批判(4) 美山みどり
第1章 トランスジェンダーとは?
第2章 性別移行
第3章 差別
第4章 医療と健康
第5章 法律
終りに
第4章 医療と健康
「脱病理化」
さて、この記事も佳境に入ってきます。全面対決です。
「性別不合」の概念の導入により、「精神疾患」から外れたことは事実ですが、これが「脱病理化」であるか、というとそれは違います。
実は「脱病理化」の先例としては「同性愛」があります。現在、同性愛はどんな意味でも「医療の対象」ではありません。かつては同性愛は「精神疾患(DSM第一版,1952)」として扱われ、さらには「それで悩む場合には精神疾患(DSM第三版,1972)」として扱われたこともありますが、現在では「脱病理化(ICD第10版, 1993)」されて、完全に個人の生き方の問題になっています。
しかし、性同一性障害(私たちはこの診断名にこだわります)の場合には、事情が違います。同性愛はどんな意味でも医療のサポートは不必要ですが、性同一性障害の場合には、医療サービスの提供について極めて重大な利害を持っています。ですから、当事者は大いに医療について注文を付け、よりよい医療に改善していくことに強い関心を抱き続けています。これが「医療は大きなお世話」である同性愛と画然と異なる理由です。「脱病理化」という言葉によって、医療が責任を放棄するような事態になったら、私たちの利害が損なわれる、という危機感を性同一性障害当事者は持っているのです。
性同一性障害医療について、著者らが主張する「脱病理化」が具体的にどういう意味になるのでしょうか?その「医療行為」が、当事者が求めれば、誰にでも与えられる、ということになります。言いかえると、診断不要であり、診断の意味がなくなる、ということです。誰でも「トランスジェンダー」と名乗れば「トランスジェンダー」です。医学的根拠はなく、求めればいくらでも性ホルモンも与えられ、手術を止める人もいません。これが「脱医療化されたトランスジェンダー」なのです。
「脱病理化」とは「美容手術化」です。すべてが自己責任です。後悔するのなら、それは自分を「トランスジェンダー」と思い込んだ自分がバカなのです。
なるほど「自由」っていいですね!すべてが自己責任。医師の説明を受けるだけで、いくらでもホルモンを使えれば、手術だって受けれます。「ゲートキーパー(門番)」の役割を医者から解除しますから、「自分が思い込んで不可逆な医療を受けた!」と医者を訴えても意味がありません。無責任でも医者が訴訟のリスクから逃れられるのです!
第2章で詳しく見ましたが、実のところ「性同一性障害」と思い込んで、軽率に医療を求めるケースというのは、決して少なくないのです。「ICモデル」ならば、そういう人も安易にホルモン治療や性器の手術さえも受けることができてしまいます。そして結果に後悔しても、すべて「自己責任」。医者に「だました!」と訴えても、「自分が望んだんでしょ」で終わり。
「ICモデル」は当事者にとっても、不幸しか招かない危険なモデルではないでしょうか。「性別移行で幸せになれると思っていたけど、なれないのならば、止めてほしい」というのが、常識的な医療のニーズなのではないでしょうか。そういう意味で、この「ICモデル」は机上の空論ですし、またそれを無責任に称賛する本書の著者の立場がどれほど真剣なものであるか、うたがうべきでしょう。
現在「一日診断」というかたちで、モラルを欠いた医師による安易な診断が横行しているという現実もあります。「ICモデル」は医師による責任逃れであり、モラルの欠如を正当化するだけのものであることを、改めて強調します。
ですから、私たちは、性同一性障害の診断についても、その厳格化を主張します。「後悔するくらいなら、止めてくれ」というのが、やはり本音なのです。また、発達障害と性同一性障害の関連性も、近年指摘されることが増えました。同性集団との親和性の悪さが、発達障害の思い込みと社会集団のルールの不理解の特性から来ているのならば、まして異性集団とうまくやっていけるわけがありません。しっかりした鑑別診断と、できれば時間をかけて「本当に自分が性別移行してうまくやっていけるのか?」ということを実地で試す経験(リアル・ライフ・エクスペリエンス)を通じて、「うまくやっていける」自信がついて、やっと不可逆の医療措置を受けることができる方が、ずっと「安全な移行」につながるのです。これは「患者のいいなり」で医療を提供する「ICモデル」の正反対であり、専門医療が正しく「門番」の役割を果たすことです。
また「脱病理化」によって、重大な問題も起きます。それは健保医療との関連です。現在、ようやく性別適合手術については、健康保険の適用が可能になっています。しかし、健保の「混合診療の排除」の原則の下で、現在健康保険非適用である性ホルモン療法と併用した場合に、性別適合手術も健保不適用になってしまう構造的な欠陥があります。
もちろん手術への健保適用を実現した、当事者団体の一つである gid.jp によって、性ホルモン療法への健保適用を交渉しており、この交渉の中で「治験の費用をどこが負担するのか?」という辺りまで話は進んでいました。
しかし、gid.jp でこの交渉を進めた山本蘭氏のご逝去によって話が止まっています。ここで「脱病理化」を主張したら、性ホルモン医療の健保適用は永久に不可能になります。だって「病気じゃない」のだから。
本書でも健保適用の話に少しだけ触れていますが、具体的な評価は曖昧にして逃げています(p.136)。なぜなら、この話をしっかりしたら「脱病理化」は健保適用の障害にしかならないのは明白だからです。
「性別不合」と性同一性障害
この本でも、国際疾病分類ICD-11 によって、それまでの「性同一性障害」が「性別不合」という新しい概念に再編され、また「精神疾患」から外れたことを、自分たちの主張の根拠としていますが、本当のところ、どうなのでしょうか?
医学的な概念として、具体的に何がどう変わったのでしょう?
国際疾病分類ICD-11 では、「性別不合」として、「精神疾患」から「性の健康に関わる状態」に移動したわけですが、「疾病分類」から削除されたわけではありません。「性の健康に関わる状態」のカテゴリーには、たとえば「勃起障害」とか「性交痛」などが含まれており、これらは精神的な障害というだけではなく、器質的な原因から来る場合も含めて取り扱われているわけです。
私たちの多くは、性同一性障害が「精神疾患」というよりも、何らかの器質的・生理的原因がある、と感じていたりもします。また当事者の悩みはさりながら、自分を「病気」というよりも、単に解決すべき「困った状態」と捉える傾向もあります。しかし私たちの特質は、その解決に医療のサポートが不可欠なことです。
実際、この国際疾病分類でも、「性別不合」を「医療の対象ではない」としているわけではありません。同性愛はもはや「医療の対象」ではありませんから、同性愛と同様に「脱病理化」されたとするのは、趣旨を曲解したものでしかありません。実際には「精神疾患とすることで、当事者を逆に医療から遠ざけていた」という理由が付されていますから、実質的には、「病気とすることによる社会の偏見はなくしたいが、医療が届かなくなるのは困る」というバランス判断からこうなったという観測が当をえたものでしょう。
「性の健康に関わる状態」は、医療サービスを正当に受けるための概念なのです。
さらに、「性同一性障害」が「性別不合」に代わった、という内容も、実のところ、少しだけ概念が広がった、という程度のものです。性同一性障害では、
と説明されました。これが「男女」という性別二元論を前提とした議論だ、というのが概念の変更の中心的な部分です。この
「性別不合」では、
と、性別二元論に基づかない、それゆえ曖昧な説明になっています。男か女、ではなくて、たとえば「中性」に移行するケースであっても、「性別不合」という概念ではカバーできるということにはなりますが、一般的すぎて説明になっていない、というのも正直感じます。何をどうしたいのか具体的なイメージを排除してしまっていますからね。
ですので、日本精神神経学会では「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版改)」が今でも有効であり、これに従って「性同一性障害」の診断が下りつづけています。そういう意味では、今でも「性同一性障害」がなくなったわけではありませんし、特例法が求める診断もあくまで「性同一性障害」でありつづけているわけです。
このような状況を受けて、当事者の間は今でも「私は性同一性障害だ」という方は多くても、「私は性別不合を抱えている」という方は耳にしません。「性別不合」は当事者のアイデンティティにはなり難いのです。名称変更が「精神疾患のスティグマを避けるため」であったのですが、日本の当事者は「性同一性障害」を「精神病のスティグマ」とはほとんど考えてもいないのです。逆に「性同一性障害は精神疾患だから嫌だ」と主張する方が、精神疾患に悩む人たちへの配慮を大幅に欠いた主張だ、と捉えられることのほうが今の日本ではずっと多いことでしょう。
そうしてみると、「性別不合」に変えたメリットは当事者にもほとんど感じられません。おそらく「性別不合」は今後も定着することはないように思われます。
私たちは使い慣れた「性同一性障害」を引き続き使いつづけていきます。
「本物の」性同一性障害
なぜ「トランスジェンダー」はこのように「性同一性障害」と医療モデルを敵視するのでしょうか。その執念には恐るべきものがあります。
….恨まれてますね。いや実際にはガイドラインは柔軟で、ガイドライン以前に海外や闇で手術を受けていた人も救済しましたし、あるいは除外診断に相当する性分化疾患の当事者が性同一性障害のガイドラインに沿って移行することも許容するような、柔軟な運用がされていました。現在、診断もないのに海外で手術を受けてしまって、後から「手術を受けているのだから診断をしろ!」と医師に迫るような本末転倒な使い方をする話も聞きます。
手術をする、しないによって、性同一性障害の「格差」があるわけではありません。ガイドラインはあくまで道具です。格差はもちろん幻想ですが、それを恨み続ける一部の活動家の執念には呆れるばかりです。けして性同一性障害当事者は「トランスジェンダー」を「本質的ではない」とか「周辺的だ」とか「自分たちと比較して軽症」だとか「レベルが低い」とか「徹底していない」とか捉えているわけではありません。原因もその目的も生き方も要求も利害も全然別物だから、区別してくださいと言っているだけなのです。ただただ「異性装をする」という現象面だけの共通性によって、同じものとみなさないようにしてください、と願っているだけなのです。
特例法ができたときにも、それに反対するトランスジェンダーたちは「当事者の分断だ!」と叫んで、特例法を潰しにかかりました。私は特例法肯定派でしたから、その当時のこともよく憶えてます。当時から「当事者の分断」と言っても、そもそも別な存在なのでは?と私はシラケた気持ちで「当事者の分断」の主張を聞いていました….
ではなぜ「トランスジェンダー」活動家たちがこれほどにガイドラインも性同一性障害も恨み続けるのでしょうか? 性同一性障害当事者は「偉い」わけでもなんでもありません。ただ手術と医療を真剣に求めることによって、「医療を求めない、医療化されない性別移行者」であるトランスジェンダーたちとは利害が大きく異なります。しかし、トランスジェンダーたちは自らの主張を実現するためには、特例法によって定着した「性同一性障害」のイメージを利用しないわけにはいかないのです。利害の面から「性同一性障害」を否定しているのにも関わらず、「性同一性障害」のイメージに依存しないと運動が成立しない….このジレンマの中で自縄自縛に陥っているからこそ、「くたばれGID!」などという挑発を性同一性障害に対して行ってきたのです。
ですから、これほど「踏みつけ」にされた私たち性同一性障害当事者は、もはや自分たちを「トランスジェンダーではない」と主張します。なぜなら「医療を求める性同一性障害」と「医療化されないトランスジェンダー」の違いは、「医療と法律を巡る利害の違い」なのであり、けして「意味のない格差」の肯定でも何でもないからなのです。