プロレス関係の記事をまとめています。 データ的なランキング、プロレスの各種試合記録から、ブックやアングルを考察する記事などあります。
最近のプロレス界はそうでもないのですが、かつては暮れの12月が、団体の一番のビッグエベントの季節であり、大事件の季節でもありました。 日本プロレスで暮れのビッグマッチが定着したのは、1963年のデストロイヤー招聘以降ですが、そのシリーズ直後に力道山が刺殺され。翌64年には豊登がデストロイヤーを破りWWA世界王座を獲得。翌65年には馬場がブルーザーを破り、力道山遺産のインター王者となり。翌66年にはプロレス初の日本武道館大会で、馬場がエリックと対戦。超満員にして、東京プロレス
私はブック、ブックと言っているのですが、これは揶揄の意味で言っているわけではなく、そこに奥深いものを見出す目的で言っているわけですが・・・今回取り上げるのも、そういう一例であります。 長州力は藤波との抗争でブレイクし「維新戦士」となったわけですが、私にはそれ以前の、ハンセンやアンドレ、ホーガンらに一方的にやられていた印象が強くて、今一つノレなかったことも事実です。 ブックといえばブックなんでしょうが、どこかでそう割り切れない、 それが長州の力量なんじゃないかと思わせる、何か
プロレスには、デビューした選手の星取り的なランクを、徐々に格上げしていくシステムが存在します。 1番わかりやすいのが、デビューした選手が、しばらくは前座で負けが込んだ星取りをして、その後「海外武者修行」に出発、数年海外で活躍した後に、凱旋帰国する。その時にはトップランクの選手としての星取り扱いを受ける・・・というパターンで、これは馬場、猪木から、藤波、三沢、武藤、オカダまで、多くのスター選手がたどったパターンです。 こういう場合は、海外での空白期間があるので、前座で負けていた
国際プロレスという団体はオールドファンには懐かしいプロレス団体ですけど、その初期にはルー・テーズ、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチ、という、「シューター」とも呼ばれる真の実力者が来日していましたね。 しかしそれを迎え撃つ日本勢の方は、ベテランの豊登は別格として、グレート草津、サンダー杉山、ストロング小林、ラッシャー木村といった、キャリア数年程度の若いレスラーたちでした。 この状況で、妥協なきシューターと呼ばれたテーズらと日本勢が、どんな星取りを繰り広げたのでしょうか。 そこに