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イスラム共和国の京大相撲部男③

それから私と奇人はたまに連絡を取り合うようになった。

彼は気まぐれで、すぐに返ってくることもあれば1週間返ってこないこともあった。

 

ちょうどその頃、私は転職先の選考が進んでいた。

最終面接が終わり、正式にオファーをもらったと報告すると、500円のお年玉が電子マネーで送られてきた。

けれど、再び会う話が具体的に進むことはなかった。

 

転職して、新しい職場のリズムを掴み始めた頃、また会いたいと思った私は彼に連絡をした。

その時のやり取りがこれである。

 

 

私はこうした独特な表現や、何も狙ってない(ように見える)純粋さに、いちいち射抜かれてしまうのだった。

 

そうしてこの代案の火曜日、私たちは再会することになった。

 

奇人の仕事が終わるまで喫茶店で待っていると、タクシーで喫茶店まで迎えに来て、私を拾って店まで連れて行ってくれた。

 

仕事が何時に終わるか分からないので前日までの予約こそしないが、道中で店を見繕って電話をかけておいてくれるような優しさが、彼にはあった。

 

その日は雨が降っていて、寒かった。

食事を終え、タクシーを捕まえようと横並びで傘をさして歩いていると、狭い道に入った。

 

身長差があるため、私がさした傘から滴る雨の雫が彼の肩を濡らしてしまい、彼は唐突にこう言った。

 

「肩が濡れるから、そっち入っていい?」

 

そして自分の傘を閉じて、私の傘の下に入ってくるのだった。

 

おい。

少女漫画か。

 

心が静かに絶叫していた。

 

落ち着け。

 

こいつは私のことを何とも思ってない。

ワンチャン抱けるかもくらいには思っているかもしれないが、たいして本気でもない。

ただこういう挙動を、生まれながらに取ってしまうだけだ。

 

やめよう。やめておこう。もう会ってはいけない。

連絡を取るのはやめよう。

セルフ説教をしながら帰宅し、奢ってもらったお礼だけLINEで送り眠りについた。

 

彼からは相変わらず気まぐれに返事が届き、私はその通知を見るたびに胸が高鳴っているのを認めざるを得なかった。

 

ある日、中国出張へ行ってくると伝えると、「これを買ってきてほしい」とお菓子をリクエストされた。

 

再び会うことを前提としたそのリクエストに、私の胸は情けないほど踊った。

 

現地で頼まれたお菓子を購入し、帰国してすぐ連絡をした。

 

ところが。

 

私が送ったLINEは1ヶ月もの間、無視された。

 

いやお前が買ってこいって言ったんだろ。

彼女でもできたか?

相変わらず激務すぎてどうでもよくなったのか?

 

まあこれも、連絡を断つちょうどいいきっかけかな。

でも、上司を連れ回してまで買いに行ったのだから、さすがに渡したいな。

これが最後になってもいいし。

全然いいし。むしろその方がいいし。

 

私は出会ったその日から心の奥底にあった諦念を拾い上げ、失恋もどきの痛みでコーティングして全てを忘れようとした。

 

忘年会シーズンになり、ちょうど彼の家の近くで飲み会があったので、その前日に連絡をして(返事はすぐにきた)お菓子を渡せることになった。

 

「ごめん。お菓子もう食べられたかなと思ってた」

 

茶店で、訳のわからない言い訳を聞きながらお菓子を渡した。

話を聞くと、ここ1ヶ月、彼は本当に信じられないほどの残業をこなしていたらしかった。

 

「でもね、年末は休めるからヨーロッパ旅行に行くことにした」

 

私が半年前に行ったばかりのエリアが含まれていたため、おすすめの店などを共有した。

 

「誰と?」とは、怖くて聞けなかった。

それが私の答えだった。

 

初めて会った日に「好きになってはいけない」と思った時点で好きだったし、そんな感情を抱いた相手と都合よく友人になるなんて、無理な話だった。

 

私には、異性の友人がわりといる。

学生の頃から付き合いのある人はもちろん、Tinderで知り合った結果、Facebookも繋がりこのブログも読まれているような、奇跡のガチ友人になった人もいる。

 

出会い方は関係ないし、関係性など結果でしかない。

 

私は彼にとっての、何者にもなれなかった。

ただ、それだけの話。

 

それでも、「もう人を好きになることなど一生ないのかもな」と思っていた私が、そうでもないぞと希望をもつことができた。

 

出会えてよかったと思う。

 

叶うなら自分も、そう思われたいと願っている。

 

<終>

イスラム共和国の京大相撲部男②

私たちの家はわりと近く、地下鉄で1駅ほどの距離だった。

 

<仕事が終わり次第連絡してそっち行くから、家で待ってて>

 

ユウタがそう言うので自宅で待っていると、22時近くになってようやく連絡があり、私たちはやや遅すぎる時間にバルで待ち合わせた。

 

店の前で待っていると、「ごめん!待たせた!」と言いながらこちらに向かって歩いてくる男がいた。

 

彼をひと目見た瞬間、思った。

 

あ、これは。

 

出会ってしまったかもしれない。

 

Tinderのやる気のないプロフィール写真ではよく分からなかったが、実物のユウタは、私の針穴くらいのストライクゾーンにぶっ刺さる顔立ちをしていた。

 

あぁ。顔がすごく好きだ。

 

バルに入り、メニューを決める時の会話で感じた。

どうやら波長も合いそうだ。

 

彼は年上の私に最初からタメ口だったが、それも心地よかった。

 

「何で駐在先がイスラム共和国だったの?語学ができたとか?」

 

私が尋ねると、予想もつかない返事が返ってきた。

 

「今から言うこと全部忘れてほしいんだけど、当時の俺、借金があって」

 

「…はい?」

 

「とにかく物価の安い国に行きたくて、自分で手を挙げて行ってきた」

 

意味がわからず掘り下げると、話はこうだった。

 

彼は病的な浪費家である。

 

会社から家まで帰るのが面倒くさいと、すぐホテルに泊まってしまう。

(当時の家はタクシーで10分の距離だったにも関わらず)

 

例えば夜遅くに仕事が終わり、蕎麦が食べたくなったとする。

近所の蕎麦屋を調べるが、遅いのでたいてい閉店している。

すると、都内の開いてる蕎麦屋を調べて、片道15kmの距離でもタクシーで行き、ひとりで蕎麦を食べ、タクシーで帰ってくる。

 

そんな生活を続けていたら、貯金どころか借金ができたのだという。

 

「貯金がなくなった時点で、生活を改めようとは思わなかったの?」

 

私は真っ当な質問を投げたが、彼はこう言った。

 

「先のことを考えて行動することができなくて」

 

なぜ…!?

京大に入れる頭があって、なぜ!???

 

私は引きながら、その理解できない矛盾に興味も惹かれていた。

 

それから彼の話をいろいろと掘り下げていった。

聞けば聞くほど、本物の奇人だった。

おそらく人生で出会った人の中で、1位2位を争うレベルである。

 

「大学時代は相撲部だったんだけど、」

 

彼がそう切り出したとき、再び巨大なクエスチョンが浮かんだ。

目の前のユウタは痩せている。

 

「えっと、昔は太ってたの?」

 

「今より痩せてた」

 

「…じゃあ何で?」

 

「入学式の後、いろんなサークルに勧誘されるじゃん?その時、相撲部の部員が3人しかいなかったから、入ったら感謝されるかなと思った」

 

「それだけ?!」

 

「うん。知ってる?大学の相撲部の大会を観にくるお客さん、一列目は性的な目的のおじさんばっかなんだよ。望遠レンズ持った人がずらーって」

 

「マジ?平気なの?」

 

「うーん、俺のそういう対象は女性だけど、男性にそういう目で見られることにも特に抵抗はないかな。来るもの拒まずな感じ」

 

「へぇ…」

 

彼はその後も「今から言うこと忘れてほしいんだけど」という不可能な前置きをして、性的なことを含む仰天エピソードを聞かせてくれたが、私は徐々に引かなくなっていった。

 

過去に何をしていようが「そうっすか」と納得せざるを得ないような、奇人of奇人のオーラが彼にはあったからだ。

 

バルの閉店時間になり、終電を気にしなくてもいい私たちはぶらぶらと散歩をした。

 

川沿いを歩いていると、彼はまた大学時代の話をし始めた。

 

「そういえば俺、学生の頃に鴨川に橋をかけようとしたことがある」

 

ねぇ、何で???

 

私はひとりの人間として、彼にどうしようもないほど興味を惹かれていた。

 

「ホームセンターで杭とベニヤ板を買ってきて作り始めたんだけど、昼間やってると奇人ぶってると思われるから夜やってた。半分作れたところで豪雨がきて流されちゃって、材料が半分余ってたから、月見台を作ったんだよね」

 

嬉しそうに話すユウタの横顔を見ながら、私は思った。

 

私は多分、この人のことを好きになってしまう。

 

でも、駄目だ。

苦労する未来しか見えない。

 

物価の安い国で暮らしたことで、借金は返済し貯金もできたそうだが、あの浪費癖は病気である。

東京にいれば、きっとまた借金ができる。

浪費癖は一生治らない。

 

ただ、ひとりの人間として、あまりにも興味深い。

たまに飲みに行けるような関係ではありたい。

 

そう思った私は自ら連絡先を聞き、午前2時を過ぎた頃、解散した。

 

顔が好きなおもしれー男と2年越しで会えた喜びと、「好きになってはいけない」とブレーキをかけるようになってしまった悲しさで、頭の中がグラグラしていた。

 

続く。

イスラム共和国の京大相撲部男①

遡ること2022年、夏。

まだコロナが第5類に分類される前のこと。

 

私は東京にいながら、イスラム共和国に住む日本人男性とマッチした。

名前はユウタ(仮)、29歳(当時)。

プロフィールは英語で、Kyoto Universityという学歴とレッツハングアウトトゥギャザー的な、友達募集的なニュアンスの一文だけのシンプルなものだった。

写真も適当に撮られたスナップで、まるでやる気がない。

 

興味を惹かれたのは、30カ国以上旅をした私が、その国に行ったことがなかったからだ。

 

<何でXXに住んでるの?仕事?>

 

彼のプロフィールが英語だったので、なんとなく英語でそんなことを送った。

返事はゆっくりとだが確実に届き、彼がもう半年ほどその国で暮らしていること、商社で働いていること、暮らしは快適だが生卵が恋しいことなどを、チャットのやり取り(英語)で知った。

 

コロナ禍に、ひとりイスラム共和国で暮らさなきゃいけない状況に同情しつつ、どうせ会う機会もないだろうとやり取りを終わらせた。

 

時は流れ、2024年、初夏。

 

ある休日に私は暇を持て余し、ふと「Tinderでマッチしている人の中で、いちばん古い人は誰なんだろう?」と気になった。

 

アプリのチャット欄を開いてスクロールすると、最下部にユウタがいた。

 

あ、イスラムの子だ。

そういえばいたな。

 

なんとなく彼のプロフィールを開くと、文章が日本語に変わっていた。

表示されている距離は1km。

 

帰国してる…!!!

 

時の流れの速さと、2年もTinderをぶん回していた自分に軽く引きつつ、私は彼にメッセージを送った。

 

<帰国した?>

 

返事は日本語できた。

 

<うん、2ヶ月前に>

 

それからやり取りが再開した。

彼は相変わらずやる気のない感じで、かつ、なかなか激務のようで、今日食べたものや食べたいものなどが変な時間帯に送られてくるだけの意味のないやり取りが続いた。

 

しかし、彼の言葉選びはちょっと独特なところがあり、不思議と楽しかった。

 

それからすぐ後のこと。

 

私は親と行ったヨーロッパ旅行で、スマホを盗まれた。

 

10日間の旅程の3日目にパクられたため、残り1週間デジタルデトックスを強いられ、親のスマホSNSにログインして生存報告をしたかったがパスワードを一切覚えておらず、友人やTwitterのフォロワーの間では死亡説が流れていた。

 

帰国した翌日、AppleストアでWi-Fiを借りながら、購入したてのiPhoneでLINE、PayPayに続きTinderをダウンロードした。(順番)

銀座のAppleストアでTinderを落とした人間は、おそらく史上初だろう。

 

データ全部消えたかもな。

ユウタにももう会えないかもな。

 

と半ば諦めかけていたが、ログインし直したらマッチしていた人は綺麗に復活した。

(余談:LINEの友だちのデータも復活したが、トーク履歴は全部消えた。Tinderは残っていたのに。何でだよ)

 

<パリ3日目にスマホ盗まれて、ずっと返信できなかった。すまん>

 

急に音信不通になったことをユウタに詫びると、その日のうちに返信が届いた。

 

<思い出はちゃんと頭に残せた?>

 

え。

 

この人、スマホより先に思い出の心配するんだ…?

 

私はこの瞬間、ユウタの美しい感性に射抜かれてしまった。

 

どうしよう。やっぱり会ってみたい。

 

それから2週間後。

 

毎晩遅くまで働いている彼が比較的早く上がれそうだという金曜の夜に、私たちは2年越しで飲みに行くことになった。

 

続く。

マッチグアプリで出会った男に前科があった話⑩

<ご無沙汰しております。リョウの母です。>

 

冒頭の文章が見えた瞬間、当時の衝撃がフラッシュバックして、手が震えた。

 

<息子の容体に変化があり、医師の話によると、数ヶ月以内に意識回復が見込めるのではないかとのことです。またご連絡します。>

 

あぁ。

そうか。

そうだったんだ。

 

読み終わった瞬間、私は全てを察した。

 

嘘だったー

 

2年間も植物状態だった患者に対して、医師がそんな不確かなことを明言するわけがない。

きっと彼はおそらくまた刑務所に入っていて、出所の目処が立ったのだろう。

いきなり連絡して驚かせないように、いまジャブを打ったのだろう。

きっと2~3ヶ月以内に、「意識が戻りました」と連絡がくるはずだ。

 

そうか。

そうだったんだ。

 

喜怒哀楽のどれにも属さない、虚無に近い感情に包まれた。

こんな嘘を吐くことしかできなかった彼や母親の心境を思うと、微かに同情した。

 

返信はせず、LINEを閉じた。

 

私は自分の人生に集中しよう。

そう心に誓った。

 

2ヶ月後。

想像した通りのタイミングで、本人を名乗る人からLINEが届いた。

 

<無事に退院しました。ご心配をおかけしてすみませんでした!>

 

私に向けてではなく、全員に送っているようなあっさりとした文章だった。

もし仮に、本当に2年以上も植物状態だったあとで目覚めたのだとしたら。

大きな後遺症が残り、スラスラと文章が打てる状態ではないはずだろう。

 

私はまたも返信をせず、LINEを閉じた。

 

結局、どこまでが嘘で、何が真実だったのだろう。

プレゼントの中身は何だったのだろう。

 

もう知らないままでいいや、と思った。

この世界には、知らない方が幸福なことなど山ほどあるのだから。

 

だけど、私は確かに苦しかった。

心に鉛を積むような数ヶ月を、確かに過ごしたのだ。

 

その事実を忘れたくないし、忘れてほしくないと願う。

だから書いた。

 

特定の誰かに向けた長文を残すことの重みを、忘れたくないし、忘れてほしくないと願う。

だからここに書いた。

 

<終>

マッチグアプリで出会った男に前科があった話⑨

「…はい」

 

「夜分にすみません。リョウの母です」

 

年配の女性の声だった。

 

心臓がうるさい。

スマホが音を拾ってしまいそうだ。

 

落ち着け。落ち着け。

 

言い聞かせながら、テーブルに置きっぱなしにしていた話す内容を書いたメモを手繰り寄せた。

 

自分とリョウの関係性をどう説明していいか分からず、自己紹介は省き、単刀直入に聞いた。

 

「…リョウさんに、何があったんですか?」

 

リョウの母は声を震わせながら答えた。

 

「せっかくご連絡いただいたのに申し訳ないんですけど、何もお伝えできないんです」

 

事故じゃなくて、事件だったんだー

その言葉を聞いた瞬間に思った。

 

彼女は続けた。

 

「今は病院のベッドでずっと眠っているような感じで、回復の見込みもなくて。すみません…」

 

鼻を啜る音が聞こえた。

泣いているのだろうか。

 

「…そうなんですね。早く回復されることをお祈りしております。あと、プレゼントのことなんですけど、」

 

私が切り出すと、彼女は言った。

 

「勝手にご連絡してすみません。のりこというお友達がLINEにあなたしかいなくて、それで…」

 

「ご本人が元気になったら、直接受け取ります」

 

そう言おうと、あらかじめ決めていた。

 

「あ…ありがとうございます。開けずに置いておきます」

 

ほんの数分の、短い通話だった。

私はお体にお気をつけてと伝え、静かに通話を終了した。

 

母親だった。

本当に、母親だった。

あれは演技じゃない。役者じゃない。

 

また何らかの事件の渦中にいることには違いないけど。

本当にもう目覚めないのかも知れないけど。

 

嘘じゃなかった。

証明できた。

 

同時に、息子が生死の境を彷徨っている母親の心境を想像すると心が重くなった。

 

もう連絡は来ないだろう。

 

そういう人がいた、悲しかったと、その気持ちだけを忘れずに生きようと思った。

 

それから半年後。

 

<息子の容体に変化がないため、スマホを解約します。何かあればこちらまで>と、母親の連絡先が添付されたLINEが届いた。

 

春になり、私は異動で東京に戻った。

 

もし仮に、何年も付き合った人に前科があったと知ったら、私はどうするだろうか。

もし仮に、何年も付き合った人が植物状態になってしまったら、私はどうするだろうか。

 

1回しか会ってないから「じゃあこの話はなかったことで」と切り捨てる選択をしたのだとしたら。

 

1年付き合った後ならどうしただろう。

3年なら?5年なら?

私はどこで、命に線を引くのだろう。

 

そんなことを延々と考えていた。

終わったはずなのに、なぜだかずっとしんどかった。

 

それから転職をし、短い恋愛もして、2年が過ぎた。

 

リョウのことをほとんど思い出さなくなった頃。

 

再びLINEが届いた。

 

続く。

マッチグアプリで出会った男に前科があった話⑧

通知を見た瞬間、心臓がドクンと鳴った。

 

またも既読をつけないように、そっと中身を開いた。

 

<今日、息子の部屋を掃除していたら、女性向けのプレゼントが出てきて、海苔子さんの名前が入ったカードが付いてました。どうするべきか迷いましたが、ご連絡させていただきました。>

 

え。

どうしよう。

どうしたらいいんだ、これは。

 

受け取る方法がないし、中身が何かは分からないが、仮に受け取ったところで使えない。

そしてこのメッセージを無視することもできない。

何て返せばいいんだ?

 

母親を傷つけないように。

将来、本人がこのLINEを目にする可能性もゼロではないから、彼自身も傷つけないように。

かといって、変な期待ももたせないように。

何を送ればいいんだ?

 

私は悩みに悩んだ。

 

返せないままアユミと昼食を摂っている時に話すと、こう言われた。

 

「やっぱりそれ、本人が打ってると思うよ」

 

なぜか彼女は頑なにその説を信じていた。

 

「でももう1ヶ月以上経ってるんだよ?この間隔を空ける意味が分からなくない?」

 

「それは確かにそうなんだけど、怪しいって」

 

そうなのか。

アユミはそう思うんだ…

 

彼女を心底信頼しているがゆえに、私はショックを受けていた。

 

その日の夜。

 

私は意を決して、LINEでリョウの名前をタップし、通話ボタンを押した。

 

女性が出れば、本人が打っている説を否定できる。

それを確認できれば十分だった。

 

パニックを起こすかもしれないと思い、話す内容も事前に決めて紙に書き出していた。

 

これで母親と話ができたら、終わりにできる。

そう思った。

 

コール音が鳴る。

1、2、3…8まで数えたところで、諦めて切った。

 

平日の20時くらいのことだった。

 

<少しお母様とお話しさせていただくことは可能でしょうか?>

 

テキストでそう送ると、翌朝、返信があった。

 

<昨日お電話いただいたようで、出られなくてすみません。いま少し体調を崩しており、喉の調子が悪いため、回復したらこちらからご連絡します。>

 

事の顛末をアユミに話すと、あっさりこう言われた。

 

「役者を用意してるんじゃない?」

 

私は思ったことをそのまま言った。

 

「もしそうなのだとしたら、そうまでしてでも誤魔化したいことがあるのだとしたら、私はもう、その嘘を信じてあげようと思う」

 

言い終わった直後、自分で思った。

 

取り憑かれている。

どうかしているな。

早く終わりにしたいー

 

そう思いながら過ごした3日後の夜、スマホが震えた。

 

電話だ。

 

液晶に表示されたリョウの名前を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。

 

続く。

マッチグアプリで出会った男に前科があった話⑦

私は既読をつけないように、そっと中の文章を読んだ。

 

<X月X日に息子が大きな事故に遭い、1ヶ月以上経ったいまも意識が戻らないため、代わりに連絡しました。>

 

息が止まりそうになった。

事故に遭ったという日付は、ちょうど私が彼に最後のLINEを送った日だった。

 

LINEはさらに続いていて、長期間連絡が取れなかったことの謝罪と、もし何か対応が必要なことがあれば連絡してほしいというようなことが書かれていたが、私に対してというよりは全ての友人や仕事の関係者に送っているような文面だった。

 

なんだこれは。

苦しい。

なんで。

なんで、こんなことになるんだ。

 

彼があんな長文を私に残さなければ。

私が好奇心で過去を調べたりしなければ。

 

ここまでの苦しさはなかったはずだった。

 

平日の夕方で、仕事中だった。

読まなくてはならない原稿が目の前にあるのに、読んでも読んでも頭に入らなかった。

 

私の動揺を察してか、隣の席のアユミが「大丈夫?」と声をかけてきた。

 

「今ちょっとだけ外出れる?」

 

アユミを休憩室に連れ出し、小声で説明すると、彼女は真っ先にこう言った。

 

「それ、本当にお母さん?」

 

ーやはり。

 

そう言われるかもしれないと予想していたくらいには、私もその考えが頭を過っていた。

だけど、すぐに打ち消した。

 

何かを誤魔化すためなら、もっとマシな嘘がある。

スマホを落として、アプリもログインできなくなって云々とか、適当に言えばいい。

こんな嘘をついたら、余計私に会えなくなるじゃないか。

 

私がそれを説明してもアユミは「本当かなぁ」と訝しんでいて、私はどうしてか、全力でその説を否定したい衝動に駆られていた。

 

なぜ、そうまでしたいのか。

たった一度、飲みに行っただけの男を、共に生きる未来などない人を、なぜそうまでして庇う必要があるのか。

自分でも不思議だった。

 

仕事を終えて帰宅し、あらためて母を名乗る人のLINEを丁寧に読んだ。

文体や言葉遣いからしても、これはリョウの書いたものではないと思った。

 

もしこれが本当に母親のメッセージなのだとしたら。

直近まで連絡を取っていた私は、返信をした方がいいのではないか?

 

そう思った私は、返事を送ることにした。

 

<リョウさんとは食事の約束をしておりましたが、私の方は大丈夫です。1日でも早く回復されることをお祈りしております>

 

数時間後、返信があった。

 

<そうだったのですね。申し訳ありませんでした。また状況が変わればご連絡します。>

 

もう、連絡がくることはないだろう。

 

人は植物状態になって1ヶ月以上経つと、回復する確率が急激に下がると聞いたことがあった。

これで終わったのだろう。

 

そう思うと同時に、いま同い歳の人が生死の狭間を彷徨っているという現実が、重くのしかかった。

 

つらい。

しんどい。

 

どうか回復してほしい。

もう会うことはないけれど、どうか。

 

暗い過去を背負った人の道が、その先もずっと暗いなんてことは、あってはならないから。

どうか私の知らないところで、幸せになってほしい。

 

心からそう祈っていた。

 

それから1ヶ月以上が過ぎた頃。

 

再びLINEが届いた。

 

<度々すみません。リョウの母です。>

 

続く。