2024年末から話題となっていた日本製鉄による米国ペンシルバニア州のUSスチールの買収案件は、バイデン大統領の決断によって正式に禁止された。買収案の発表は2023年12月であるから、発表後一年も経った今にして頓挫することになった。日本製鉄は本決定を不服として米国政府を提訴する発表を行った。私は鉄鋼業界には門外漢であるが、大変に衝撃的なニュースであることは充分に理解できる。国をまたがったグローバルビジネスの方向性について、さらに視界不良が高まった印象がある。
複雑な事情が絡み合った買収案件が頓挫
中国・インド企業に押され、勢力を落としつつある日本・米国の鉄鋼企業同士が連合してその影響力を維持しようとする今回の買収案は、はた目には明らかな相乗効果があり、特に日本人の目から見れば「ごく妥当なビジネス防衛策」と映るが、米国の事情は非常に複雑に絡み合っている。
まず、米国は国内での鉄鋼製品の需要が自国内での供給能力を上回っていることを理解する必要がある。鉄鋼製品は船舶、航空機、軍事車両、ミサイルなど主要な国防装備の原材料であり、安全保障を考えるうえで非常に重要な分野である。こうした戦略的な軍事産業を支える企業が同盟国の日本と言えども他国の企業に買収される事の重大性は充分に理解できる。この買収案に大きくかかわっている重要な要件がもう1つある。それは、米国中西部地域と大西洋海岸中部地域、いわゆる「ラストベルト」に集中する工場労働者たちの存在だ。かつて米国経済を重工業分野で支えながら、豊かな生活を謳歌していた工場労働者でにぎわった工業地帯は、やがて経済構造の急激な変化に取り残され、現在では失業者であふれかえる“さびれた”街と化した。民主党と共和党の勢力拮抗という政治状況で、激しい選挙戦を繰り広げた大統領選では、この地域の代表的企業であるUSスチールの買収は、必要以上に政治的な要素を帯びた印象がある。こうした事情から、本来ならその可否を審査し決定するはずのCFIUS(対米投資委員会)が、その決定を大統領に委ねることになったのがその背景だ。結局、行政機関の最高レベルの政治判断に至り、バイデン大統領が決断した。
益々きな臭くなる世界状況では、「安全保障上の問題」で影響を受ける産業は鉄鋼業界だけにとどまらない。半導体業界も、この事案は「対岸の火事」として見過ごせない状況である。
地政学的影響を受ける半導体業界
鉄鋼と同様、戦略的な意味を持つ半導体業界にも地政学的・政治的影響が増している。半導体は技術覇権競争で激しくぶつかり合う米中政府の関心事の中核的分野になっている。
最先端半導体の設計・製造技術の要件は、本来であれば各企業の日々の努力で進化することで業界全体が成長してゆくものであるが、その戦略的重要性が増し、各国が自国内でのサプライチェーンの強化に急激に舵を切った結果、政治的影響を多分に受けやすいものになった。
急速な成長を遂げるAI市場と、そのけん引役である先端半導体技術で世界最大の半導体企業となったNVIDIAの今後の成長には、本来の技術革新のみならずビジネスへの政治的な影響をいかにハンドルするかが重要な要件となっている。
バイデン政権のもとで昨年から強化されている米国政府による中国に対する輸出規制は、最近になって「人工知能向け半導体に関する輸出規制の見直し」がなされ、システムに組み込まれるなどの形で中国に流れる先端AI半導体の商流にタガをかける手立てを講じるという、より厳しい方向に向かっている。これまでの輸出規制を製品スペックの変更などの方法で回避してきたNVIDIAであるが、今回の規制見直しを受けて、こうした行政上の規制が「米国の技術革新と経済成長を妨げる」というはっきりとした政権批判に転じた。
これまで輸出規制法案を主導してきたバイデン政権は間もなく次期大統領のトランプ氏にその権限を譲るが、NVIDIAとしては新政権への牽制の意味を込めて異例の声明発表となった。片や、世界最大の市場である中国では、政府主導の自国技術の育成が中心課題となっていて、NVIDIAは中国独禁当局からの調査も受けている。
トランプ政権は保護主義的な方向性をはっきり打ち出していて、中国に対する睨みはバイデン政権以上に激しさを増す様相で、NVIDIAの先端半導体の製造を一手に引き受けるTSMCを擁する台湾の地政学的立ち位置も今後かなり微妙なものになる。
グローバルビジネスを展開する半導体企業各社は、日進月歩の進化を遂げる技術革新の加速とともに、こうした政治的な影響をまともに受けることになり、そのかじ取りの如何で状況が一変するリスクにさらされている。
高まるグローバルビジネスのかじ取りの困難さ
半導体とはまったく異なる鉄鋼業界で起こった今回の事案は、グローバルビジネスにおける視界不良がさらに悪化する今後の世界の動きを象徴する出来事のように映る。
トランプ次期政権では米中の覇権競争は激化することが自明であり、安全保障の名のもとに貿易政策での保護主義が蔓延する予想だが、特に今後は対米中両国への投資案件には細心の注意が必要となる。半導体各社のリーダーシップには不断の技術革新の推進とともに、地政学的なリスクを素早く察知する政治的なセンスが求められることになる。