【所蔵作品展入口(2階)】 エントランスホールから2階に上がり、広島県立美術館の所蔵作品の一部を企画展示公開した所蔵作品展<コレクション・フォーカス「山路商―戦前期広島の前衛精神」Ⅰ山路商と同時代の作家達>(この企画展示は現在終了しています)を鑑賞しました(展示作品は撮影不可の作品が多数あり、許可された作品の中から選んで撮影)。
【「ヴィーナスの夢」(サルバドール・ダリ)】 「ヴィーナスの夢」はサルバドール・ダリが製作した油彩画の大作。4つのパネルから構成され、画面全体で縦約2.5m、横約4.8mの大きさ。1939年のニューヨーク万国博覧会で同名のパビリオン「ヴィーナスの夢」の内壁を飾るために製作されました。サルバドール・ダリは1904年(明治37年)5月11日スペインのフィゲーラスで裕福な公証人の息子として生まれました。絵画、彫刻、版画、舞台装置、衣装のデザイン、映画制作など、20世紀を代表するシュルレアリスムの多才な作家。1989年(昭和64年)1月23日死去。享年84歳。【他の写真】
【「小童」(南薫造)】 南薫造(みなみ・くんぞう)は1883年(明治16年)7月21日広島県呉市安浦町に医師の子として生まれました。油画家、水彩画家、版画家。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒。英国留学後、文展、帝展、新文展、日展で活躍。文展審査員。帝国美術院会員。東京美術学校教授。帝室技芸員。晩年は郷里の安浦町で暮らし瀬戸内海を描き続けました。1950年(昭和25年)1月6日死去。享年66歳。【他の写真】
【「自画像」(小林千古)】 小林千古(こばやし・せんこ)は1870年(明治3年)2月20日広島県廿日市市生まれ。1888年画家を目指して渡米し、カリフォルニア州立大学付属美術学校に入学。在学中にカリフォルニア州で最も権威のあるコンクールで裸体デッサン対象の優等ブラウンメダル受賞。さらに裸体油絵対象の最優等エイブリーメダルも受賞し、同校を優秀な成績で卒業。また、卒業前年には160点の作品による個展も開催。1900年パリに渡りルーヴル美術館で研鑽し黒田清輝(くろだ・せいき)らと親交。帰国後上京し日本画壇にデビュー、白馬会で活躍し注目を集めました。東京府勧業博覧会では小林千古の「誘惑」が青木繁の「わだつみのいろこの宮」と共に高い評価を得て、最高の値段が付きました。1911年(明治44年)に病のため死去。享年41歳。【他の写真】
【「曇り日」(田中万吉)】 田中万吉(たなか・まんきち)は1895年(明治28年)4月1日香川県生まれ。広島市の修道中学校卒。第一回二科展に入賞したことで画家を目指しました。フランスに渡り、アカデミー・コラロッシュ洋画研究所で西洋画を学びました。サロン・ドートンヌ入選。帰国後広島で山路商(やまじ・しょう)、福井芳郎(ふくい・よしろう)らと洋画グループ・二紀会を設立。1945年(昭和20年)10月15日死去。享年50歳。【他の写真】
【「陸橋」(檜山武夫)】 檜山武夫(ひやま・たけお)は1906年(明治39年)広島県広島市生まれ。国鉄・広島機関庫に勤務しつつ山路商、靉光(あいみつ)らと交友し、職場風景を描いた作品を発表していきました。広島で写実派洋画連盟、広島洋画協会に所属して絵画作品の制作に励みました。二科展にも出品。1932年(昭和7年)死去。享年26歳。著書に「未完成の画家檜山武夫の手記」(檜山武夫・昭和10年発行・6600円)があります。【他の写真】
【「耕丘」(岩岡貞美)】 岩岡貞美(いわおか・さだみ)は1913年(大正2年)広島市生まれ。広島県師範学校卒。広島美術展出品。昭和10年独立展に初入選、以後も独立展に出品。将来を嘱望されましたが、1945年(昭和20年)に応召、8月6日の原爆投下で被曝し死去。享年33歳。【他の写真】
【「コミサ(洋傘による少女)」(靉光)】 靉光(あいみつ)は1907年(明治40年)6月24日広島県山県郡北広島町生まれ。本名は石村日郎(いしむら・にちろう)。印刷所に勤務後、大阪に出て画家を目指しました。この頃から靉川光郎(あいかわ・みつろう)と名乗りました(靉光という名は、これを略したもの)。17歳で上京、太平洋画会研究所で学び、フランス近代絵画の影響を受けました。二科展に初入選。以後、二科展、独立展などに出品、多数受賞。独立美術協会賞受賞。シュルレアリスム運動家と共に美術文化協会設立。1944年(昭和19年)応召し兵士として中国に渡り転戦し、中国で終戦。1946年(昭和21年)1月19日、中国でマラリアとアメーバー赤痢により病死。享年39歳。【他の写真】
【「風景」(辻潔)】 辻潔(つじ・きよし)は1912年(大正元年)佐賀県生まれ。幼少期に広島に移住。東京で洋画を学び、独立展で活躍。1932年(昭和7年)に山路商や檜山武夫らと広島洋画協会設立。広島の洋画グループ・二紀会の設立にも参加。1943年(昭和18年)死去。享年31歳。【他の写真】