第89話 「ベストはたぶん、何もしないことだ」
俺が取り付いたカローラのバンは、しばらくバックで走った後で道から外れる。
ウチから徒歩二分ほどの場所にある、砂利敷きの月極駐車場で転回を試みるらしい。
目の前を、サイズも速度もおかしいトラックが駆け抜けていく。
迷い込んだのか裏道のつもりなのか、理由はわからないがナイスアシストだ。
「仕掛けるのは今か、或いはもっと人通りのある場所か……」
ルーフキャリアを掴んだ手に力を入れながら、どうするべきかを迷う。
ここで動いて救出に失敗し、自分だけ放り出される結果になれば、最悪の事態も予想される。
一方、市街地の交差点で停車中なら、急発進も難しいから救出の確率は高まるだろう。
「問題は、綾子の存在を隠せるかどうか、だな」
街中で騒ぎを起こした場合、佐久真珠萌の存在に気付く目撃者が出てくるかもしれない。
その場合、綾子の現状がゴシップとして広まる危険にも繋がりかねない。
考えることが多すぎる――そもそも、拉致されたのは綾子なのか、鵄夜子なのか、その両方なのかも不明だ。
ザリザリザリ、ゴリュッ――
タイヤが砂利を轢き潰す音が鳴る。
数秒後には駐車場を出て行くだろうから、決めるのは今しかない。
捕まっているのが鵄夜子で確定なら、迷わず強行突入なんだが。
結局、迷っている内に車は再び走り出してしまった。
時間帯からして、どこも道は混んでいるだろう。
だから、そう時間をかけずに仕掛けられるハズだ。
「ずっとこの格好だと、通報される可能性あるな」
腹這いなのでそこまで目立たないにしても、車の天井に人が乗っている状況はまぁまぁの異物感だ。
ヘリコプターのソリ部分にブラ下がってるよりは万倍マシだが、生身で風を切り続けてるのも若干しんどい。
そんなことを考えつつ好機を待っていると、数分もせずに「今だ」と言いたくなる状況に辿り着いた。
線路の下を潜るタイプの立体交差、出た先にある信号のせいで渋滞気味。
トンネルの途中なんで左右に抜けるのは不可能、後ろも詰まってるんで車列が動くのを待つしかない。
「チャチャッと片付けますか……ねっ」
後部座席のアホが、半端に左側の窓を開けて煙草の灰を落とす。
ということは、攫われた誰かはこちら側にはいない。
ルーフキャリアのパイプの端を両手で掴み、その窓を跨ぐような姿勢に。
そして車体を蹴って反動をつけ、両の足裏から勢いよく車内に滑り込んだ。
「ぬぅぉおおおおおっ!?」
「ひぁああああああああっ!」
強化ガラスの砕ける「バシャン」という音に、男と女の悲鳴が被さる。
二十歳かそこらの、パンクスなのかチンピラなのか区別の難しい坊主の男と、眼鏡と帽子で半端に変装している綾子だ。
混乱した車内でまずやるべきことは、運転手以外の無力化。
そう決めておいたので、体は半自動的に動いてくれた。
「耳塞いで、縮こまれっ!」
こちらの指示に従っているかわからないが、伝わりはしただろうと判断。
密着し過ぎた間合いなので、攻撃方法はかなり限定される。
左の肘で相手の首を圧し潰しながら、右拳の鉄槌を顔の中心へと連続して落とす。
二発目で鼻骨が折れる感触があり、五発目で白目を剥いて脱力した。
「てっ、テメェ! 何だよっ、何なんだよっ!?」
「そりゃコッチの台詞だ、アホんだらっ!」
「うぉあっ、ちょっ――マジこれ、何なんだぁって!?」
鼻血を噴き散らかした坊主を座席の間から前方に押し出せば、焦った運転手が長々とクラクションを鳴らす。
パンテラの『俗悪』ジャケットのTシャツとジーンズ、痩せ型の体に金髪プリン頭が乗っかった、いかにも貧乏バンドマンという風貌の若い男だ。
助手席には誰もおらず、犯人グループは二人組の様子。
ストーカーの仲間って雰囲気でもないが、どこから湧いて出たんだろうか。
「フザケやがってっ!」
グローブボックスを開けたプリンは、そこから取り出した物を振り向き様に構える。
北米か南米なら拳銃を警戒するが、出てきたのは小型のスプレー缶。
黒字に白で色々と書いてあり、トウガラシの絵が大きくプリントされている。
こんな密閉空間で使ったら、放った本人も大ダメージ確定なのに――
「やめんか、ボケぇっ!」
「あぐっ――」
プリンの右手首を掴んで時計回りに捻り、危険物を手放させる。
続けて薬指と小指をまとめて握り、手の甲の方へと一気に折り畳んだ。
「ほぉおおおおおおおおおんっ!」
狭い車内に木霊する絶叫を聞きながら、助手席のロックを外す。
それから一度外に出て、グッタリした坊主を引きずり出して道の端に捨てた。
多少の放置リスクはあるが、綾子の安全を最優先にする場合は邪魔だ。
そして助手席に乗り込むと、折れた指を押さえて吼えるプリンの顎を鷲掴み、強制的に口を封じながら告げる。
「次の信号を左に曲がって少し行くと、パチ屋がある。そこの駐車場に入れ」
「うぶぇ、へぅっ――」
「わかったら頷け、あとは黙って運転しろ」
顎を掴んだ力を緩めると、プリンは慌てたように小刻みのヘドバンを披露。
車列はもう動き出しており、数台後ろからクラクションが鳴らされた。
プリンは脂汗を拭い、震える手でハンドルを握り直してアクセルを踏んだ。
「あのぅ……もういいの、かな?」
恐る恐る、という感じに綾子が聞いてくる。
チラッと視認してみれば、まだ丸まったままだった。
「ああ、大丈夫だ。ただ、ガラスの破片に気を付けて」
コチラの言葉に、綾子はゆっくりと身を起こして顔を上げる。
安心させようと、少し身を乗り出して笑顔で振り返る。
しかし、綾子は何とも言えない表情で硬直してしまった。
まだ誘拐とドタバタの衝撃を引きずっているのだろうか。
そんなことを考えている内に、車は信号を左折してパチンコ屋の手前へと至る。
「駐車場、どの辺に……」
「あそこ、三台分が空いてるとこの真ん中。そこで停めろ」
プリンは逆らいも逃げもせず、指示した通りの場所に車を運ぶ。
そして、枠線から大きくハミ出して停めると、エンジンを切って大きく息を吐いた。
事故を心配していたのか、後部座席の綾子からも長い溜息が漏れる。
「お疲れさん。ちょっとコイツに訊きたいことあるから、外で待っててくれる? すぐ終わるから、遠く行かないでその辺にいて」
わざとらしく明るい調子で言うと、綾子は黙って頷き返して外に出る。
ドアを閉める音が響くと同時に、プリンの脇腹に右肘を突き入れて、コチラのキレ具合をリマインドさせた。
「ふぐっ!? ぶっ、ぶぷっ――」
「おい誘拐犯。お前とツレの坊主は、ドコの何者だ? あの子を狙った理由は?」
「ゆっ、誘拐っ? オレはただ、頼まれただけで……」
「誰から、何を頼まれた」
「それは、えぇと……はぉどっ!」
「嘘はやめろ。考えたり言い澱んだりしたら、毎回ブン殴る」
裏拳が側頭部に入ったプリンは、涙目になってカタカタと首を振る。
そこからの事情聴取はスムーズで、プリンは驚きの素直さで質問に応じてくれた。
街金から出てきたところで声をかけられ、仕事に誘われたのだという。
仕事内容は「家出娘を連れ戻す手伝い」で、二人に提示されたギャラは五十万。
怪しいとは思ったが、五万ずつを前払いされる条件に惹かれ、免許証を預けて依頼を受ける。
標的の名前は聞いておらず、確認用にはポラロイド写真が渡されている。
このカローラのバンは、坊主の兄が所有者になっている車。
今日は近所の喫茶店で待機するよう指示され、店にかかってきた電話で伝えられた通りに行動し、標的を連れ去った。
電話の相手は声を作っている雰囲気だったが、たぶん若い男。
この後は東京の西の方に向かい、ポケベルに連絡があるのを待つ手筈――
「何ちゅう雑な犯罪計画だ」
プリンは微妙な表情を浮かべるだけで、俺の感想には反応しない。
やらせる方もやる方もどうかしているが、この時代から三十年の後も『闇バイト』なんてのが横行していたし、気軽に犯罪に加担する連中の御頭の残念さは不変なのか。
「それで、あの……オレはこれから、どうすれば?」
「好きにすりゃいい。ベストはたぶん、何もしないことだ」
「でも、預けてる免許とかは……」
「知るかよ。悪用されんよう祈れ」
呆れつつ言い捨て、プリンを置いて外に出る。
そして、不安そうにコチラを見てくる綾子に、笑顔で小さく手を振った。
「とりあえず終わったんで、ウチまで戻ろうか」
「うん……あの、弟くん。ほっぺたに……」
綾子が指差してきた辺りを擦ると、濃い赤が手についた。
なるほど、さっき引き気味に対応されたのは、この返り血が原因か。