千五百六十七年 九月中旬
前田慶次利益と可児才蔵吉長、二人の武人が静子の馬廻衆となった。
もっとも馬廻衆の件についてはすんなり決まった訳でなく、どちらかと言うと大いに揉めた。
しかしそれも当然だ。優秀な武人を引き抜かれるという事は、自分たちの軍内部におけるパワーバランスの崩壊を意味する。
織田家家臣内の軍事的・政治的な影響力にも関わるため、誰もが有能な家臣を差し出すのを躊躇った。
結局『有能だが色々な面で難あり』、という爪弾きされている武将たちの中から二人が選ばれた。
まず慶次は養父の前田利久が信長より強引に隠居させられ、代わりに前田利家が尾張荒子二千貫の地(約四千石)を継いだ。
その時、慶次は養父に従って荒子城から退去した。頼る相手がいない慶次は、世を見ようと放浪の旅に出る決意をする。
それに待ったをかけたのが他ならぬ信長だ。彼は慶次に『変わった奴に仕えてみる気はないか』と話を持ちかけた。
最初は気乗りしなかった慶次だが、信長が唯一抱えている女の家臣、そして織田家家臣たちが僅かとはいえ女の家臣に敬意を払っている事に、彼は強い興味を抱いた。
最終的に彼は『仕えるに値しないと判断すれば去就の自由を認める』、という条件付で静子の馬廻衆になる事を了承した。
一方才蔵には慶次ほど複雑な事情はない。彼は斎藤氏(斎藤龍興)が信長の手によって滅んだ後、織田家家臣に仕える事となった。
信長は最初、才蔵を将として引き立てようと考えていたが、武功や普段の言動を見る限り兵を率いる将にはなれないと判断した。
故に才蔵を秀吉の配下にしたが、彼は秀吉ともそりが合わず、すぐに柴田の元へ異動となった。
だが異動直前、信長は彼を静子の馬廻衆にと考え直し、そちらへ回した訳だ。
他に人が集まらぬ事を理解した信長は、二人を静子の元へ送ろうとした。だが直前になって予定外の人物を信長は追加した。
訓練生扱いの勝蔵、つまり後の森長可である。
長可は美濃と近江のゴロツキや流れ者を寄せ集めて長可軍団を結成していた。それに対して近隣住民からの苦情が信長家臣の元へ届けられた。
その話を信長が耳にすると、美濃平定中の余計な騒動を嫌った彼はすぐさま行動に出る。
まず長可と軍団全員を捕縛。治安を乱したという罪で長可以外は全員処刑。当然ながら長可軍団は強制解散。そして長可は寺への謹慎処分が言い渡された。
しかし傍若無人な若者に育っていた長可は、寺での謹慎処分を受けた後も変わらぬ暴挙を如何なく発揮する。最終的には寺から突き返される事となった。
通常の方法では矯正は無理と判断した信長は、長可を静子に押し付けるような形で配下に加えた。
もちろん静子の村や他の村は信長の直轄地であるため、妙な事をすれば問答無用で斬る事を宣告した上で。
勿論、それで我儘いっぱいに育った長可が態度を改める事はなかった。
それゆえ通常の村とは異なる静子の村の洗礼を彼は受ける事となる。
まず村に来て三日目にして、彼は鶏を盗んで喰おうとした。
だが血の臭いに気付いたヴィットマン家族が現場に急行。そして運悪く肉を食べている所で彼らは出会った。
その後、起こった事はシンプルだ。
テリトリー内で自分たちより序列の低い長可が、首領たる静子のものである鶏を勝手に食べている。
軍隊より上下関係が厳しい狼社会において、それは許されざる行為である。当然ながらお仕置きという名の制裁が行われる。
武器の携帯を許されていない上に、立ち止まれば何匹もの狼から襲われるため、長可はただひたすら逃げるしかなかった。
仮に武器があっても、父親の森可成より『静子殿の狼はお館様も大変気に入っておられる』という事を嫌というほど叩きこまれている長可なので、手も足も出せない。
狼を傷つけて切腹しました、などと恥以外の何ものでもないと理解しているから。
何度か物陰に隠れてやり過ごそうと試みるも、その度に発見されて追い回された長可は路線変更を行った。
狼たちは静子の命令を忠実に守っている。ならばボスの静子を何とかしようと彼は考えた。
だが一度目は企みに気付いた慶次によって阻止され未遂に終わる。
二度目はうまく静子の家に侵入し、彼女の部屋に辿り着けたのだが彼の運はそこで終わった。
その日、たまたま寝相の悪かった静子は、忍び寄る長可を捕まえるとプロレス技を仕掛けたのだ。
完全に睡眠状態の静子だが腕ひしぎ逆十字固めなど多数の寝技を極めた。
経験した事のない痛みに長可は悲鳴を上げる。悲鳴に気付いた彩は現場に急行するも、現場を見た彼女は小さくため息を吐いた後、静かに扉を閉めて長可を見捨てた。
結局、悲鳴を物ともせずに熟睡し続ける静子に朝まで関節を極められ続けた。
寝返りを交えた緩急を織り交ぜた数時間にも及ぶ拷問に長可は精魂尽き果て、ここは自分の力が通用せぬ場所だと理解した。
以降彼は静子に何かしようと考えるのを止めた。のだが、その結論に達するには余りにも遅すぎた。
彩は監視という任は解かれても、普段の静子の動向については定期的に報告を行っている。
信長や森可成が気にかけているのは静子であって長可ではないが、念のためと思い彼女は長可の今までの悪事も報告に付け加えた。
森可成はすぐに長可を呼びつけ、彼を説明なしにある場所へ連れて行った。
そこは若干腰が引けるほどの高さがある滝だった。一体何が、と言いたげな長可の肩に手を置いて森可成はこう言った。
「這い上がってこられれば此度の件は不問としよう」
言い終えると同時に、森可成は長可を滝へ蹴り落とした。
森可成は、獅子は我が子を千尋の谷に落とす、を冗談でも何でもなく実行したのである。
つまり滝から這い上がってこなければ森家から追い出す、という事だ。
最初は冗談だと思っていた長可も、滝に蹴り落とされた時から冗談ではないと理解し、死に物狂いで崖を登った。
何とか登り切った長可だが、最後にもう一つ不幸が彼の身に降りかかる。
静子にべた惚れ状態の忠勝に、どういう経緯かは不明だが静子襲撃未遂の件が伝わってしまったのだ。
その事で長可が突如として不幸に見舞われるのは、もう少し先のことである。
そんな罰が長可に下されていた事など知らない静子は、急に従順になった長可に首を傾げたが、すぐに疑問は頭から追い出した。
長可を鍛えてくれ、と言われても静子は軍人の訓練を詳しく知らないのだ。そのことですぐに頭がいっぱいになった。
使う武器によっても鍛え方が違うため、静子は長可に使う武器を確認する。
父親の森可成と同じで槍を使うという答えが返ってきた。
槍の基本戦術は『叩く』である。何故かと言うと、騎兵が相手なら叩けばほぼ落馬させられるし、歩兵が相手なら頭を叩けば昏倒するからだ。
とは言え『突く』と『払う』が使い物にならないかというとそうではない。長さに物を言わせた広範囲の『払う』は、身を引いて躱すという防御を許さない。
槍で敵兵の関節部や首などを『突く』事が出来れば、一瞬にして相手を無力化出来る。
ただ『叩く』が三つの動作の中で一番効率的なのだ。『叩く』は同時に『斬る』も出来るのだから。
それを考慮して静子はトレーニングのメニューを考える。
「ぬぎぎぎっ……っ!」
「そうそう、頑張れー」
剣道などでも言われているが、もっとも重要な要素はどのような体勢になっても姿勢を保つ足腰の強さだ。
持久力及びバランス感覚を鍛える事で、長時間の酷使に耐え得る強靭な体幹を作る。
更に太ももを重点的に鍛える事で姿勢制御の要となる筋肉を強化する。
それを最適に、かつ効率良く鍛える方法として、静子は『野山を走る』を長可にさせる事にした。
人が踏み歩いた道ではなく、正真正銘その辺の獣道である。それを甲冑を着させた上でさせているのだから、長可にとっては相当厳しいトレーニングであろう。
もっとも、地上に戻ってからは「一分間スクワット」が待っているので、地上でも山でも厳しいトレーニングを受ける事に変わりはないが。
「くそっ! なんでそんなに軽々と移動出来る……うぉ!」
「あ、そこに穴があるよ……って遅かったね」
「くぅぅぅ!!! くそったれが! 負けてられるかよ!」
気合で穴から抜け出すと、長可は全速力で山を駆け上がる。だが、すぐに腐葉土に隠れた穴にまた落ちた。
「……あのねぇ、一直線に突っ込んでどうするのよ。勇気と無謀は別物よ。武功を上げたいなら、冷静に状況を判断出来る目を養いなさい」
ため息を吐きつつ静子はそう言う。流石に返す言葉もないのか、長可は頷いて穴から抜けだした。
その後も静かなもので、山頂に到着するまで長可は一言も喋らなかった。
勿論、鍛えるのは身体だけではない。
「その漢字は違う。この文から使う漢字はこっち」
学問も同様に教えこむ。しかし頭を使うのが苦手な長可は、現代の幼稚園児なら余裕で解ける問題すら解けない。
「うぎぎぎぎっ……が、学問など何の役に立つ!」
「言葉の裏に隠された内容を理解しないと、お館様のぼやかした命令をちゃんと理解出来ないじゃない。正確な数の計算が出来なければ自軍と敵軍の比較が出来ないよ。何より想像力を養わないと、これから先、お館様についていけないからね」
不満を口にするが静子は容赦なく正論を叩きつける。ぐうの音も出ない長可は、歯ぎしりしながらも静子が作った問題を解いていく。
「いい事、勝蔵君。戦に強い人ってのはとても真面目なの」
「天下無双の豪傑よりもか」
てっきり長可は静子の言葉に反応せず、黙々と問題を解くかと思っていた。
だから少しだけ驚いた静子だが、すぐに小さな笑みを浮かべつつ言葉を続けた。
「そうよ。勇猛果敢な豪傑は確かに強いでしょう。でもね? 上の人から見れば、その豪傑はどこまで働くか分からないのよ。華やかな場面では身を惜しまないかもしれないけど、反面地味な場面や耐えなければならない場面では身を惜しむかもしれない。場合によっては逃げるかもしれない」
「……」
「勝蔵君。私はね、君に自分の見せ場だけを求める子になって欲しくない。華やかな場面も、泥臭い場面も、己の矜持が許さない場面も、どんな時であろうと主人の命令に対して責任感を持ち、突撃しろと言われれば相手が万の兵士であろうと突撃し、退くなと言われれば骨になろうと退かぬ者。そういう責任感の強い子になって欲しいね」
「……」
「あ、勿論これは私の希望であって、勝蔵君の描く未来図は別にあると思うの。だから私の言葉は参考程度に聞いてね」
「ふん」
それだけ言うと長可は問題を解く事に集中する。
長可の態度に静子は肩を竦めて、彼が問題を解く様を見る。半分近く間違えているが、それはすぐには言わない。指摘は問題を解ききった後でと決めているから。
慶次と才蔵が馬廻衆に任命されて数ヶ月経った頃、各村は米の収穫時期に入った。
麻町、味噌町、蜜町、茸町、そして静子のいる元町は、それぞれ40ha、40ha、40ha、40ha、100haの田んぼを有している。
まだ稲を刈り取った状態だが、そこから静子はおおよその収穫量を計算する。
それによると麻町は873俵、味噌町は909俵、蜜町は810俵、茸町は856俵、そして元町は2611俵、合計で6059俵になった。
蜜町だけ数が他より少ないのは病害が発生した為である。そして病害が拡大するのを防ぐために、静子は病害エリアを丸ごと刈り取ったのだ。
本来なら900俵は固いと目論んでいただけに、病害の発生は痛恨の出来事であった。
かぼちゃや薩摩芋の収穫は上々だった。各村とも毎日食べても翌年まで持つほどだが油断は禁物だ。
薩摩芋の葉は保存出来ない故に夏野菜として食したが、茎は芋がらにして保存食にした。
葉も茎も他の野菜類と比べて栄養価が高い。しかも夏から秋にかけて何度も収穫出来るのだから利用しない手はない。
大豆とサトウキビの収穫はもう少し先だが、静子は心配をしていなかった。
特に大豆は豊穣といえるほど実りがよく、大豊作になる雰囲気が漂っていた。
それはまるで、これから信長が上洛する事を天が祝ってるようにも見えた。
麻糸はシュリヒテン剥皮機を使い大量生産を行っていた。
当初は一台だったシュリヒテン剥皮機も、利益が上がるにつれて二台、三台と増え、一括処理をするための簡易工場が建てられるまでになった。
絹糸の方は自動繰糸機が六台稼働し、順調に絹糸の大量生産を行っていた。
しかし絹糸を生産しても静子は販売ルートが一つもない。そこで彼女は信長と独占契約を結ぶ事にした。
生産する絹糸を信長以外に売らぬ事、十二個を一セットとする事、価格は信長が市場に出す価格より下になる事を取り決めとした。
茸町や味噌町、蜜町は言うに及ばず、次々と生産から消費までのサイクルを軌道に乗せていった。信長はそれら全てに、絹糸と同じように独占契約を結んだ。
各町に住む者たちが生産したものを信長が買い取り、それらを信長の配下が美濃や尾張の商人に売り捌く。
百姓たちは副業で収入を得、信長は商人へ売る時の差額で利益を得るWIN-WINの関係だ。
全ての村から売りに出されるものの数は多い。
蜜蜂の巣を加熱圧縮して出来る蜜蝋。それはワックスや接着剤に用いたり、蝋燭の原料として使用出来る。
とうもろこしの髭は「南蛮毛」という生薬、芯は着火剤、皮は繊維がしっかりしているので紐や草鞋の材料、と余すことなく使える。
薩摩芋の茎は乾燥させる事で年単位の保存が可能となる。そしてビタミンC、E、K、カルシウム、ポリフェノール等の栄養素が含まれている隠れた栄養食品だ。
桑の葉は乾燥させて茶葉に、栄養豊富な桑の実は黒砂糖を加えてジャムに、実と葉をつけなくなった桑の木は伐採して材木にする。
シュリヒテン剥皮機で麻糸の大量生産が可能となったが、同時に出てくるパルプで麻紙も生産されるようになった。
穀紙に比べると緻密で上品な味わいがある麻紙は一定の人気があった。
もっとも高く売れるのが王乳、つまりローヤルゼリーだ。採取出来る量が少ない為、他より値段が高くなるが、その効果も他の追随を許さない。
様々な品が信長を経由して尾張と美濃の市場に流れていく。
物があれば人は集まる。人が集まれば金は落ちる。金が落ちれば町は潤う。
そして商人は利を得ようと中継地点を作る。最後に物と金が流れるルートが出来上がる。
東は三河国や甲斐国、西は京や堺などから商人が品を求めて尾張・美濃に来る。
現代で言う転売職人の真似事をするだけで、信長は軍資金が潤うのだから笑いが止まらない。
そして潤うのは信長だけではない。彼を中心に様々な地域がお零れに預かれる。
そうなると人間は現金なもので、今まで静子や彼女を優遇する信長に対して不満を抱いていた者たちも、自身の懐が暖かくなった途端にいとも容易く手のひらを返した。
米の収穫から二週間後、各村は信長に納める税の米俵や絹糸、蜂蜜などを次々と荷台に積み込んだ。
準備が終わった荷車がある程度揃うと護衛をつけて出発させたが、荷駄の数が余りに多いため長蛇の列が出来上がった。
「ひゅー、これが全部織田の殿様行きか」
荷駄に積まれていく米俵や商品を馬上から眺めていた慶次が軽口をたたく。
「これ程の物資が税として運ばれる光景は見たことがない」
同じく馬に乗っている才蔵が感想を述べる。
「織田の殿様が、どうして静っちを手厚く保護してるか疑問だったが……それがこれだったとはな」
「慶次殿、仮にも静子様は我々がお仕えする綾小路家の御息女。珍妙な名で呼ぶのは控えるのがよろしいかと。それからその珍妙な格好も控えるべきかと」
「かー、いいじゃねぇか。本人も問題ないって言ってるんだし」
才蔵と慶次、性格は正反対なのに不思議と馬が合う二人だった。
「才蔵、お前静っちの事をどう思う?」
「どうと言われてもな。珍しい御息女としか言い様がない。公家の血を引きし者が、百姓仕事をしているなど聞いたことがないしな」
「ふむ……そりゃーあの女が大地に愛されてるからじゃないかな、と俺は思う」
「大地に愛されてる?」
不思議な評価に才蔵は眉をひそめる。慶次は小さく笑みを浮かべてこう言った。
「見てみろ、百姓の顔を。皆、この乱世を感じさせぬ顔じゃねぇか。そしてこの収穫量、こりゃー大地に愛されてるとしか言い様がないぜ」
「なるほど、一理あるな。慶次殿が未だ静子様の元を離れぬのも、それが理由か?」
「おうよ。大地に愛されてる女を抱えた織田の殿様が、どこまで行くか見てみたい。だから暫くは馬廻衆の任を頑張るぜ」
「毎日喰っては遊び、風呂で酒を仰っている慶次殿の口から、馬廻衆の任という言葉が出るとはな」
才蔵の指摘通り、慶次は馬廻衆の任をまともにやっていなかった。
毎日好きな時に起きて、好きな時に飯を食い、好きな時に寝ていた。たまにどこかの遊郭らしき場所へ行ったきり、数日は帰ってこない時もあった。
それでいてお給金はしっかり貰っているのだから、給料泥棒と罵られても仕方ない。
なのだが静子が「傾奇者ってそういうものじゃないの?」、と慶次の言動を全く気にしていない。
理解が良すぎるのも問題だと才蔵は思った。
「いや、それを言われると耳が痛いけどな」
「やれやれ……さて、そろそろ準備が終わる。静子様がお呼びになられる前に、あの方の元へ行くぞ」
言うやいなや、才蔵は馬首を巡らせて静子の元へと向かう。
「生真面目だねぇ、よっと」
才蔵の堅物さに呆れ顔の慶次はため息をつきつつも、馬を反すと彼の後ろを追った。