千五百六十七年 七月中旬
織田家相談役に任命された静子だが、それから二ヶ月近くもの日々が過ぎても信長からは何の音沙汰も無かった。
馬廻衆や兵士の話も一切なく、それらを連れて人が尋ねてくる様子もない。
農繁期を避けて話をしようという信長なりの配慮なのだが、何も言って来ない所に静子は一抹の不安を感じていた。
次の仕事は『塩と黒板の生産、及び製法を記せ』だと静子は予感した。
それらに必要な材料は比較的簡単だ。
塩を作るために必要な道具はよしずやすだれ、そしてそれらを吊るす為の材木だ。
黒板は墨と柿渋に板状の木材、チョークは糊と石灰があれば良い。
ついでに石窯を作ろう、と考えた静子だがすぐに問題が発覚した。当時の日本には煉瓦が存在しないのだ。
そして煉瓦だけなら材料をこね合わせて天日干しすれば良いが、石窯は耐火煉瓦で作る必要がある。
まず耐火煉瓦を作るために必要な連房式登窯(登り窯)の作成から始める必要があった。焼成温度が最高で1300℃前後に保たれる登り窯は、耐火煉瓦を量産する上で最高の窯だ。
意気揚々と黒歴史ノートを開いて登り窯の構造を調べた静子は、そこに書いている内容を見て愕然とする。
登り窯に必要な材料リストに、耐火煉瓦が書かれていた。耐火煉瓦を作る為に、耐火煉瓦が必要という謎のジレンマに陥った静子である。
苦悩してようやく彼女は気付く。最初は耐火煉瓦製造を専門とする窯が必要だという事に。
幸いにも時間的な余裕は沢山あった。故に静子は窯の製作に時間をかける事が出来た。
だが先人の知識の精髄である結果のみを知ったところでいきなり煉瓦が焼ける訳ではなく、作業の各工程で躓き、それに対しての原因追究に時間を要した。
まず粘土を作るために土練機が必要なのだが、この機械を設計した際に、静子は大きなミスに気付かず組み立ててしまった。
その為、土練機は稼働直後に負荷が偏り歪んで使い物にならなくなった。静子は破損した土練機から不具合を探り当てる事になった。
設計図と破損具合と睨めっこして、不具合の箇所を探し出すのに二週間も費やした後、稼働後に見つかった小さな不具合を纏めて直し、土練機弐号を作り上げた。
今度は大きく損壊することは無かったが、使用しながら微調整を繰り返す事で粘土を作る目処が立った。
そこさえ克服すれば耐火煉瓦が作れる、と言う訳ではなくやはり様々な問題に直面することとなった。
煉瓦は焼き終えた後、時間をかけて冷ます必要があるのだが、彼女は失念し急激に冷やしてしまった。当然ながら急激な温度変化に弱い煉瓦はそれに耐え切れず、収縮した後に割れた。
耐熱煉瓦製造用の窯にも問題は発生した。手前側と奥側で温度差が生じて均等に熱が伝わっていなかった。
その対策として煙を出す口「煙道」、つまり煙突を別のものに交換した。
三メートル以上もの長い煙突に変え、気圧の差によって煙を引き出すと同時に、火を奥まで引き込んで行き渡らせた。
自身の専門分野である農業のように実践を繰り返し体得した智慧と異なり、耐火煉瓦作りは失敗の連続だった。
だが彼女は落ち込むどころか、その失敗すら楽しんでいた。不具合があれば原因調査・修正・検証と地味な作業が続くのにも関わらず。
そんな泥まみれの生活が一ヶ月半ほど続いた頃、ようやくまともな耐火煉瓦が完成した。
焼きあがった煉瓦の数は三百程度と数は少ないものの、今までの苦労が実った事を証明するかの如く、耐火煉瓦は小槌で叩くと高く澄んだ金属を叩いた時のような音を返した。
これから数千、下手をすれば数万個の耐火煉瓦が必要になるが、これからはゆっくり作ればいいと彼女は思っていた。
だが彼女は耐火煉瓦について、ある事を失念している。
石窯の為に用意している耐火煉瓦は、鋼を製錬可能となる高炉へも転用可能な戦略的資源でもあるという事を。
「はー、平和だねぇ……」
時折早馬に託された忠勝の文が届く程度で、静子の村は平和そのものだった。
技術伝達はその後も滞りなく進んでいる。更に喜ばしい事に成苗用二条植の人力田植え機が完成した。
多少メンテナンスが面倒だが効果を十分に発揮し、田植えにかかる時間を劇的に減らす事に成功した。
「綿花も育ってるねぇ……本多様が直接種を持ってきた時は驚いたけど……」
共同綿花栽培は建前上は信長から家康に打診した形になるが、実際は忠勝から家康への打診だった。
忠勝なりの思惑があると思った家康はこれを了承した。
しかし領土が絡むのですぐに場所を用意する、という訳にはいかず計画は来年度に持ち越しとなった。
その話を聞いて、来年までに一回は綿花栽培を経験したいと考えた静子は、忠勝の文に『綿花の種を見てみたいです』という当たり障りない文を付け加えた。
それで種が手に入れば御の字、駄目なら駄目で良いと思っていたが、忠勝の行動は静子の予想の斜め上だった。
「静子殿! 種を持って参りました!」
まさかの忠勝本人が種を届けに来た。二人の文の中継地点になっている丹羽も、これは予想外だった。
そして後で渡しておくと丹羽が言っても、忠勝は『某が静子殿に渡し申す!』と頑として譲らず、結局静子が呼び出される羽目になった。
「静子様、森様がお見えになられました」
「うえ、唐突だね。うん、分かった。すぐに行くよ」
呆けた顔に気合を入れた後、静子は森可成がいる部屋へ移動する。
「お待たせしま……した?」
挨拶をして部屋に入ると、森可成の後ろに成人男性二人と子供一人が控えていた。
一人は大柄な体躯をしており、戦国時代に似つかわしくない巨躯の持ち主だ。
もう一人は真正直な雰囲気が漂っていた。しかし同時に野性味も感じる不思議な人物だ。
一度も見た事のない人物に首を傾げつつも、静子はいつもの場所に座る。
彼女が座ると同時に、森可成は口を開いた。
「本日は馬廻衆の件で参った。早馬も出せず、慌ただしくしてすまない」
「あ、いえ、問題無いです」
「あまり時間を取らせるのも悪いだろうから手短にさせて頂く。まずは馬廻衆を紹介しよう。右に控えているのが前田慶次殿、そして左側に控えているのが可児才蔵殿だ」
紹介された方の内、静子を面白そうな奴を見る目で見ていた慶次が口を開いた。
「俺のことは慶次と呼んでくれ。あんただろう? ちょっと前に織田の殿様の酒会で、凄い伝説を作った奴は」
(何、その凄い伝説って!?)
数カ月前にあった慰労の酒会に静子は参加したが、その時の記憶を無くしていた。
目覚めたら自分の部屋で寝ていた。そして、それ以来皆の態度がガラリと変わった。
やたら下手な態度に出る上に、その理由を尋ねても完全黙秘を貫く。
一度、丹羽を問い詰めたら全力で逃げられた。
信長は変わらずだったが、その『何か』が影響したのか濃姫にはかなり気に入られていた。
静子は森可成に視線を向ける。案の定、彼は慌てて視線を外した。
「手前も常から才蔵と名乗っております。才蔵とお呼び頂いて結構。本当は柴田様に仕える予定だったが、何やら人が集まらぬという事で急遽こちらに回された」
「よろしくお願いします」
そこで静子は気付く。最後の少年が全く紹介されていない事に。
「あの……所で後ろの少年は?」
「ん? ああ、この子は私の息子でな」
やたら睨んでくる少年に腰が引けた静子は、ぎこちなく森可成に尋ねる。
今にも噛み付きそうな雰囲気に、静子は次男の森 武蔵守 長可かなと思った。
「名は勝蔵だ」
嫌な予感だけは的中する、と静子は心の中で頭を抱えたが、何とか顔に出さずにすんだ。
「はぁ……そうなんですか。よ、よろしくね?」
手を差し伸べたが長可はそっぽを向いた。瞬間、彼の頭に森可成の拳骨が振り下ろされた。
小気味良い音が炸裂する。よほど痛かったのか、長可は涙目で痛む場所を押さえる。
「無礼な態度を取るな。静子殿は綾小路家の御息女であり、お館様の大事な要人であられるぞ」
「し、しかし父上。幾らお館様の要人とはいえ、女子ではありませぬか! この者から私が何を学ぶというのでしょうか!」
(あっれー、なんか変な話になってない?)
自分のあずかり知らない所で、勝手に話が進んでいる気がした静子は、疑問を口にしようとした。
その前に、怒りに顔を紅潮させた長可が静子を指さしつつ叫ぶ。
「幾らお館様の命とはいえ、女子に仕えるなど真平ごめんです!」
「あのー、何やら不安を覚える単語が聞こえるのですが……何がどうなってるのでしょうか?」
小さく挙手をしつつ森可成に尋ねると、彼は少し困った顔をしてこう言った。
「お館様が『軍にも新しい風を入れるべきだ』、と申されました」
「はい」
「ですので勝蔵を静子殿の元で鍛えさせよとの仰せです」
「………………………………………………………………は?」
ナニイッテルノコノヒト、と口にでかけたので、静子は慌てて口を手で押さえた。
「前半と後半の話が全く繋がらないのですが……そもそも鍛えろって何をですか?」
「そこは静子殿に任せるとの事です」
「(丸投げですか……)あの、拒否権は……ない、ですよねぇ?」
その言葉に森可成が苦笑いをする。それだけで答えは分かった。
静子は小さくため息を吐くと、未だ不機嫌な顔をしている長可をどうにか説得しようと、前向きに考える事にした。
慶次と才蔵は特に不満はないのか、今まで一度も静子に絡む事はない。
特に慶次の方は静子がどう動くか楽しんでいるかのように、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「(ちょーっと無茶で危険だけど……この方法で行くか)えーっと、とりあえず勝蔵君……でいいかな。私に仕えるとか鍛えられるのが不満なんだよね?」
「……」
静子の問いには答えず長可はそっぽを向く。
「口で言ってくれないと分からないよ? 私は読心者じゃないし……まぁこのままじゃ平行線だし、ここは一つ、勝負をして話を決めよう」
「勝負ぅ?」
怪訝な表情を浮かべる長可だが、すぐに嘲りの笑みに変わる。
どうやら彼の中で勝負イコール武芸対決となっているようだ。その事に静子は小さく笑みを浮かべる。
「私が勝ったら大人しく言う事を聞く。負けたら私がお館様にこの任を解いてもらうよう説得する。どうかな?」
「ふん、お前如きがお館様を説得出来るものか」
「嫌なら勝負を断ってもいいけど、その場合君は『女子に勝負を挑まれて逃げた』って評判がつきまとうよ?」
気に障ったのか、長可は目を見開いて静子を睨む。それに内心怯えつつ静子は更にこう言った。
「まぁ嫌なら仕方ないよね」
「待て、誰が断ると言った。良いだろう、その勝負受けてやる」
「了解。勝負の方法だけど……言い出したのは私だし、私が決めていいかな?」
「構わん。何であれ女子如きに後れは取らぬ!」
長可が罠にかかった事を理解した静子は、内心ほくそ笑みながら話を続ける。
「森様。申し訳ありませんが、勝負を見届ける証人になっていただけないでしょうか」
森可成が頷くのを見届けた後、静子は長可の方へ身体を向ける。
「では改めて勝負の説明をします。まず勝負の方法を決めるのは私。そして私が勝った場合は、お館様の命令に従う。私が負けた場合は、私がお館様にこの話をなかった事にしてもらうよう説得する。いいかな?」
「それでいい。で、肝心の勝負は何だ? 馬か? 弓か? それともーーーー」
「ああ、うん。見事に私の予想通りの内容だね。でも違うよ、私の勝負はとても簡単だよ」
そう言うと静子は筆を手に取り、紙に文字を書いていく。
怪訝な表情をする長可を他所に何かを書き終えると、静子は紙を掲げながらこう言った。
「これを日ノ本の言葉に訳してね。見事、訳せたら君の勝ち。訳せなかったら君の負けだよ」
全員が紙を覗きこむ。紙にはこう書かれていた。
『SHIZUKO「Why don't you listen to me?」
SYOZO「No problem. Everything's fine.」』
訳)
静子「どうして私の話を聞かないの?」
勝蔵「大丈夫だ、問題ない」
二〇秒近く沈黙が場を支配した。それを破ったのは、長可の絶叫だった。
「な、なんだこれはーーーーーーーーーッ!?」
「何って、南蛮の言葉の一つ。さ、訳して?」
長可の動揺も苛立ちも何もかも無視して、静子は至って平静な態度で彼に紙をつきつける。
「ふ、ふざけるな! 何だこの勝負は! 南蛮の言葉なぞ知るかッ!?」
「ふざけてないよ、至って真面目。だから何度も聞いたんだよ、勝負は私が決めていいのかって。それに対して君は私が決めていいと断言した。だから私は私の得意分野で勝負をした訳」
「な……ッ!?」
なおも何か言い募ろうとした勝蔵だが、それは言葉にならず金魚のように口をパクパクさせているだけだった。
戦国時代の南蛮人と言えばポルトガル人かスペイン人のどちらかだ。有名なルイス・フロイスもポルトガル出身のカトリック司祭である。
故に英語を使う人間はほぼいない。もしかしたら記録に残ってないだけで、英語を使う事が可能な南蛮人はいた可能性もある。
しかし記録にない以上、静子は『戦国時代に英語を使う人間は存在しない』と考えた。
だからあえて勝負に英語を使ったのだ。
「後、私は一度も武芸で勝負するとは言ってないよ。もし君がそう思ったのなら、それは単に君がそう思い込んだだけ。人の話をよく聞いてないと、痛い目にあうよ?」
「こ、この卑怯ーーーー」
「いいかげんにしろ」
わなわなと震えながら叫びかけた長可だが、それは森可成の一言でかき消された。
部屋の温度が急激に下がったように感じて静子は身震いする。そう感じたのは静子だけではない。
才蔵や慶次も、頬に冷や汗を流しながら背筋を伸ばしていた。
「己が思い通りにいかぬと女々しく喚くその態度、見苦しすぎて見るに堪えぬ」
淡々と、いつも通りの口調で森可成が言葉を口にする。だが口元に優しげな笑みはなく、眉間には深い縦シワが刻まれていた。
「貴様は静子殿の問いになんと答えた。『何であれ後れは取らぬ!』と返答したではないか。忘れたとは言わせぬぞ」
「し、しかし……」
「しかしもない。相手が貴様の思い通りに動くとは限らぬ。もしこれが戦なら、貴様はその首をはねられている所だ。それをよく理解し、喚き散らした己を恥じろ」
「……」
「この勝負、静子殿の勝ちだ」
森可成は小さく息を吐いた後、静子の勝ちを宣言した。