第057話 天測航法
イーサ先生の部屋を辞した俺たち三人は、別邸の真ん前の本社に向かった。
「お前、儀式の内容が分かっててやったんじゃねえだろうな」
本社に入ったところで、思い出したようにハロルが言った。
「そんなバカなことがあるか。誰がお前に先生の命を預けるようなことをする」
いやほんとに。
「……」
「せいぜい、裏切るときは事前に言うんだな。先生を助けられる可能性がある」
まあハロルが裏切ったとして、それを俺より先にイーサ先生が知るというのは、おそらく考えにくいので、大丈夫だとは思うが。
「どうやって助けるんだ」
「人を雇って四六時中監視させて、森に入るようだったら拘束する。でも……その場合、無理矢理に物を食わせるしかないだろうな」
俺は、イーサ先生の場合に限っては、本当に絶食して死ぬ可能性があると考えていた。
その場合、寝ている間にでも粥のようなものを飲ませれば、イーサ先生からしてみれば不本意だろうが、助けることはできるだろう。
「……うう」
「たとえ生き延びたにしたって、恐らくイーサ先生は神品が救いようがないほど汚れてしまうわけだから、これからの人生お先真っ暗だ。信仰を捨てればいいが、そうはいかないだろうしな」
イーサ先生ほどの宗教家であれば、心まで救うということはできそうもない。
「くそっ、なんで先生を巻き込んじまったんだ」
なんか後悔しておるようだ。
「まあ、お前が契約をつつがなく履行すればいいことだ。不安なら、今からケツまくってもいいぞ」
「そんなことできるかよ。イーサ先生が」
「あそこで交わした誓いは、そもそもが航法に関してのもんだろう。誓いを契約と見立てれば、航法を教えた時点から発効すると考えるのが自然だ。お前に航法を教えなければ、誓いはなかったことにはならないにしても、文脈自体が無意味化する。お前がケツまくるなら、これからイーサ先生のところへ行って、やっぱ不安なのでハロルには教えないことにしました。って言ってきてやるよ。そうすりゃ、なんの問題もねえだろう」
そうすればイーサ先生は確実に納得するはずだ。
なんの問題もない。
イーサ先生の俺への評価が落ちるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
「ああ、そうか……」
「やめるか?」
俺も、ここでケツをまくるような奴には教えたくない。
「いいや……俺はやるったらやる男だ」
やるらしい。
「それを聞いて安心した。じゃあ行くぞ」
俺は本社の階段を登り、二階に上がった。
ドアを開けると、中には丸テーブルが置いてあった。
ここは会議室として使っている部屋だ。
質は悪いが、黒板も据え付けてある。
丸テーブルには我がイトコが、椅子に座ったまま寝ていた。
シャムだ。
となりには、相変わらず巨乳の眼鏡女子が座っている。
ようやく納得のいく眼鏡が完成したリリーさんだ。
リリーさんのほうは、イトコと違ってバッチリ起きていた。
「お邪魔しとるよ~」
と気楽そうに言った。
「どーも、お忙しい中すいません」
俺はぺこりと頭を下げる。
二人を呼びつけたのは俺だった。
「ええってええって」
「こいつらが船乗りの連中です。こっちがハロルでこっちはゴラ」
俺は簡単に二人を紹介した。
「ああそう……教えたこと理解できるとええんやけどなぁ」
「ハロルのほうは無理かもしれませんが、どっちかが理解できればいいことですから」
「理解できなかったら死ぬ思いするんやから、嫌でも理解してもらわんとなぁ」
本当にそうである。
「えっと、そちらのお嬢さんがたは」
ハロルが聞いてきた。
「天測航法について道具を作ってくれた方々だ。そこで寝てるのは俺のイトコのシャム、もう一人は社の技術主任をやっている、リリーさんだ」
「よろしくお願いします」
ゴラが頭を下げた。
「見ると、そっちのハロルっていうんが船長で、ゴラっていうんが航海士か」
「……」
俺が黙っていると、
「はい。僕が航海士です」
と、ゴラは自ら名乗りを上げた。
「ふむ」
リリーさんはゴラをじっと見ている。
「あ、あの……?」
「いやぁ、我が子のように手塩にかけてきた最高傑作を託すのが、こんな若い子ぉとはなぁ……と思うて」
心配げに言った。
リリーさんの目の前には一抱えほどもある箱が二つ置いてある。
これはクロノメーターと呼ばれる大型の時計だ。
クロノメーターというのは、精密な時計としての機能と同時に、耐衝撃性、波による姿勢変化による影響をなくす工夫などが凝らされた時計だ。
つまりは、常にめちゃくちゃに揺れ動く船内でも、きわめて正確に動作する時計ということになる。
言うのは簡単だが、そういった時計を作るには、様々な工夫と新しい発明が必要であったようで、開発に当たって、リリーさんはいくつか特許を取得した。
元々、この国の機械時計というのは、振り子時計や日時計と頻繁に時計合わせをすることを前提に作られており、精度はもちろん高精度であればあるほど良いが、それより携帯性のほうが重視されていた。
もちろん、クロノメーターの場合は、そういうわけにはいかない。
むしろ真逆で、携帯性能よりも精度のほうが重視される。
シビャク標準時と合わせたまま、どことも時計合わせなどすることなく一ヶ月以上の航海をし、シビャクまで戻ってきたらピタリと時計があわなくてはならない。
そういった性能を要求される機械なので、一年で一分以内の誤差、などということは言わないが、一月時計合わせしないでいれば半日時計が狂ってしまう。というようなものでは、全然用をなさない。
リリーさんは、これを開発するには、寮にある設備では全く足りないので、実家まで馬を飛ばして相談したりもしていた。
リリーさんの最高傑作というのは、過言でもなんでもない。
「ご心配でしょうか」
ゴラは言った。
「逆に聞くけど、君はこれを取り扱うのが心配じゃないんか? 時計が壊れやすい機械だってことくらいは知ってるやろ。ユーリくんは、これを一台作るのに、金貨を百枚も使ったんよ」
「百枚……」
ゴラは呆然としたように言った。
金貨百枚というのは、そのへんの船乗りがおいそれと手に入れられる金額ではない。
これでも、リリーさんの社員価格でのご提供だ。
アミアン印で売りに出されたとしたら、二百枚は取られていたかもしれない。
ここにそれが二台あるのは、万一壊れた場合のことを想定し、二台セットで使う前提にしてあるからだ。
機械時計は油さしを一箇所怠っただけで酷い誤差を生んだり、壊れたりする。
それが海上で発生したら、一発で遭難、船は乗員をのせたまま海の藻屑、ということになる。
それでは問題なので、ヒューマンエラーを考えると、事故率を下げるために二台セットにする必要があったのだ。
量産効果があるから、単純に値段を倍にはできないが、それにしたって高い買い物だ。
それとは別に、日常使う用の時計が必要なので、これもそれなりに精度の高い懐中時計を一機用意してある。
クロノメーターは持ち運びするものではないので、できれば船の重心部分に設置しておく。
観測のときに実際に使うのは、懐中時計のほうだ。
懐中時計は、毎日クロノメーターと時計合わせをする。
六分儀と、シャムの作った航海年鑑を含めて、金貨三百枚くらいか。
ホウ社にしたって、簡単に処理できる金額ではない。
カフには渋い顔をさせっぱなしだし、会計役のビュレなんかは目を白黒させている。
これで船を買う資金を出せば、創業以来の努力で得た儲けはすべて吹き飛ぶ。
それを、このハロルに預けるというのだから、心配にもなる。
「もちろん、中の構造まで理解しろとは言わんけど、真剣に覚えて貰わな困るよ」
「はい。真面目にやります」
「よし、じゃあ、概念から説明するで」
説明が始まった。
シャムは寝ていた。
***
「……というわけや。原理を言えば簡単な話やろ?」
リリー女史の講義が終わった。
リリー女史は立ち上がって、木で出来たタマを持っている。
これは地球を表している。
「……あー、しつも……いや、いいや」
ハロルが言いかけてやめた。
「なんや。質問ならハッキリいいや」
「いや、考えてるうちにわけがわかんなくなった」
こいつはダメそうだ。
「ゴラのほうはどうなんだ?」
とゴラに話を振った。
「……少し頭を整理する必要はあるかもしれませんが、大まかなところは」
なるほど。
端緒は掴めたというところだろうが、それだけでも十分すぎるくらいだ。
そもそも、こいつらは地動説をここで初めて聞くはずだ。
すぐにストンと頭に入ったら、それこそ不気味である。
「つまりは、同じ時間に太陽が南中し、かつ同じ角度にあがる地点というのは、地球上に常に一箇所しかないってことだ」
俺は簡潔に要約した。
これが太陰暦でも使っていると、また面倒なことになるが、シャン人は太陽暦を使っているので助かる。
「学者じゃないんだから、それだけ理解できていればいい。道具として使えれば、それで十分だ。だが、知識がなければ、使うにしても頭がこんがらがっちまうからな」
「はい」
素直だ。
「あと、リリーさんの説明に付け加えるがな。方位磁針は多少疑ってかかれよ」
「コンパスを、ですか?」
「コンパスというのは、厳密にいえば北を指しているわけじゃない。どうしてコンパスが北を向くか考えたことがあるか」
「さあ?」
まあ、そうだろうな。
考えてもわかりっこないことだし。
「あれは、地球全体に巡っている、目に見えない……力の流れのようなものに流されて、北を向いてるんだ。その流れは、ウネウネ蛇行していると考えるといい。もちろん、蛇行してても場所によってはタマタマ北を指すこともあるし、たとえば王都の端と端で流れがよほど違うということもない。だが、シビャクとカラクモくらい離れていれば、少しくらい変わってくる」
「……よくわかりません。それがどういう意味になるんですか」
「確かに、今までのように勘で航海するなら、関係ない話なんだけどな。例えば、ココからココに移動したいとするだろ」
俺は机の上の離れた二点を両手の指で別々に指した。
「ここからここまでは、お前らがいつも使っているスオミ海港から、アイサ孤島までの二倍くらいの距離があるとしよう。二つの港は、両方とも一度行って観測が済んでいるから、緯度も経度も解っている。道中は全部が海原だと仮定すると、もちろん一直線に行きたいよな」
俺は一直線に一つの指を動かして、もう片方にくっつけた。
最短距離だ。
「だけど、方位磁針だけ頼りにすると、針の向きは微妙にズレて、しかも変化しているわけだから、こう動くことになるわけだ」
俺は片方の指を微妙に角度を変えながら直進させ、もう片方の指に近づけてゆく。
二つの指は重なり合わず、遠くですれ違う。
「こうやって、お前らは目的地にたどりつけない。だから、実際の航海では太陽が出ているうちは毎日、観測をして、位置を修正していく必要がある。まあ、太陽だけを観測する方法だと、一日に一回しか観測するチャンスはないから、こうなるのが理想だ」
俺は今度は、細かくジグザグに動きながらも、二つの指を合わせた。
「まあ、実際の航海では、こんな心配しなくても、向かい風に当たればタッキングを繰り返したりするわけだから、毎日観測する必要があるだろうけどな」
向かい風に対して帆船で前進するには、斜めに風を受けながらジグザグに遡上するように動かなくてはならない。
これをタッキングという。
こいつらにとっては基礎中の基礎の用語だから、もちろん承知だろう。
タッキングをしてしまうと、どの方向にどれくらい動いたかというのは、わからなくなってしまう。
「ともかく、方位磁針は目安程度に考えろってことだ。観測結果のほうを当てにしろ」
「はい。解りました」
「方位磁針を動かす力の流れというのは、時を経てもそう変わるもんじゃない。地図に方位磁針の誤差がどれだけあるか書き込んでいけば、そのうちには地域特有の誤差がどれだけあるか、わかるはずだ。そうしたら、方位磁針の方向から誤差を差し引けば、正確な方向がわかる」
「しかし、方位磁針が頼りにならないのであれば、方角はなにを基準に考えれば良いのですか?」
なにを基準て。
船乗りなら常識じゃないのか。
「それは、今も昔も変わらない。北極星だ」
「ああ、なるほど」
北極星のことは、さすがに知っていたらしい。
「北極星は常に北にある。今リリーさんが話した内容で、北極星が真北にある理由は分かるはずだ。真北にあるから動かないのであって、これ以上間違いない基準はない」
「わかりました」
「ユーリ先生の講釈が終わったところで、実際に練習をやってみよか」
リリー女史が言った。
***
部屋の中で固定した椅子に座り、部屋の壁に横に張られたロープを水平線に見立て、天井に貼った紙の丸を太陽に見立てた練習は、日が落ちるまで続けられた。