第055話 蓬髪の浮浪者
俺は宿泊を勧めるエク家の屋敷から、早々に退散した。
少しスオミの街を見物してから、宿で一泊して帰るか。
などと考えながら、港へ向かった。
港では、人が盛んに動いていた。
この港は、ハロルがアイルランドとの交易の拠点に使っているが、元より山の背側の諸都市との交易で栄えている。
造船なども盛んであった。
初期型の天測航法が完成したのは、ついこの間のことだ。
中型の精密時計がつい先ごろ完成し、費用はかかったが、とりあえずは仕組みを整えることができた。
天測航法があれば、広い大海原を自由に航行することができるようになる。
少なくとも、行った場所にもう一度行くことは、そう難しいことではなくなる。
散歩がてらに海を眺めながら、岸べりの石積みの堤防を歩いていると、一人の浮浪者が堤防に座って、夕日の差し込む海を見ていた。
顔中がひげぼーぼーで、整えられていない蓬髪は、海風にやられてボサボサになっている。
泥だらけの上着が、髪と一緒にたなびいていた。
漫画とかだと、こういうのが意外と天才軍師だったり、有名な哲学者だったりするんだよな。
主人公の師匠になる武芸者だったり……。
懐かしいな。
そう思いながら、通り過ぎようとしたところ、浮浪者が歌うように何かのフレーズを口ずさんでいるのが聞こえた。
『……主はおっしゃった。海にあるものは海に、山にあるものは山に還せ。陰府への道をまよひたくなくば、そのものが産まれたところより去れ。さもなくば、道を迷うことになろう。と……』
イイスス教の聖典の一節をブツブツと暗唱していた。
もちろん、テロル語であった。
俺はギョっとして、クラ人か? と疑い、まず耳を見た。
ぼっさぼさに伸びた蓬髪で、耳が見えなかった。
俺は後ろ腰に差していた短刀を握った。
いくらなんでも怪しすぎる。
『おい、お前、何者だ』
テロル語で声をかけた。
のっそりと振り返った男の顔は、日に焼けて赤くなっていた。
日焼けで崩れた皮膚がそのまま垢になったように、全体が垢じみている。
「あんだ?」
虚ろな目で答えた男は、なんとなく見覚えのある顔をしていた。
「……おまえ、まさか、ハロル・ハレルか?」
「……お前かぁ」
久しぶりに会ったハロルが発したのは、魂の抜けたような、腑抜けたような声であった。
***
俺は、ハロルを引っ張って、なかば無理やりに近くの酒場に引っ張りこんだ。
「一体全体、なにがあったんだよ」
卓の上には、運ばれてきたビールが既に乗っている。
「………」
「答えろよ。ほら、ビールでも飲め」
ビールのジョッキをハロルのほうへ押しやった。
ハロルはよっぽど酒に飢えていたのか、ジョッキを持つと、がっと煽るように傾けた。
「ゲッ、ガハッ、ゴホッ」
激しく咳き込み、せっかく飲んだビールをこぼし、汚れた上着にしみを作った。
潮気に喉でもやられていたか。
だが、気を取り直して再度挑むと、今度は咳き込まずに飲み干した。
「すみません」
俺はウェイトレスの人を呼び止め、
「ビールおかわりお願いします」
と言った。
「蒸留酒だ」
おっとぉ、タダ酒を飲んでる男から注文が入ったぞ。
「……すいません、やっぱビールじゃなくて蒸留酒をジョッキで」
もう好きなだけ飲ませてやろう。
「えっ、ジョッキでですか」
流石にジョッキで蒸留酒を頼む奴は少ないのか、ウェイトレスさんは驚いた様子で聞き返してきた。
まあ、飲む量を間違えて死んだら、そんときゃそん時だ。
「ジョッキで。あと、ツマミに肉をいっぱいください。あまり辛くないやつを。お代はこれで」
銀貨三枚を握らせた。
さすがに蒸留酒ジョッキともなると、だいぶ値が張るはずなので、先払いのほうがいいだろう。
「かしこまりました」
少し待ってジョッキ蒸留酒が来た。
ハロルがソレをゴクリゴクリと飲み下したのを見て、俺は口を開いた。
「それで、何があったんだよ」
「……俺のふれが、ふれがぁ……なくなっちまっらんらぁ」
ハロルは、舌足らずな酔っぱらい声で言った。
ふれ。
フレンドがいなくなっちまったのか。
悲しいよな。
いや、違うか。
フネのことかな?
船がなくなっちまったか。
こんなに凹んでるということは、つまりは沈没かなんかして損失したのかもしれない。
「海賊にでもやられたのか?」
「いや……そうらんして、俺とほうはいひろじっちゃんひらいがらんらんおこして、船からほーろで放りらされひまっら」
そうなんして、自分とほうはいひの爺ちゃん、ひらいがらんらんをおこして……。
えーっと、らんらんってのは反乱のことか?
遭難して、反乱が起きて、航海士のおっちゃんとコンビでボートで放り出された……かな?
船で反乱があって、船長が殺されたりボートで放り出されるというのは、漫画とかではよく見た話だったが、知り合いがそういう目にあったのは初めてだ。
本当にあるもんなんだな。
といっても、乗組員を非難するのは酷だろう。
そもそもが、勘で外海に出て行くこと自体が無謀なのだ。
外海に出て行くというのは、四方陸地の内海や、常に岸が見えている沿岸を航海するのとはワケが違う。
迷子になったら死ぬのだ。
海水は飲めないから、食料と水が尽きれば、問答無用で飢えて死ぬ。
そんな状況で、陸地は見えてこず、食料と水は日に日に目減りする。
船員は不安になる。
事前に十日の航海と言われていたところを、二十日経っても陸地にたどり着かなければ、当たり前だが、どないなっとんじゃいということになるだろう。
現実に遭難しているのだから、船員が納得できる説明をすることも困難を極める。
その結果、食料と水が尽きれば、ふざけんなやこらぁ、責任とって海の藻屑になりやがれ。ということになるのは、当たり前の話だ。
生きたまま海の中に投げられず、ボートを与えられただけ良心的ともいえる。
「それで、船のほうは」
「かえっれこねえ」
船のほうは帰ってこないらしい。
死んだな。
今頃は餓死した船員を乗せ、幽霊船となって海原を海流にまかせて漂っているのかな。
それとも、岩壁や暗礁に乗り上げたり、船底に穴があいたり嵐で横転したりして、沈没しているか……。
南無三。
しかし、ボートに乗せられて大海原に放り出され、実質的に処刑されたほうが生きて帰るというのも、皮肉な話だな。
食料を与えられたわけはないだろうし、放り出された地点からすぐ近くに陸地はあったのだろう。
航海士のほうは陸地の方角の見当がついていたのだろうか……。
「まあ、なんだ。大変だったな」
といいつつ、自業自得のような気がしていた。
ハロルがしていたのは、自覚をしていたのかは知らんが、遠当ての的を鉄砲で撃って、的を外したら全財産を失う。というようなゲームだ。
言語の関係で、自分自身が船に乗らなければお話にならないのだから、他人にやらせて自分は利益だけもらう。という仕事はできない。
自然、船には自分の命を乗せることになる。
ということは、将来的には破滅からは逃れられないのだ。
いくら鉄砲の上手で、遠当ての的に何度も命中させても、いつかは失敗する。
その時は命まで持っていかれる。
リスキー以前に、ビジネスモデルとして破綻していたのだ。
鉄砲を外した時、全財産は失ったが、命まで持って行かれなかったのは幸運だった。
アイスランドもといアイサ孤島の往還船も、似たようなことをしているが、こっちは往復で五割~七割ほどの生還率であり、死出の航海とも言われている。
半々から三割ほどの確率で死ぬのだから、十回も往還を成功させたら奇跡だ。
「おれぁもう終わりら……イーサせんせいに海で死んだって言っておいてくんねえか……」
なんだこいつ……。
やだよ……。
「もっかいやり直せよ」
「いや……仕入れに全額つかっちまっれ……もう金がねえんら」
この野郎……。
どーしょーもねえな。
「まー、とりあえず、落ち込んだときは女でも抱いてサッパリするのがいいだろ。娼館でもいくか?」
まるで「ソープ奢ってやるよ」みたいな台詞だ。
いや、実際そのまんまなんだけど。
しかし、世の中には娼婦に慰めてもらって死ぬ気がなくなったという男もいるだろう。
たぶん……。
「いや、おんなはいい」
おや。
「いいって、オッケーって意味か」
「ころわる」
嫌か。
「なんでだ。なんか理由でもあんのか」
不思議だ。
こいつも溜まってるだろうから、一も二もなく飛びつくと思ったが。
「かいらく目的の淫行はらめっれイーサ先生が……」
イーサ先生かよ。
イーサ先生に「えっちなことはいけないと思います」って言われたのか。
イイスス教徒とかいったって、昨日今日なったばっかりのニワカのくせに。
そんな教義があるにしても、職業聖職者じゃないんだから、無視無~視お疲れ様でした~だろ。
「じゃあ自殺もダメじゃねえか」
「自殺なんかひねえよ……」
さっき死んだらどうとかって言ってたのに。
自殺する気はねえのかよ。
難儀なこっちゃで。
そこで、良く焼けた炙り肉が運ばれてきた。
ウェイトレスの娘は、酔ってくだをまいているハロルを見ると、口元に人差し指をちょんとつけて、ウインクをすると、黙って肉を置いていった。
いい店だな。
「ほら、さっさと酒飲んじまえよ」
「うるっへぇ!」
「ツマミも食っちまうからな」
ホカホカと湯気が立っている、油でテカテカとひかった炙り肉を一つとる。
かぶりつくと、口の中に肉汁が広がった。
香草の類を中に入れて焼いたらしく、香りづけが効いていて、なかなか美味い。
「とるなっ、おれのらっ」
ハロルも負けじと、炙り肉を皿から取ってかぶりついた。
あっという間に骨だけにすると、次を手に取る。
次から次へと胃袋にしまいこんで、一皿平らげてしまった。
さすが、酒豪を自称するだけあって、そのころには酒も飲み干していた。
「ういっく、ふーう。くったくった」
そんな発言をして、十分後には、ハロルはテーブルに突っ伏して眠っていた。
人間、腹が満腹になり泥酔すれば眠くなるものだ。
まあ、体力だけが取り柄の男だから、転がしといても風邪もひかないだろう。
***
「すいません」
俺はウェイトレスさんを呼んだ。
「はいは~い、なにか?」
「こいつ明朝までどっかに転がしといて貰えませんかね」
「ああ、いいですよ」
いいのか。
ちょっとは渋られるかと思ったが、わりとあっさりだった。
「危ない人間じゃないので、ゴミでもしまう倉庫に入れといてくれれば」
「いえいえ、ハロルさんには、大分ご贔屓にしてもらいましたから。最近は……ちょっとご無沙汰気味でしたけれど」
ウェイトレスさんは少し寂しげな顔をした。
ハロルはここの常連だったのか。
羽振りがよかったころは、よくここで大酒でも振舞っていたのかな。
今は亡き船員たちに。
「明朝引き取りにくるので、よろしくお願いします」
「あっ……はい」
「あーあと、箒とちりとりとかありますかね」
「えーと……? 床の掃除ならこちらでやりますけれど?」
「いえ、そうじゃないんですよ。あんまりにみっともないもんでね。寝てる間に身だしなみを整えてやろうと思って」
俺はハロルを後ろから引っ張りあげて、床に寝かせた。
懐から短刀を抜く。
「ヒッ」
ウェイトレスさんは、短く悲鳴を上げた。
「暴れたりしませんよ。毛をそるだけです」
俺はハロルの顎ヒゲを、飲んでいた水で濡らすと、髪を掴んで固定し、短刀を滑らせた。
流石によく切れる短刀だけあって、カミソリだったら刃が駄目になってしまいそうな剛毛を、サクサクと剃ってゆく。
「あっあっ……プッ……うふふ、いいんですか?」
「いいんですいいんです」
俺はハロルの顎から、更に短刀を滑らせて、ゾリゾリと頭の毛を剃っていった。
さすがに眉毛は残してやるか。
耳の毛まですっかり剃り、つるつるてんにして、頭を持ち上げて、首の後ろの毛まで全部きれいに剃り上げると、ハロルの毛はこんもりとした山になっていた。
「あっ、わたしが掃除しておきますから」
毛を箒で片付けようとすると、ウェイトレスさんに止められた。
「そうですか。なら、先に移動させてしまいましょう」
ハロルを引きずって、納屋みたいなところに放り込むと、俺は代官屋敷に戻りたくなかったので、適当な宿屋に潜り込んで、一夜を明かした。