第043話 リリーの思い*
「それなら、お金はここに置いておきますから、茶のおかわりでもしてゆっくり考えてみてください。僕はそろそろ行きますね」
そう言ってユーリが出て行ったあと、リリー・アミアンは机の上に置かれた銀貨を数えた。
だいぶ多かった。
軽く暗算して出した料金よりも、二倍ほども多い。
釣りは取っておいてもよかったのだろうが、リリーは店員を呼んで茶と菓子を追加で注文した。
「承りました。すぐにお持ちしますね」
小気味よく注文をとった店員が、個室から出てゆく。
「……ふう」
そして、先ほどのユーリの言葉に思いを馳せた。
(確かにな)
と思っている。
***
リリー・アミアンは、山の背側の、川に抉られた小さな峡谷に生まれた。
その峡谷は、地元の言葉でヤナ峡谷と言う。
その小さな峡谷が、リリーの生まれ育った土地であり、アミアン家の領地の全てであった。
領主はリリーの父であり、領主であるからには貴族なのだが、アミアン家は「先祖代々の無役」という家柄だった。
五大将家を総領として担ぎ上げ、その下に群がる零細の騎士家の中には、そのような者がたくさん居る。
彼らは騎士号を持っておらず、形の上でだけ将家の家臣団の末席に名を連ねているが、出兵はしない。
より正確に言えば、出兵の義務はあるのだが、騎士団の軍機構の中に役目がないので、自身が出陣する必要はない。
彼らの殆どは「流れ者の貴族」であり、騎士家には違いないのだが、特に「預家」と呼ばれ、一般的な騎士家とは区別されていた。
当主は女性がなっても良い。
有事の際は、規定人数の兵を領内から徴兵し、それを将家に預ける形をとる。
リリーが生まれたアミアン家は、大昔にはテナアという国の大魔女家であった。
大魔女家の通例として、家系図を大皇国まで辿ることができるが、これにはさして意味はない。
テナアは、歴史の中で王家と魔女家が特に深く絡みついてしまった国で、王は末期には「魔女王」と名乗っていた。
王は、形だけはクワダ・シャルトルの姓を名乗っていたが、王家と「魔女の中の魔女家」を名乗る十二の家は血筋的に絡み合っていて、一つの血族、大家族のようであった。
アミアン家は、その中の一家族である。
うち、もう一つの家は未だにシヤルタ王国内に存続しているが、十の家は既に滅びている。
だが、そのようなことは、もはや幾らかの家の家伝、あとは大図書館にある歴史書に残るのみの知識である。
現実にはなんの影響も及ぼさない。
ともかく、リリーの先祖は、テナアが滅びに瀕した時、母国を見限ってシヤルタ王国にやってきたのであった。
他の国が滅び、窮した元魔女家が頼ってきても、魔女家は助けてはくれない。
魔女家は、収入を経済と政府から吸い上げている。
馴染みの大商人たちから、または王家から与えられた役職がもつ権能を濫用して、金銭を得る。
そのような家業を持つ魔女家は、当然ながら縄張り意識が強く、他国が滅びて魔女の家の者が流れてきても、その扱いは冷たかった。
一夜の宿くらいは貸しても、自身の利権を分け、生活の基盤を与えるといったことは、絶対にしない。
そのため、アミアン家は今までの生業を捨て、騎士家であるノザ家に頼り、命からがら持ってきた金塊を差し出し、預家にしてもらったのである。
預家は、騎士としての働きが免除される。
であれば、預家は領地経営だけに精を出していればよく、兵役のない平和なだけの家柄でいられるのかというと、そういうわけにもいかない。
兵務の代わりとして、預家は一般の税収に上乗せして、上納金という形で将家に金銭を支払わなくてはならない。
その上納金は高額であり、アミアン家には今も昔も、領地からの収入といえるものは、殆ど手元に残らない。
赤字ではないものの、収支を考えると、家の収入は雀の涙ほどのものであった。
その僅かな収入も、毎年安定して得られるわけではない。
凶作が続き、作物の出来が悪ければ、もちろん税収に響く。
税収が少なかった場合、税収に応じてノザ家にわたす税は、比例して下がることになっている。
だが、上納金の額は毎年一定で、これは変わることがないので、場合によっては領からの税収を上回る金額を渡さねばならない年もあった。
手元に残った雀の涙ほどの金を、赤字の年に備えて貯蓄し、場合によっては自ら鋤鍬を持ち田畑を耕すのが、預家の、貴族というには余りに慎ましい生活であった。
そのような事情があり、預家というのは別名を「将家の小銭いれ」ともいわれている。
貴族位を求めて騎士家の傘下に入っても、大多数は年月が経過するうちに上納金を払えなくなり、せっかく持ってきた財産の全てを上納金に取られ、消滅してしまう。
貯めた金で男子を騎士院へやっても、騎士団に席を貰えなければ預家のままなので、よほど才能のある男子が産まれない限りは、まっとうな騎士家として生まれ変わることもできず、上納金もなくならない。
なので、長く生き残っている預家は、例外なく領主業とは別に、多額の収入を得られる家業を持っている。
それは鳥獣の骨の加工品であったり、鍛冶であったり、家具の生産であったりした。
アミアン家の場合は、それは機械生産業であった。
機械の生産を始めたのは、リリーの曽祖父である。
手先が器用で機械時計が好きであった彼は、爵位を質にいれて道具を手に入れると、自ら柱時計を作り始めた。
大きな柱時計に、テナア伝統の彫り物細工を入れ、乾くと黒光りのするニスを全面にたっぷりと塗りつけた製品は、すぐに評判となった。
更に設備を整え、小型の懐中時計の生産に成功すると、更に家は潤った。
曽祖父の死後は、父が事業を継ぎ、今では機械生産業はアミアン家の主要な収入源とまでなっている。
リリーはその父の娘として産まれ、幼い頃から家業を教えこまれた。
機械の仕組みや、金工。場合によっては木工にまで熟達しているのは、そのためである。
そうして、十歳になると、ついにリリーは教養院に入れられたのであった。
アミアン家の中で教養院に入る子は、シヤルタ王国に来てからは、リリーが初めてであった。
学院は学費が高いために、預家にとっては中々気軽に入れられるものではない。
預家の跡取りという生徒は、リリーが入寮したときには、寮には二人しかいなかった。
リリーが教養院に入れられたのは、領地経営に関わる初等的な政治学や、税制あるいは法学について勉強するためである。
また、それ以前に、教養院を卒業したということは、領主として大きなステイタスになるからでもあった。
アミアン家も娘を教養院に送れるほどにはなったが、それでも余裕があるわけではない。
魔女家と違って、院に入った娘に小遣いをくれてやるほどの余裕はなかった。
なので、リリーは教養院に入学すると、寮生の懐中時計のメンテナンスなどをして、小遣いを捻出していた。
それは、リリーにとっては遊ぶための金ではなく、生活に必要な資金であった。
白樺寮においては、身だしなみも重要だ。
教養院の制服などというものは、何年も着ていれば寸法を直す必要がでてくるし、どんなに扱いに注意をしていても、古びて擦り切れ、色褪せてくるのは止められない。
同じ服を着ていても、安く腕の悪い仕立屋が作った制服を破けるまで着ていたら、白樺の寮では笑いものになる。
そうならないために、リリーにはお金が必要だった。
一般に価格が金貨十枚を超える高級な懐中時計を所持する生徒は、寮内でも羨望の眼差しを向けられる。
彼女らにとり、懐中時計というのは、時刻を知るための機械というよりは、高級なアクセサリーであった。
だが、懐中時計というのは定期的なメンテナンスが必須な機械である。
懐中時計は二年か三年に一度、分解して部品を磨き、注油する必要があったので、仕事は尽きなかった。
だが、細々とやっていたメンテナンス業も、ユーリの依頼が殺到するようになってからは、受けるのをやめていた。
ユーリの仕事のほうが、遥かに儲かるからであった。
***
リリーが隣を向くと、シャムは湯気を立てたミルクティーを目の前にして、ぽけーっとしていた。
おおかた、先ほど与えられた課題について考えているのだろう。
リリーは、こうなったシャムの頭の中で、人知を超えた複雑な思考が行われていることを知っていた。
一見して、いつもぼーっとしているようにしか見えないこの子は、特定の分野において超人的な能力を発揮する。
ユーリが手塩にかけて育てたであろう、天才児なのだ。
だが、残念なことに、その超人的な能力は教養院のカリキュラムにおいて、まったくといっていいほど、役に立っていない。
そのため、シャムは寮内では成績の悪い不思議ちゃんという、平凡からやや下の定評を得ていた。
(……この子のためなんやろうな)
と、リリーは思った。
ユーリは自分では気づいていないようだが、有名人だ。
漆黒の髪をした美男子で、喧嘩も強ければ、頭脳も教養院の首席より優れていると言われるほどである。
母親が農民という謎めいた出自もあるし、入学早々キャロル殿下の一番の友人になったとも聞く。
執筆界隈でも、すぐに流行の主役に躍り出た。
有名であれば噂も入ってくる。
入学するなり、開設されてすぐのクラ語の講座に潜り込み、最も熱心な学生の一人として習い続けているというのも、有名な話だった。
古代シャン語上級会話と並んで難しいとされる、クラ語の単位を早々に取得し、何故か取得後も講義に通っているという。
普通であれば、あのような年少の子供が興味をもつような講義ではない。
ユーリはクラ人通、クラ人贔屓という、良くも悪くも取れる人物評も出回っていた。
船はいい。
リリーは、外洋に出ればクラ人の魔の手から逃れられるという理屈は、理解できた。
国が滅ぶかもしれない。という危機感も理解している。
だけれども、国が滅ぶにしても、クラ人の中に溶け入って、潜むように暮らすなどという生活は、リリーには想像できなかった。
それは他の者もそうであり、だからクラ語など勉強はしない。
リリーも学びたいと思ったことはなかった。
だが、ユーリは勉強している。
あれだけ頭のいい子が、五年も真剣に取り組んでいるのだから、現在では完璧に習得しているだろう。
ここで疑問が残る。
何故、今になって苦労して外洋を航行する船などを調達するのか?
死が怖くて一人逃げ出すだけなら、苦労してそんな船を調達する必要はない。
あれだけの才能があり、言語にも不自由しなければ、クラ人の国に入ってやっていけないということは、むしろ考えにくいことだ。
捕まりそうになったら逃げればいいのだし、逃げ場がなくなれば槍で切り抜ければよい。
そのための技能は、十分すぎるほどに習得しているだろう。
リリーは、クラ人に会ったことがあった。
イーサ・ヴィーノと名乗ったその人は、リリーの方言の入った言葉遣いに少し困惑していたが、快く眼鏡を見せてくれた。
シャン人とそう容姿が違うわけではなかった。
キャロル殿下のような、目が覚めるような金髪をしているわけではないのだから、耳を隠せばそれでクラ人として通ってしまうだろう。
シャン人を差別しているイイスス教国は、この半島以外の全世界を覆っているわけではない。
ユーリにとって、国をひとつふたつ抜けることは、そう難しいこととは思えない。
つまり、一人で逃げるだけなら、船を用意する必要などないのだ。
では、なぜ船を調達するなどと考えついたのか。
(この子も助けたいんや。この子だけやなくて、家族や友達も一緒に助けたいんや)
意識的にしろ、無意識的にしろ、そう考えているとしか思えなかった。
資金の出処について、実家に頼らないように気をつけているのも、そのせいだろう。
船に乗せる人員には限りがある。
まさかシヤルタ王国の全国民を脱出させるわけにはいかない。
だとすれば、ユーリが実家の金を堂々と使って事業を進めたらどうなるか?
その金は、元をたどれば領民から徴収した税金なのだから、まずは領民から乗せて、ユーリとその家族は最後に乗るべきだ。という道理になるだろう。
ユーリは、自由に、かつ誰に恥じることなく、乗せる人間を選ぶ権利を欲しているのだ。
(でも、ユーリくん、君にはそれができるんか?)
ユーリの最も親しい友人には、キャロル殿下やドッラやミャロがいる。
リリーは、半分はピニャの書いた小説の受け売りではあったが、それを知っていた。
というより、彼らは全員有名人なので、小説がなくても耳に入ってくる。
七大魔女家のミャロはともかく、キャロル殿下やドッラは、自分から国を捨てて生き延びようと思うだろうか。
家族も、シャムには国の意識なんてものはないけれど、現当主の父親のほうには、責任がある。
彼らは、ユーリくんのこしらえた船に乗るだろうか?
船に乗ることを拒否した彼らを見捨てて、ユーリくんは海を渡って新天地へ行けるのだろうか?
誰かを助ける発想をして、たいへんな苦労をしてまで実行しようとする人間が、親しい人々をあっさりと見捨て、逃げる。
それは行動として矛盾しているように、リリーには思えた。
ユーリが、そういう仕事ができる、矛盾をためらいなく受け入れられる、いわば分裂した人格の持ち主である。という考え方もできる。
だが、そうでなかったら、土壇場で行動に移れないだろう。
大切な者を逃した後に、自分はシヤルタの地で死ぬのではないだろうか。
「先輩? 食べないんですか?」
ふと気づけば、シャムはミルクティーを飲み終えて、お菓子も食べきっていた。
シャムの思考法はいつもこうで、思考に入ると一心不乱に考え続け、ふとした瞬間に燃料切れを起こしたように我に返り、ご飯を食べたり書き物をしたりする。
知らぬうちに燃料が切れていたのだろう。
リリーも、機械いじりに夢中になっているときは、そうなることもしばしばであったが、ただモノを考えるだけでそうなることは無かった。
「食べてえーよ?」
「いいんですか?」
「うん」
リリーは菓子が盛られた皿をシャムの前に移した。
シャムはパクパクと食べ始める。
その所作は、行儀が特別によかったり、気取っているわけでもないが、不思議と気品のようなものを感じさせた。
やはり、高貴な生まれがそうさせているのだろうか。
見ていると幸せな気分になった。
「おいしい?」
「はい、おいしいです」
(考えてみたら、私も卒業したら、こういうふうにおしゃれなカフェでお茶飲んだりできなくなるんやなぁ)
ふいにリリーは寂しい気分になった。
リリーの実家の周辺には、こんな美味しいお茶や、洒落た料理を出す店は、もちろん存在しない。
来る日も来る日も魚、獣肉、パン、漬物、チーズの繰り返しで、蜜を上手く使った甘味などは、望むべくもない。
「シャムは幸せもんやなぁ」
ふいにリリーはそういった。
思ったことがそのまま口からでてきていた。
シャムは幸せものだ。
「……? はい、幸せですけど?」
「うん」
リリーは、ユーリに似た黒髪をやわらかく撫でた。
「どうしたんですか?」
「いや、どうもせーへんよ」
「なんだか変ですね……」
「ユーリくんは私も連れてってくれるつもりなんかなぁ……」
誰に言うでもなく、リリーは一人つぶやいた。