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モヤモヤを抱えて今日も生きる。

とかくこの世は生きにくい。日々モヤモヤを抱えて生きています。モヤモヤジャンルは本・子育て・教育・映画・ニュース・社会などです。あなたに響けば幸いです。

解釈ひとつで「モノの見え方」はどうにでもなる

「悲観は気分、楽観は意志によるもの」

 

大学生の頃に出会ったアランの言葉です。

 

かなりの衝撃だったのを覚えています。


あなた次第でこの世界は素晴らしい場所になる』を読みました。

 

なんか、アランと通じるものがあると感じました。

 

あなた次第でこの世界は素晴らしい場所になる

 

「解釈ひとつで、世界は素晴らしいものになる」

 

これがこの本のコンセプト。

 

「どう認識するかで、現実の見え方がまったく変わります。あなたの「認識」こそあなたの「世界」そのものです。」(p.341)

 

「本来、世界は、中立で、真っ白なキャンバスとして存在しています。それを面白くするのは、あなたの「見方」なんです。」(p.12)

 

しかし、そうは言われてもねぇ〜

 

・・・なんて思っちゃうかもしれませんが、これはそんなにはずれてはいないかもしれませんよ。

 

いやいや、かなり当たってるかもです。

 

私たちって過ぎ去った過去を悔やんで、未来を心配している。

 

そんな生き物のような気がするときがあります。

 

何やってるんだ自分!!

 

この本には、「こんなときはこう解釈するという「ものの見方」や、どこにフォーカスすると人生がもっと面白くなるか、その視点の持ち方」(p.13)が書かれています。

 

しかも、それが「日常によくあるシーンに落とし込んで、70個(p.13)」も。


モノの見方って、そんなに簡単に変えられる?って、疑いの眼差しになっちゃうかもですが、

 

楽観は意思によるもの、なのですよ。

 

だから、こういうものの見方を身につけるのは、とても大事なことだと思います。

 

クヨクヨと起きてしまったことを後悔して落ち込むことが多かった昔の自分を、

 

ちょっとでも変えることができたのは、アランのおかげ。

 

この本を読んで、今改めてそう感じました。

 

 

思ったことを上手に自分の言葉で語りたい!

「これ、すごくない?」

 

「ヤバイでしょ?」

 

書店の棚にこの本がずらっと並べてある様を見て、ワタシが発していた言葉です。

 

この本とは『「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 』です。

 

「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない (ディスカヴァー携書)

 

特設コーナーもできていたりして、平積みでどっさり。

 

書店での並べようからして、売れ筋本だってことがわかります。

 

推しを語るときに「ヤバイ」しか出てこない。

 

こんな感じのことが本の表紙に書いてありました。

 

あっ!これってワタシじゃん!

 

かくしてワタシもこの本を手にすることになったわけです。

 

考えてみたら、一般の人が文章で多くの人に思いを伝えるなんてことは

 

一昔前には、なかったことですよね。

 

普通の人が文章で思いを伝えるなんて、手紙くらいでした。

 

だから文章の書き方も学校などで本気で教わったことがない。

 

思い出すのは、夏休みの宿題で読書感想文を書かされたことくらい。

 

それも、指導らしいことは何もなしに。

 

時代は変わって、今やSNSやブログなどで多くの人が文章で思いを語れる時代です。

 

だから多くの人がその技術を知りたいと思っているのかな。

 

この本が人気になるわけですね。

 

ワタシが最も共感したところは、

 

「他人の感想を見ないこと」というところ。

 

自分の感想を書く前に、他の人の感想が気になってつい見ちゃうけど、

 

それはやっちゃダメですって。

 

そんなことをすると、他人の言葉に影響されちゃうからだって。

 

もともと持っていた言葉も見失ってしまうから。

 

SNSで他人の感想を読む前にひと呼吸おいて、まずは自分の感想をメモしましょう」(p.68)

 

こんなふうに著者の三宅香帆さんがアドバイスします。

 

自分の感想をモヤモヤした状態のまま置いておくこと。

 

これを「ネガティブ・ケイパビリティ」と言うらしい。

 

「もやもやをじっくり抱えたままにすることで、あなたが本当に感じていることや、考えるべきことがわかってくるのです。」(p.69)

 

モヤモヤを抱えておくって大事なことなんですね、自分の言葉を見つけるためにも。

 

言葉はナイフに似ている。

 

自分のナイフで人を傷つけることもあれば、誰かの言葉で自分が傷つけられることもある。

 

必要以上に怖がらず、自分の言葉をつくる技術を磨きたいと思いました。

 

 

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「男の子なんだから、チンチンぐらい触られても・・・」

こんなこと、言ってませんか?

 

「男の子なんだから、チンチンぐらい触られても別に問題ないだろう」

 

いばらの道の男の子たちへ ジェンダーレス時代の男の子育児論』を読みました。

 

弁護士の太田啓子さんと男性学研究の第一人者である田中俊之さんの対談本です。

 

いばらの道の男の子たちへ ジェンダーレス時代の男の子育児論

 

女の子が性器を触られたら、大騒ぎですよね。

 

でも、性器を触られたのが男の子だったらどうでしょう?

 

同じ反応だったら良いのですが、男の子の性被害の深刻さが疎かにされていないか。

 

田中さんは言っています、「『男の子なんだから、チンチンぐらい触られても別に問題ないだろう』では済まされない話です。」(p.170)

 

「『男の子の性的プライバシーは、女の子より雑に扱っていい』という暗黙の空気が社会にはあるように感じていて、とても気になります。(p.171)」とは、太田さんです。

 

確かに、人々の認識も昔と比べるとずいぶん変わってきたような気がしますが、

 

男の子の性的プライバシーが尊重されているかというと、まだまだのような気がします。

 

この本は、そんなことをあれこれ考えるにはとっても良い本だと思います。

 

特に、男の子を育てるお母さんお父さんには必読ではないかと。

 

ワタシ自身の経験を振り返っても、「そういえば」ってことありました。

 

「男の子なんだからメソメソしないのっ!」って、親に言われた。

 

「しつこいなぁ〜、女みてぇに」って、友達に言われた。

 

高校時代には下品なゲームが流行ったのを覚えている。

 

休み時間に、狙いを定めた生け贄に集団で襲いかかってはがいじめにし、

 

ズボンもパンツも引きずり降ろして下半身を露わにするって遊び。

 

今、思い出してもゾッとします。

 

犠牲になる身には、尊厳も何もありません。

 

育つ過程で、「男らしくいる」ことを周囲から叩き込まれたような気がします。

 

こういうのを英語では「トキシック・マスキュリニティ」って言うらしい。

 

「自他を害する過剰な男らしさへの執着」と、男性学の第一人者・伊藤公雄先生が日本語で定義してるそうです。

 

過剰な男らしさへの執着は他人にも自分にも有害なんだそうです。

 

あとがきで、田中さんがこんなことをおっしゃっています。

 

「現代の日本社会は、女の子には協調、男の子には競争が求められる傾向があります。女の子は利他的でなければならないが、男の子は利己的でも良いとされていると言い換えることができるでしょう。(p.200)」

 

「女の子が人のためではなく自分のために『自分らしく生きていい』というメッセージは珍しいものではなくなりました。」

 

「しかし、その一方で、これからの未来において男の子たちはどうすればいいのかについてはほとんど議論がされていません。(p.201)」

 

これですよね、男の子については置いてきぼりです。

 

「男の子たちにもこれからの未来をどう生きるかについてのメッセージが必要です。」

 

どっちに向かえばいいのか?

 

大人が一緒に考えてやらなくちゃ!

 

大人の責任だと思いました。

 

 

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「子どもを生きる」ってどういうこと?

「子どもがまさに自分というものの感覚や自分の価値を育て始めるはずの時期に、(中略)子どもは世界中どこでも、次のような疑問に答えを出そうと必死なのです。」(引用p.116)

 

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方』に書いてありました。

 

その疑問とは・・・

 

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

 

「私は誰? 私はお母さんという人間の延長? お父さんの所有物? それとも別の人間?」

 

「私には価値がある? 私は愛されている? 私は好きになってもらえる?」

 

「私は何を考えて、何を感じている? 私が内心の不安を親に話したら、どんなことになる?」

 

「どんなときにノーと言っていいんだろう? それでも好きでいてもらえるためにはいつもイエスと言わなきゃダメ? だってもしも私を好きでいてくれなかったら、おまえなんか知らないよと言われてしまうだろうし、親に捨てられたらきっと私は生きていけない」

 

どうですか? 子どもってこんなふうに思ってるんですね。

 

自分でも子ども時代があったのですから、なんとなくわかるのですが・・・。

 

こうした核心的な問いかけが自己というものの感覚をつくる、と筆者:クラウディア・ブラックさんは説明します。

 

関わる大人の責任は重大ですね。

 

周囲の大人から否定的な答えを受け取ったら・・・

 

何の答えももらえなかったら・・・

 

そんな場合は「幼い理屈を総動員して答えを探り当てるしかなくなるのです。」

 

子どもにとってこれはシンドイですね。

 

「愛して慈しんでくれる母親や父親と出会った子どもは、大切にされた記憶を内面に取り込んで、それをもとにして自分自身に対する基本的な考え方や態度を形づくります。」(p.117)

 

では、そうでなかったらどうしたらいいのか?

 

「もしそれがないとしたら、今からこうした考え方や態度を自分で学んでいけばいいのです。(p.117)」

 

この本には、自分を支える環境であるインナーアダルトを育てる方法が書いてあります。

 

子育て中の人はもちろん、自分が生きにくさを抱えている大人にも、

 

すっごく役に立つ本だと思います。

 

 

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クセになる・・・『コーヒーが冷めないうちに』

「人生には分岐点がある。
だが、その分岐点が人生を大きく変えることを意識できる者は少ない。後から振り返ってみれば、あの日、あの瞬間が分岐点だったと気づくことがほとんどである。(引用 p.152)」

 

そうなんですよね、人生には遡りたいと思う分岐点がある。

 

できることなら、そこまで遡ってやり直したい。

 

そんな分岐点を誰だってひとつや2つ持ってますよね。

 

愛しさに気づかぬうちに』を読みました。

 

愛しさに気づかぬうちに

 

コーヒーが冷めないうちに」シリーズの第6弾です。

 

「世界500万部突破! ハリウッド映画化!」と、本の帯にありました。

 

みんな、こういうのが好きなんですね。

 

多くの人が同じような想いを持っているのかな?

 

過去に戻ってやり直したい!

 

でもね、この本に出てくる喫茶店

 

過去に戻れても、現実は変えられません。

 

それでも、もどりたいですか?

 

この本には、それでも戻りたいという過去を持つ人が登場します。

 

どのお話も、身につまされる。

 

切なくて、

 

温かくて、

 

ちょっぴり涙が。

 

シリーズが出るたびに手に取ってしまうのはそのせいなのでしょう。

 

そして思うのです、

 

一日一日を大事に生きよう!って、ね。

 

moyamoyaikiru.hatenablog.com

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どんな人でも勉強にハマれる!

「自分は勉強が苦手」と思い込んでるそこのあなた。あなたの頭が悪いんじゃないです。

 

これは、『私はこうして勉強にハマった』からの引用文です。

 

私はこうして勉強にハマった

 

書いているのはビリギャル本人のさやかさんです。

 

ビリギャル・・・

 

知ってますか?

 

さやかさんの恩師である坪田信貴さんが著した本『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話[文庫特別版] (角川文庫)』は、当時話題になりました。

 

本書はその、ビリギャル本人さやかさんが書いた、勉強をやる気にさせる本です。

 

「自分は頭が悪いから」

 

こんなふうに思っている若者って結構多いんですよね。

 

何を根拠にそんなことを言っているの?って聞きたくなります。

 

外からの評価に晒されて、自信を持てなくなっている若者のなんと多いこと!

 

冒頭のさやかさんの言葉は、そんな若者に聞いてほしい。

 

「あなたの頭が悪いんじゃないです。「がんばり方」を誰にも教えてもらったこともなければ、真剣に勉強をがんばって、納得できる成果を得た経験がないだけです。」(p.15)

 

そうなんですよね、ワタシも思います。

 

必要なのは、「やる気」と「やり方」。

 

さやかさんがラッキーだったのは、良いアドバイザーに出会えたことです。

 

本の冒頭で、恩師の坪田先生のこんな言葉がけが紹介されていますー

 

「君が『死ぬ気で何かをがんばって、これをやり遂げた』という経験をもっていること。それこそが、君の、一生の宝物になるよ。」(p.13)

 

この国の今の「受験環境」は決して望ましいものではありません。

 

でも、批判ばかりしていても仕方ない。

 

若者には上手に乗り切ってほしい。

 

やり切ったその経験は決して無駄にはならないです。

 

 

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差別はたいてい悪意のない人がする

このタイトルにはドキっとしました。

 

「私たちはあらゆる場で、みずからを善良な市民であり差別などしない人だと思い込んでいる「悪意なき差別主義者」に出会うことができる。」

 

ワタシも「悪意なき差別主義者」かもしれない。

 

いやいや、かもしれないじゃなくて、

 

しばしば、それと自覚しないで誰かを差別しているかもしれない。

 

いやいや、かもしれないじゃないって。

 

この本を読んで、思いました。

 

『差別はたいてい悪意のない人がする: 見えない排除に気づくための10章』です。

 

差別はたいてい悪意のない人がする: 見えない排除に気づくための10章

 

昨年、韓国で16万部を突破したベストセラー本です。

 

「悪意なき差別主義者」とは、自らを善良な市民であり差別などしない人だと思い込んでいる人。

 

「日本語、上手ですね」なんて、

 

日本語ネイティブじゃない人に向かって言ってるかもしれないです。

 

これが差別になるなんて思ってもいなかった、かも。

 

明らかな差別主義者なんかよりタチが悪いのかもしれません。

 

この本には、こんなあれこれを考えされられます。

 

「もうすっかり韓国人ですね」

 

「希望を持ってください」

 

これらはどうでしょうか?

 

「前者は国外から韓国に移り住んでいる移住者、後者は障害者に対する代表的な侮辱表現の例(p.7)」として本書にありました。

 

一見すると褒め言葉や励ましの言葉のように聞こえるこれらの言葉が、

 

どうして、聞き手にとっては侮蔑的に響くのか?

 

「私をとりまく言葉や考え方をひとつひとつ確認していく作業は、まるで世の中をあらためて学ぶような感覚があった。私は他人を差別していないという考えは勘違いであり、思い込みにすぎなかった。(p.9)」

 

「だれかに対して「真に平等」に接し、その人を尊重するのであれば、それは自分の無意識にまで目を向ける作業を経たうえでなければならない。いわば、自分が認めたくない恥ずかしい自分を発見することである。(p.9)」

 

これはキツイことだなあ、と思いました。

 

でも、こういうことを経た上でないと、私たちは希望の地に到達することはできないのだろう。

 

やることはわかったのだから、やらなければ。

 

 

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