「価値」なるものは無く、相違なる使用価値の関係が、もっと正確に言えば『差異のたわむれ』が根底にあるだけなのだ。
シンフィアン(意味するもの)=使用価値=等価形態(=貨幣)=差異
シンフィエ(意味されるもの)=価値=相対的価値形態(=商品)
人間が追いきれない、複雑な
使用価値(シンフィエ)と
使用価値(シンフィエ)との
差異のたわむれ
が価値形態だとすれば
その戯れを「すべて記録する」ブロックチェーンによって、差異が可視化され、剰余価値が生み出される瞬間を記録できていれば、ビザンチン問題の難問の一つの解となったビットコインのような実装をもって、貨幣の本質とその現象する不思議さを解明できるのではないか。と。
ふと思った。
非中心化。中央が無いのに統率が取れている。それがビットコインの特徴。
それは、古くは2月革命の時代から実社会への適用(実現)が望まれてきたものなのではないか。
ただ、その望まれてきた社会、つまり中心がない=無政府である社会はしかし、統率が取れないという意味ではない。
仮に政府がなくたって人は中心を作り出す。
中心は体系そのものに残っているから。
その「中心」を人に求めてしまうと、つまり「人治」になってしまうと、スターリンや北朝鮮みたいになるのではないか。
じゃあ、「人治」じゃなければいいのでは?
「中心のない」社会が維持される「仕組み」を作り出せればいいのでは?
それがビザンチン問題を解決したビットコイン(ブロックチェーン)の発想なんじゃないかと思う。
カネがほしい!と、それぞれの個人が、自分の利益を最大化しようとすればするほど(政府や中心がなくても)全体が維持されていく。その仕組みが社会に応用されれば、これ以上理想な状態はない。
しかし、その理想とされる形はつねに
時の権力によって危険視され弾圧されてきた。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」からも、その記述は見て取れる。
人々が自由に、それぞれが好きなように(自己の利益の最大化ばかりを目的に)動ける社会、それが資本主義だ。
同時に他人と他人の関係になってこその資本主義社会である。それだからこそ資本主義は発達する。
「秋深し 隣は何をする人ぞ」(松尾芭蕉 1694年)
この俳句は、日本に資本性社会が芽生えた時のその社会の変化を鋭く捉えた歌なのではないか?と思っている。
資本性社会になったということはつまり、共同体での限界を超えて「他人と他人で作る」社会に、つまり無縁の社会なったということだ。
無縁=他人と他人=「他人の時間を尊重し、自分とは別の時間軸で、他人が動く。それぞれが関係しながら動く」。だから資本主義は発達する。
他方で、その無限の欲望は、自然も、人自身も、社会も、壊していってしまう。斎藤幸平の指摘するとおりだ。
しかしそこに「コモンを復活」することは、本当にできるだろうか?
ハッキリ言って「人には無理」だと思う。
それを「人が」やろうとすると、結局スターリンや北朝鮮になってしまいそうで。
「人が」それをできると思っている時点で、人間の能力への過度の期待というか慢心があるような気がしてならない。
資本主義がここまで発達し、同時に世界を壊せたのは、誰か人間個人の能力ではない。陰謀や思惑でもない。それは資本主義という「仕組み」だからだったと思う。
だから、「コモン復活」は大賛成なのだが、それを人がやるんじゃなくて、それぞれの個人が身勝手に自己の利益を最大化しようと(マイニングみたいに)頑張る結果、全体の利益が最大化され、としてコモンが復活するような仕組み(ブロックチェーンの維持)を、社会に実現できればいいんだろうと思っている。
だからどうすりゃいいの?と言われても、分かんない。
んな簡単に答えられるなら、誰かやってる。
そんな一朝一夕ではないだろう。
しかし、何かやり方はあるはずだ。
一方向にしか挿さらない電源プラグのように
一度走り出したら自動的にコモンが再生され続ける(再生されざるを得ない)ような。
罪深き人々の尽きることのない強欲ゆえに、社会が健全に維持され続けるような、そんな逆説的(だが、真の意味で健全な)エネルギーの置き換え方法を、人間は考え出せると思う。そう信じたい。