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障がいを持つ子どもたちにスポーツを—ロービジョンフットサル選手・中澤朋希が「Refio」で実現したいこと(後編)

 「僕たちは障がいを持つ人もいれば、持たない人もいる団体。健常者だけ、障がい者だけで発信するよりも説得力のある発信ができると思う」。ロービジョンフットサル選手の中澤朋希さんは、Refio(リフィオ)で障がい者支援を行う意義をそう語る。農業の課題を解決すべく立ち上がった計画だったが、中澤さんがプロサッカー選手の多々良敦斗さん、久保田和音さんに自身の経験を伝えたことで、サッカーと農業を通じた障がい者支援、という活動の軸ができた。

 前編では多々良さん、久保田さんが今回の活動に挑む背景を追った。後編では、現役アスリートが障がいを持つ子どもたちに手を差し伸べる理由を、中澤さん自身の過去と経験から紐解く。

※前編はこちら

高2の冬、サッカー好きの少年は突然、視覚障がい者になった

 7年前の冬、当時高校2年生だった中澤さんは、教室で冬休み明けのテストを受けていた。残り時間を確認するため時計に目をやると、文字盤の数字がぼやけた。視力が低下したのだろう。コンタクトか眼鏡を買いに行こう。その時は、そう思うだけだった。

 しかし、その日から日に日に友達や家族の顔が見えなくなっていった。自転車通学の際には信号や車が見えづらくなった。異変を感じてから約3週間の間に、1.5あった視力は0.01まで低下。そして病院で、難病「レーベル遺伝性視神経炎症」と診断された。視力が落ちるだけでなく、眼鏡をかけても視界の中心が白く濁る。日常生活さえままならなくなった。両親は「自分たちのせいなのではないか」と大きなショックを受け、中澤さん自身も現実をすぐには受け入れることができなかった。

中澤さんの視界(イメージ)

 幼少期からサッカーが好きで、高校ではフットサルを楽しんでいた。ボールを蹴ることが当たり前の日常だったが、突然、その当たり前の行為ができなくなった。スポーツを支える仕事に就くことが将来の夢だったが、その夢も諦めざるを得なかった。「何をすればいいか分からなくなり、急に将来を見失ってしまった」。視覚障がい者となった17歳の少年は、絶望に打ちひしがれた。

「障がいと向き合うきっかけ」をくれたサッカーへの恩返し

 そんな中澤さんを絶望から救ったのもまた、サッカーだった。診断を受けてから間もなくした頃、日本代表が出場するキリンチャレンジカップをテレビで観戦。日本代表選手の姿ははっきりとは見えなかったが、ピッチ上の熱気が伝わり、「障がいを乗り越え、またサッカーができるようになりたい」との思いがふつふつと湧いてきた。そしてこの時、「障がいと向き合うきっかけとなったサッカーに恩返しをする」という新たな将来の夢を見つけた。

 それ以降、中澤さんは前を向き続けた。高校卒業後、視覚障がい者が通う大学に進学。そこでロービジョンフットサルという競技と出会った。ロービジョンフットサルは弱視者向けのフットサルで、パラリンピックの種目となっているブラインドサッカーとは異なり、アイマスクは着用せず、音の鳴らない通常のボールを用いる。「視覚障がい者でもサッカーができるんだ」と、最初は楽しみ半分で競技を始めた。

笑顔が印象的な中澤さん

 サッカーに恩返しをするため、まずは競技を極めることに努めた。18歳から日本代表入りを目指し、20歳の頃には日本代表強化指定選手に選出。スペイン、トルコでの国際大会に出場し、ゴールも決めた。大学卒業後も競技を続け、社会人になってすぐにクラブチームを設立。主将を務め、現在もボールを蹴る日々を送っている。「ロービジョンフットサルとの出会いがなかったら、自分は今ここにいないと思う」。暗闇に落ちかけていた人生が、180度変わった。

特別支援学校を訪問して見えた、障がい児の持つ2つの課題

 競技と並行して、サッカーを手段とした共生社会の実現を目指す活動にも力を入れてきた。SNSや講演を通じた競技の普及に努めるほか、特別支援学校などを訪問し、障がいを持つ子どもたちと一緒にサッカーをするイベントを定期的に開催。視覚障がい者だけでなく、知的障がいや肢体不自由の子どもたちとも触れ合った。「みんな本当にサッカーが好き。そこに障がいを持っている、持っていないは関係ない」と感じる一方、子どもたちがサッカーをする機会を十分に得られていない現状を知った。教育者や保護者が怪我のリスクを恐れて躊躇したり、いざ始めようとして少年団やチームに問い合わせても障がいを理由に断られたりするといった話を何度も耳にした。

イベントで子どもたちとともにボールを蹴る中澤さん(中央)

 また、障がいを持つ子どもたちには「コミュニケーション不足」という課題があることも浮き彫りになった。特別支援学校は一学年の人数が少なく、社会に出るまでに関わる人は一定のコミュニティに限られる。中澤さん自身も大学時代、盲学校から進学してきた同級生らと関わる中で、コミュニケーションを取るのが苦手な障がい者が多い現状を体感していた。

 「スポーツにおいても健常者と障がい者で分断されているのが今の世の中」。共生社会を実現することは簡単ではないが、中澤さんの目には展望が見えている。スポーツをする機会の提供と、コミュニケーション不足の解消。サッカー選手と一緒にボールを蹴ることや、農業を体験することが、その第一歩になると信じている。「障がいの有無や年齢性別関係なく、誰もが自分らしく輝ける場所をつくりたい」。多々良さん、久保田さんとともに、Refioで実現させるつもりだ。

それぞれの「苦悩と挫折」の先に―何度でも、誰もが挑戦できる社会へ

 大先輩の死、戦力外通告、難病の発症…。3人の「ボールを蹴られる日常」は、突然奪われた。それでも、それぞれの「苦悩と挫折」を糧にし、どん底から這い上がった3人だからこそ、同じ目標に向かって突き進むことができる。

ロービジョンフットサルに励む中澤さん(中央)

 多々良さん、久保田さんは障がい者やパラスポーツについてこれまで接したことがなかったが、中澤さんの話を聞き、「障がいについて僕たちが知らないからこそ、勝手に蓋をしてしまっている部分がある。障がい者と健常者の関わりを増やすことで少しずつ共生社会は作れるのではないか」(多々良さん)、「中澤君と出会って障がいを身近に感じ、僕も力になりたいと素直に思った」(久保田さん)とその思いに共感した。

 そして何より、3人には「サッカーに恩返しをする」という共通の目的がある。団体名のRefioはRe(再び、繰り返し)+desafio(挑戦)の造語。挑戦は何度でも、誰にでもできるし、サッカーはその手段になり得るはずだ。「アスリートだからできること」を突き詰め、活動の輪を広げていく。

(取材・文 川浪康太郎/写真提供 Refio)

読売新聞記者を経て2022年春からフリーに転身。東北のアマチュア野球を中心に取材している。福岡出身仙台在住。

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