日本で「セックスレス・カップル」の定義が生まれたのは1994年。目新しいパワーワードは数多くのメディアに取り上げられ、今や日本人の性生活を象徴する代名詞に"成長"した。今年6月には30年ぶりに定義が変更され、近年は他者に性的にひかれない「アセクシュアル」という性的指向により、パートナーとの性的関係を望まない人たちの存在も顕在化するように。「セックスレス」の生みの親であるあべメンタルクリニック(千葉県浦安市)院長の精神科医、阿部輝夫さん(80)は今、何を思うのだろう。
「1カ月」しなければ「3カ月後」もない
「性別に違和感がある」「性欲がわかない」「うまく射精ができない」――阿部さんは今もさまざまな性の悩みに耳を傾け、治療を行っている。だが、今からさかのぼること40年、1984年に順天堂大医学部付属浦安病院の精神科で、精神療法と行動療法を合わせた「セックス・セラピー外来」を立ち上げた頃は、多くが「未完成婚」の相談だった。
「結婚して子どもがほしいのに、2~3年たっても『性交ができない』という相談が相次ぎました。みな見合い結婚で、多くは男性に恋愛や性交経験がなく『失敗するのが怖い』と言う。男性に共通していたのは『一人っ子』や『人工哺乳』、『母親の過干渉』に『高学歴』といったものでした」(阿部さん。以下同)
あまりの相談の多さに浮かんだのが「セックスレス・カップル」という言葉。順天堂赴任前に米コーネル大精神科で研究員をしていた頃、「セックスレス・マリッジ」という言葉をよく耳にしていたのだ。
阿部さんは91年、所属する日本性科学会で「セックスレス・カップル」の定義を報告。討議を重ねた結果、94年、以下のように定義づけられた。
<特殊な事情が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアルコンタクトが1カ月以上なく、その後も長期にわたることが予想される場合>
「セックスというと性交だけを思い浮かべがちですが、定義には身体的な触れ合いや一緒に寝ることなども含まれています。また、セックスレスとは『夫婦間でしていないこと』を指すのであって、夫婦以外のケースは含みません」
だが、現実は「セックスレス・カップル」の「セックスレス」だけが独り歩きし、さまざまな使われ方をされてきた。毎月、性的な触れ合いはあるのに性交そのものがないだけで「セックスレス」と言ってみたり、あるいは特定の相手がいないのに単にセックスしていない状態を「セックスレス」と呼んでみたり――。誤用の氾濫に、提唱者として困惑はなかったのかと聞くも、「気にしていません。自由でいいんじゃないですか」。
それが30年を迎え、今年6月9日、同会は定義を次のように変更した。
<特殊な事情が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交やセクシュアルコンタクトいずれもが1カ月以上なく、その後も長期にわたることが予想される場合>
「大きくは『あるいは』を『いずれも』にしただけで、英語で言えば『or』が『and』になったということ。もともと『定義が分かりにくい』という声が多かったので、分かりやすい表現にしたまでで意味は変わっていません。むしろ『1カ月は早すぎるから3カ月にした方がいいのでは』という議論が交わされました」
そこで阿部さんは、改めて患者のカルテを調べてみた。すると、1カ月しないでいる人は3カ月たったら「する」わけではなく、3カ月たっても「しない」ままだった。症例数は変わらないのである。結果、1カ月の基準は変更の必要がないとなった。
性欲が強くても性交はNG――「性的回避」は発達障害だったのか
日本家族計画協会が、コンドームなどを扱うメーカー・ジェクス株式会社の依頼で実施している【ジェクス】ジャパン・セックスサーベイ2024年版(全国18~69歳の5029人調査)によると、セックスレスの夫婦は64・2%に達している。12年版(全国20~69歳の6961人調査)では30%台だったから、12年で倍増したことになる。
「『セックスレス・カップル』の定義をしてから数年は、『セックスレスをどうにかしたい』という夫婦からの相談が激増しました。言葉によって初めて自分の置かれた状態に気付いた方が多かった印象です」
ただ、全てが治療対象というわけではない。セックスレス・カップルには、一方あるいは双方が「したくてもできない」病気群と、お互いに「しなくてもいい」無病群とがあり、後者には治療の必要がないからだ。
問題は「したくてもできない」人たち。原因となる疾患には、どのようなものがあるのか。
①性嫌悪障害…女性は男性全般を嫌悪し、男性は妻だけを嫌悪する傾向がある。年月と共に妻を母親や妹、マスコットのようにみなし、性的対象から外す一方、妻以外だとセックスできるのが特徴。97年から男性の受診者が増えた。
②男性の勃起障害…心因性の場合、過去の失敗から「今夜はうまくいくだろうか」という予期不安が生じやすい。不妊治療中の妻にセックスする日を指定されることも原因になる。勃起障害を目の当たりにする女性にとってもダメージがあり、性嫌悪障害に移行することも。
③男性の膣(ちつ)内射精障害…手を使わない、あるいは強すぎるグリップなどによるマスターベーションのため、膣内で射精できないケース。97年から受診者が増えた。
④性欲低下障害…男性に多いが、近年は女性にも見られるようになった。過労やストレス、不安や怒りの持続などが主原因。性的な雰囲気を感じそうになると明日の仕事のことを考えるなどして、性欲のスイッチを無意識に切ってしまう「ターン・オフ」というメカニズムもある。
⑤女性の性交疼痛(とうつう)障害…多くは性嫌悪がなく、性欲もあるが、「膣はものが入るべきところではない」と考える傾向があり、婦人科の内診も困難な場合がある。
⑥性的回避…失敗や批判を恐れる「回避性パーソナリティー障害」(APD)が背景にある。前述した「未完成婚」のケースが該当する。
中でも①性嫌悪障害と⑥性的回避は混同されやすいが、表の通り、大きく異なっている。
「男性で言うと①性嫌悪群は妻とのセックスが減っていくのに対し、⑥性的回避群では、はなからありません。性欲が強く、マスターベーションを頻繁にしているにもかかわらず、セックスとなると断固NG。妻や身内に連れられて仕方なく受診するのです」
ただ、こうした性的回避群について、阿部さんは30年前の見立てを修正している。APDよりも自閉スペクトラム症(ASD)に近かったのではないかと考えるようになったのだ。ASDとはコミュニケーションが苦手で、特定のものに強いこだわりを持つ発達障害の一種である。
「近年、児童精神医学の分野でA…
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