はじめに:「芸術とは何か?」はなぜ難しいのか
多くの人は「芸術の本質は何か?」と問われれば、答えに詰まってしまう。たとえば「美しいものこそ芸術だ」「芸術には何らかの深遠な意図があるものだ」と語られることもある。だが、近年のソーシャリー・エンゲイジド・アートは美しさを第一目標にはしていないようであるし、デュシャンの《泉》やケージの《4分33秒》といったおなじみの芸術作品たちは、芸術の本質をずらすような作品として受容されてきたようだ。「これは芸術作品なのかどうなのか?」と人びとに疑問を誘うものは芸術の定義論における「ハードケース」だといえる。
ロペス(Dominc McIver Lopes)の『Beyond Art』は、こうしたハードケースをめぐる行き詰まりに対して、そもそも「芸術全般をひとまとめに定義しよう」とする発想自体が誤りなのだ、と提案する。ハードケース論争は、われわれが「芸術とは何か?」という問いに不必要な重荷を背負わせているがゆえに生じているのではないか。
本稿はロペスが説く「バック・パッシング理論」について自分のメモがてらまとめておく。ちなみに、ロペスの本書は、もうちょっと詳しい話をじっくりしているので、じっくり読んだほうがおもしろいだろう。
日本語での紹介には、以下のブログがある。
また、森功次「芸術的価値とは何か、そしてそれは必要なのか」『現代思想』45(21)(総特集:分 析哲学)、2017 年 が関連する議論を論じている。
「バック・ストッピング理論」の限界
ハードケースとは、デュシャンの《泉》(既製品の小便器に署名して展示)やウォーホルの《ブリロ・ボックス》(日用品の箱が並ぶだけ)、ケージの《4分33秒》(何も演奏しない沈黙の曲)など、「一目見ただけでは芸術かどうかわからない作品」を指す。
多くの美学理論、たとえば「作品には美的性質が必要だ」という伝統派や、「芸術は制度的文脈に属するものだ」という系譜派、はいずれも「何が芸術か」を定義してきたが、ハードケースをどう位置づけるかで問題が生じる。彼らは、何かの特徴をもって、打ち止めにして、芸術の定義を目指す。だが、どうもうまくいかないようだ。
このハードケース議論に加えて、私たちをさらに混乱させるのが。どのジャンルにも属さない「フリーエージェント」の可能性だ。音楽でも絵画でもない、けれど芸術として評価される作品が存在する可能性だ。
「バック・パッシング理論」
ロペスが打ち出すのが「バック・パッシング理論(Buck Passing Theory of Art)」である。これは「芸術とは何か?」という問い自体を不適切だとし、「個々の作品が属するジャンルこそが芸術性を決める」と考える。
x is a work of art=x is a work of K, where K is an art.
言い換えれば、
「Aが芸術作品なのは、Aが「音楽」や「詩」や「ダンス」など、既存もしくは新興のどこかの芸術ジャンルに属しているからだ。それ以上の普遍的定義づけは不要だ。
という立場だ。これを「バック・パッシング(責任を)」と呼ぶのは、「芸術一般の定義」によって作品を評価するのではなく、「それぞれのジャンルのルール」に放り投げてしまうからだ。
「鑑賞種(appreciative kind)」
ロペスは、各芸術ジャンルを理論化するなら、まず鑑賞種として捉えるのが有効だ、という。具体的には、あるジャンルに属する作品には、そのジャンル独自の「鑑賞基準」や「社会的・歴史的な評価の仕方」がある。たとえば陶芸なら「素材や作家性、美的意図などを踏まえた評価基準」があるし、音楽なら「音響やリズムへの感受性」が要になる。そうしたジャンル特有の評価の枠組みのなかで「この作品は上手い/下手」「面白い/退屈」といった判断が下される。
ロペスいわく、芸術ジャンルは大きく
- メディア・プロファイル(技術的リソース)
- 鑑賞種 Mを中心とした鑑賞実践(そのメディアの扱い方や評価ルール)
という2要素の組み合わせで成り立つ。絵画なら「キャンバスと絵具」と「それをどう鑑賞するかの歴史や社会的ルール」、音楽なら「音響技術」と「それを聴く・楽しむ文化的実践」のセットだ。
本当にフリーエージェントはないのか?
ロペスは「《泉》のような作品がどの既存ジャンルにも属さない純粋芸術なのだ」という主張に懐疑的だ。なぜなら、コンセプチュアル・アート(概念芸術)の先駆けと考えれば、《泉》は「社会的・制度的文脈やアイデア」を媒体とするジャンルの一部におさまるからである。《泉》にも実は「コンセプトに重きを置く芸術」というジャンル的文脈があった。そう考えると、デュシャンの挑発もまったくの孤立作品ではなく、歴史的経緯の延長にある。よって「フリーエージェントなどそうそう存在しない」とロペスは言う。
α-judgement
ロペスは作品価値をとらえる際、「単に知覚するだけでなく、背景知識や社会的文脈も含めた不可分の体験として判断が下される」と提唱する。これを「α-judgement」と呼ぶ。たとえば、デュシャンの《泉》の見た目を市販の小便器と比べても大差はない。けれど、《泉》を美術館で見る体験そのものには、歴史的挑発や制度批判の要素が入り込み、「市販の小便器を見る」のとはまったく異なる体験を呼び起こす。つまりどれほど見た目が同じでも、作品としての脈絡を伴えば、私たちの評価はまるで別物になる。ロペスが言うα-judgementは、「文脈と経験の総合的な見方」を示す概念である。
もし本当にどこにも属さない作品があるなら、それは芸術とは呼べないかもしれないし、まだ私たちが新たなジャンルとして認識していないだけかもしれない。
ロペスの議論は、「芸術とは何か?」という巨大な問いよりも、各ジャンルごとにどう評価され、どう歴史を築き、実践されてきたか、今実践されているかを精緻に調べるほうが、ずっと実りある分析につながることを強調する。
「音楽の即興性」「写真のドキュメンタリ性」「文学の物語性」など、研究では、芸術をまとめて扱うよりジャンル別にみたほうが自然だ。社会学や心理学でも、「音楽を聴くときの脳の働き」「写真を見るときの社会的リアクション」といった研究が行われうるように。こうした実践は、ロペスがいう「芸術ジャンルごとの理論」の有効性を裏付けるものだ。
ロペスのバック・パッシング理論がもたらすジャンル的転回
本書を通じて示されるのは、「芸術一般を定義する単一理論(buck stopping theory)」を追い求めるのは非生産的であり、芸術ジャンルごとの理論たち(theories of the arts) へと焦点を移すことこそが建設的だ、という主張である。これにより、次のような意義や成果が期待できるとまとめられる。
-
ハードケース(デュシャン、ケージなど)を各ジャンル理論で説明できる
前衛芸術に「芸術かどうか」に悩むのではなく、「新ジャンル(コンセプチュアル・アート、ノイズ・ミュージック等)への組み込み」という視点で処理可能になる。 -
実証的研究や批評活動において、ジャンルごとのアプローチがすでに機能している
音楽社会学、美術史、舞踊人類学、文学研究など、実際の学問領域は「芸術全般の定義」なしでも研究を進めている。バック・パッシング理論は、その方法論的基礎を改めて理論化する。 -
「芸術的価値」をめぐる混乱からの解放
「芸術に固有の価値」が存在するという神話を排して、美的価値+各ジャンル固有の評価基準の複合による説明が可能である。これは道徳的・認知的価値との関連性を整理するうえでも有効である。 -
自由エージェント問題の解消
「どのジャンルにも属さない芸術作品」は実態としてほぼ見当たらず、多くの場合は新旧いずれかのジャンルへ位置づきうる。これにより、バック・パッシング理論が理論的一貫性を保つ。
結果として、本書がもたらすのは、「What is art?」という問いをめぐる長き論争への一種の終焉だと言えようか。芸術全般の本質を一発定義するよりも、各芸術ジャンルの成立基盤(メディア、鑑賞実践、歴史的文脈)を丁寧に理論化するルートを開拓することこそ、21世紀の美学・芸術哲学において意義を持つはずだ。
おわりに
ロペスの『Beyond Art』の提案を「THE 芸術」の定義は諦めよう。あんまり意味はないし、とシンプルにまとめてもいいかもしれない。ハードケースをめぐる悪戦苦闘をロペスはたどりつつ、そもそも芸術の普遍的定義を見つけようとする野心が誤りだったかもしれない、と私たちに気づかせるものである。
重要なのは「新しいジャンルをどう位置づけ、どう評価するか?」という具体的探究であって、「芸術とは何か?」という巨大な定義を確定させることではない。前者にこそ、より生産的な道が開けている、というわけだ。
もちろん、この「バック・パッシング理論」が芸術をめぐる問題のすべてを魔法のように解決してくれるわけでもない。たとえば、「それなら本当にどのジャンルにも属さない新種の作品が出てきた場合は?」「既存ジャンルを拡張する基準はどう決めるのか?」など、新たな課題はいくらでもあるだろう。
それでも、「What is art?」の定義闘争を延々と続けるより、作品の生まれる文脈や鑑賞の実践にスポットを当てるほうが建設的だ、というビジョンが提案されている。
ロペスの議論は「大きな問い」に飲み込まれていた美学に対し、ジャンルから考え直そう、と別の視点を提示する。そこには、哲学や社会学、心理学など幅広い領域への応用が期待される余地がある。
私もロペスの考えにはなんとはなしに影響を受けており、でかい芸術の低議論をみると違和感を覚える考え方になってきたような気がする。