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ギバーに産まれて・テイカーに産まれて


ギバーとは共に産む考え方の人、テイカーとは取引の考え方の人である、という言説が流れてきた。それがギバーとテイカーの正しい定義なのかは疑わしい(そもそも正しい定義なんてものがあるぐらい厳密な言葉だったっけ?)が、個人的には、この分け方は実感を持って同意できるなあと感じたので、少し語ろうと思う。

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まずは定義への理解促進から。この定義において「テイカーはギバーから奪うことはできない。テイカーはより弱いテイカーから奪うことしかできない。」「そもそもテイカーはギバーを忌み嫌い、避ける。」という説明がされていたけど、想像つかない人には、まずこの点からして「どうして???」となるだろうなと思ったので解説したい。

これを理解するには、いわゆる「かなり田舎の密な集落」を想像するといいと思う。彼らは優しく、あなたに野菜をくれるであろう。だが、それを受け取るということは、あなたはそこの一員になることに同意したということである。一員になったからには、構成員を家族のように想い、しきたりに従い、人々・行事に労役を提供し、事にあたってはその身を持って任務を全うすることが求められる。熊を狩流ようなレベルから、他人の子供が溺れたら自分が死ぬのであっても泳ぎ助けるようなレベルまで。

このような集団を目の当たりにして、取引の価値観で生きてきた人はどう思うだろうか。最初の一つを受け取るのは、おそらく無料だ。その場では何も見返りを求められない。でも、テイカーはそんなもの怖くて受け取れないだろう。むしろ差し出す手を振り払って逃げるはずだ。
これが「テイカーはギバーを忌み嫌い、避ける」が意味する話である。なぜなら、彼らには共に与える集団は怖すぎるからだ。だからこそ、彼らは、より地力、経済力、社会的立場の弱い「取引の価値観で生きてきた人」をターゲットに、何かを交換するような「正当な取引」の形で搾取するしかない。

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自分は信じた人間には尽くすタイプだが、同時に、同じだけのことを求める。つまり、自分は常に相手を最上に扱い最善を尽くすが、相手もまた自分を最上に待遇し最善を尽くすものと思っているし、それを外れることは裏切りだという世界観で生きている。(もちろん、これは対等以上の特別な関係の人間(恋人や親親族)に対して求めるものであり、目下のもの(子供や部下)には一方的に尽くし与えるのがノブレスオブリージュだと思っているが。)

相当に器量が狭いかもしれないが、正直に言えば、自分は、身内の人間が性格の悪い人間であること自体、深い憤りを覚え激昂したくなる。なぜなら、それは身内を破壊する行為であるからだ。こんなこともあり、自分はこの定義でいうと与える人間だが、与える人間である自分は、与える人間しか選ばない。これは自分に限った話ではなく、この世のどこにおいても、与える人間は、与える人間しか選ばないと思う。(もちろん人間の行動は合理的ではないので、消極的理由や不本意、もっとシンプルに感情由来の理由などで、与える人間が取引する人間を選ぶこともあるだろうけど、それは申し訳ないけど、「不幸な巡り合わせ」なのだろう。哀れな話である。)

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もう一歩話を進めたい。では、この定義における与える人間と取引する人間はどのように生まれるのか?という点。与えるという行為は身を削ることであり、誰彼構わず差し出せることではない。それでも与える人間になれるのは、一つに「自分は与える人間を(理念、価値観によって)選べる」そしてもう一つに「自分は与えるに値しなくなった人間とは訣別できる」と疑いなく信じられるからだろう。これは、幼少期に無性の愛のもと強い精神的基盤を持って生まれ、善き人間と交流するなかで人間に対する信用を持って育ってこれた人間が自然となる姿なのだろうと思う。

一方で取引の考え方の人間は誰がなるのかというと、ここまでの議論で自然に理解できるだろうが、それ以外の人間だろう。それ以外の人間が、そのように「産まれ堕ちる」のだろう。

彼らの親から与えられた愛や友達から与えられた信用は、全て条件付きだったのだろう。無論、本当の意味での無条件なんてものはないと思うが、彼らのそれは、もっとわかりやすく、はっきりと条件付きだったのだろうと思う。

このような環境で育てば、人は自然と「取引の考え方」になる。そして、そのような人間は、自分自身がそのような人間であることそのものに強い劣等感や疎外感を抱いているので、真に強い、真の意味での「陽の者」とでも呼ぶべき「与える考え」の人間からは、まかりまちがっても奪うことができない。人的社会的資本で決して勝てない相手だから。(無論全く勝てないということはないかもしれないが、勝てたとしてもそれは人に言えないような手段だろうし、勝った後には人的社会的資本の差に基づく厳しい制裁が待っているであろう。)

だから、彼らと真正面に話すことすらできず、そこから逃げ、そして自分より弱い取引の考え方の人を手下におく。そうやって、いつまでも下水管を這いずり回っているネズミのように人生を過ごしていくのだろう。

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こんな話をすると、弱い人間から「じゃあどうすればいいんだ」という声を聞く。しかしこれは難しい。「あなたに責任があったわけではないし、生まれ育ちの環境さえ良ければこんな苦しみはなかっただろう。しかしあなたは自分自身を改めない限り永遠に苦しみ続ける。その上自分に向き合うこともまた心が血を流すような出来事だろう。死ぬ思いをして死ぬ気でがんばれ。」としか言えないから。

弱い人間は、自分の弱さの源泉に立ち向かうことを一番恐れる。だけど、ふたむかし前の公共工事の考え方じゃないが、「インフラ工事は早ければ早いほうがいい」。早まった分供用期間が伸びるからだ。インフラにおいてはこの考え方は疑わしい。更新なくしては想像されていたよりもずっとずっと「半永久」でもなんでもなかったからだ。ただ、人格改造はそうではない。人生の残り時間全てが供用期間になるから、早ければ早いほうがいい。早いほうが傷も浅い。だから、冷血な考え方かもしれないが、早急に死ぬ気で血を吐きながら頑張って違う人間になれ、としか言えない。