今日はパワハラだなんだという風当たりによって、「そうそう怒られなくなった時代の”弊害”」について、自分が実感したことを書いてみたいと思う。
僕は毎日、西野亮廣氏のブログを読むことをルーティンにしている。そして今日の記事の内容を読んだとき、背筋が凍るような、ゾクッとする感覚を抱いてしまった。
このブログでは、ZOOM会議で一切リアクションをしないヤツなんてのは、闊達なアイデアのやり取りを阻害するただの害悪で、いない方がマシだと指摘されていた。
発言しないのもそれはそれで良くないが、だからと言ってリアクションすら取らないのは論外だと、怒気さえ感じられる文体で、強く指摘されている。
それはリスクを取って発言してくれている人に中指を立てるような行為だと。会議の生産性が損なわれることを通り越して、人間の基本的な構えとしておかしいと。
それを読んで、僕はどこか日頃の様子を見られていて、そんな自分に対して言われているように感じ、本当に恐ろしいと思った。マジで叱られたかのように感じたのだ。
今日はその感情が消えないうちに、急ぎ記事としてまとめておきたい。
叱られなくなった”せいで”。
僕は正直、会議が嫌いだ。このことは何度も書いた気がする。だからZOOMでの会議中もご多分に漏れず、嫌な気持ちが顔に出てしまっている自覚が、薄っすらあった。
それでも自分に嘘をつくよりはましだと、今思えばふざけた論理で納得し、その態度を改善してこなかった。
しかしそれが、全体に迷惑をかけている可能性に、自分でも信じられないが、この記事を通じて初めて気づかされたのだ。物凄く反省している。
これに気づいた以上、独りで勝手に落ち込んでも仕方がない。反省したのなら、ちゃんと次回から意識的に改善するしかない。それ自体はもう受け入れて、納得している。
ただここで、一つ思い当たることがある。それは、こうした意味での叱責を直接受ける機会が、やはりとても少なくなっているということだ。
現在は些細なこともパワハラ扱いされるという風潮もあり、部下を叱ることで教育・研修することが難しくなっている(割に合わなくなっている)とされる。
このこと自体は西野さんのブログでも過去何度か指摘されていたが、実はある意味で格差を広げてしまう状況に他ならないそうだ。
豆腐メンタルが怒られないことを喜ぶ一方で、貪欲に成長したい若者が怒られないことに立腹している。高い志を持った人の集まりでは、そんなことが起きているらしい。
社会自体がぬるま湯になっている今、厳しい道を自分で作って突き進める者が、甘えん坊を遥か彼方に置いていく状況が発生しつつある。
もちろん、人格否定や八つ当たりのようなパワハラは論外だ。だが同時に、適切な指摘や叱責を受ける機会までもが激減しているのは、やはり問題だと思う。
叱られる機会がない以上、自分の言動を客観視して改めるためには、能動的なアクションが必要だ。思うに、経営者が書いた本を読むことは、一つのヒントになるだろう。
その著者が書いた内容を、自分への叱責として受け止める。ダメな例として出てくる人の言動を、自分がやっていないかを顧みる。
対面で叱られることに比べればはるかに薄味になってしまうが、そういう人がいるコミュニティに居ない以上は、疑似的な方法で再現していくしかない。
自分を振り返っても、僕は最近、叱られることが減ってきた。だがそれは、本当に良いことなのだろうか。僕は誤った方向に進んでいるのに、放置されているのではないか。
叱られなくなったことで、僕は今、何も得ていないように思えて仕方がない。今回の記事を読んで、そんな風に焦りを覚えている。
では今日はこの辺で。