松平忠名
松平 忠名(まつだいら ただあきら[4][1])は、江戸時代中期の大名。摂津国尼崎藩の第2代藩主。桜井松平家11代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳5年8月6日(1715年9月3日) |
死没 | 明和3年12月24日(1767年1月24日) |
改名 | 忠貞[1]→忠名 |
別名 | 亀三郎[1](幼名)、与七郎[1] |
神号 | 源忠名朝臣命[注釈 1] |
戒名 | 徳雲院寛誉仁岳道樹[3] |
墓所 | 東京都江東区の霊巌寺[3] |
官位 | 従五位下兵庫頭、遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 摂津尼崎藩主 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平忠喬、母:戸田忠真娘 |
兄弟 | 忠名、忠義、喜連川茂氏正室、雲鏡院、松平親純正室、秋江院、安部信平正室 |
妻 |
正室:宗義誠の娘 側室:久保氏、庄司氏、山下氏 |
子 |
加藤明堯、忠告、土井利厚、脇坂安弘正室、水野勝起正室、五百姫ら 養子:菅沼定用娘 |
略歴
編集桜井松平家の尼崎藩初代藩主・松平忠喬の次男として誕生。『寛政重修諸家譜』によれば正徳4年生まれ[5]。ただしこれは幕府に届け出た「公式」の誕生年であり(官年参照)、尼崎藩の資料では正徳5年(1715年)8月6日生まれ[6][注釈 2]。
兄の勝千代は早世しており[1]、享保11年(1726年)8月15日に尼崎藩の世嗣として将軍徳川吉宗に御目見した[5]。享保13年(1728年)12月21日、従五位下・兵庫頭に叙任[5]。
寛延4年(1751年)3月20日、父の隠居により家督を継承[5]。翌21日に遠江守に遷任[5](「遠江守」は忠喬が名乗っていた官名であり、忠喬は同日に石見守に改めている[1])。同年6月23日、はじめて領地に赴くための暇を賜う[5]。
幕命により、朝鮮通信使の接待役を務めている。
『寛政重修諸家譜』によれば明和3年(1766年)12月26日に江戸で死去[5]。尼崎藩の資料では12月24日とある[6][注釈 2]。52歳没[6](「公式年齢」では53歳没[5])。跡を3男・忠告が継いだ。
系譜
編集特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[5]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第五
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)