加藤明堯
加藤 明堯(かとう あきたか)は、近江水口藩の第4代藩主。水口藩加藤家8代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文5年8月23日(1740年10月13日) |
死没 | 天明5年8月10日(1785年9月13日) |
改名 | 松平忠徹(ただみち)[1]→加藤明堯 |
別名 | 仙菊、万助、主計、孫太郎[1] |
戒名 | 大光院殿釋宗演 |
墓所 | 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地 |
官位 | 能登守、伊勢守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 近江水口藩主 |
氏族 | 桜井松平家→加藤氏 |
父母 |
父:松平忠名、母:久保氏[1] 養父:加藤明煕 |
兄弟 | 明堯、松平忠告、土井利厚 他 |
妻 | 正室:加藤明煕の養女(加藤明経の娘) |
子 | 養子:明陳 |
生涯
編集元文5年(1740年)8月23日、摂津尼崎藩主・松平忠名の次男として江戸で生まれる。母は側室であり、寛保2年(1742年)に正室の子として松平忠告が生まれると、明堯は「庶子たるにより家督たらず」とされ、宝暦元年(1751年)4月19日に忠告が嫡子とされた[1][2]。
第5代藩主・加藤明煕の長男・幾之助が早世したため、明煕の養子となった。宝暦12年(1762年)12月18日、能登守に任官する。明和4年(1767年)に養父が死去したため、家督を継いだ。12月8日に伊勢守に遷任する。藩政では目安箱を設置するなどして、広く意見を求めた。
安永7年(1778年)5月6日に家督を養子の明陳に譲って隠居する。天明5年(1785年)8月10日に死去した。享年46。
系譜
編集父母
正室
養子