加藤泰儔
日本の江戸時代後期~明治時代初期の大名。伊予新谷藩6代藩主加藤泰賢長男で、新谷藩7代藩主。従五位下山城守・長門守
加藤 泰儔(かとう やすとも)は、江戸時代後期の大名。伊予国新谷藩7代藩主。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天明3年7月13日(1783年8月10日) |
死没 | 明治4年12月14日(1872年1月23日) |
改名 | 恒吉(幼名)、泰儔 |
戒名 | 儔霊神 |
墓所 | 愛媛県大洲市新谷の楓山 |
官位 | 従五位下山城守、長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 伊予新谷藩主 |
氏族 | 加藤氏(光泰系) |
父母 | 父:加藤泰賢 |
兄弟 | 泰儔、泰好、脇坂安能室 |
妻 | 正室:荒木氏 |
子 | 泰理、赤井為親室、菅良央室、加藤広宣室、加藤広宣養女 |
略歴
編集6代藩主・加藤泰賢の長男として誕生。
文化7年(1810年)3月10日、父の隠居で跡を継ぐ。藩財政再建のために、倹約や風紀の厳粛を徹底し、税制では定免制を採用した。天保2年(1831年)3月15日、長男の泰理に家督を譲って隠居した。