加藤泰賢
日本の江戸時代後期の大名。伊予新谷藩5代藩主加藤泰宦長男で、新谷藩6代藩主。従五位下出雲守。駿府加番を勤めた
加藤 泰賢(かとう やすまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。伊予国新谷藩6代藩主。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和4年4月22日(1767年5月19日) |
死没 | 文政13年10月21日(1830年12月5日) |
改名 | 覚十郎(幼名)、泰賢 |
戒名 | 観信院殿道源宗徹大居士 |
墓所 | 愛媛県大洲市新谷の法眼寺 |
官位 | 従五位下出雲守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 伊予新谷藩主 |
氏族 | 加藤氏(光泰系) |
父母 | 父:加藤泰宦、母:宣遊院(松平近貞の娘) |
兄弟 | 泰賢、泰由、大久保教富正室 |
妻 |
正室:恭心院(加藤泰衑の娘) 継室:琴(板倉勝矩の娘) 継々室:謡台院(鳥居忠求の娘) |
子 | 泰儔、泰好、脇坂安能室 |
略歴
編集5代藩主・加藤泰宦の長男として誕生。
明和8年(1771年)、父の死去で跡を継ぐ。天明3年(1783年)には藩校・求道軒を創設して藩士子弟の養育に努めたが、寛政12年(1800年)より駿府加番となったためにそのための出費、並びに藩内における災害で凶作が相次ぎ、藩財政が破綻寸前となった。このため、倹約を徹底し、さらに藩士の知行削減や御用銀の拠出を行なったが、文化6年(1809年)、本家に援助を要請する。そして、新谷藩は事実上、大洲藩の管理下に置かれることとなった。そしてこの責任を取る形で、文化7年(1810年)3月10日、長男の泰儔に家督を譲って隠居し、翌年3月18日には剃髪した。