加藤明陳
近江水口藩の第5代藩主
加藤 明陳(かとう あきのぶ)は、近江水口藩の第5代藩主。水口藩加藤家9代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦8年8月1日(1758年9月2日) |
死没 | 文化5年10月8日(1808年11月25日) |
改名 | 駒吉(幼名)→明陳 |
別名 | 孫太郎(通称) |
戒名 | 皆遵院殿釋宗徳 |
墓所 | 京都府京都市東山区五条坂の大谷墓地 |
官位 | 従五位下、能登守、佐渡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 近江水口藩主 |
氏族 | 加藤氏 |
父母 |
父:加藤明煕、母:大木氏 養父:加藤明堯 |
兄弟 | 姉(梅小路定福室)、姉(冷泉為栄室)、姉(松平直行室)、幾之助、明陳、明朝、明旨、煕峯 |
妻 |
正室:水野忠見の娘 継室:森忠興の娘 |
子 | 明允 |
生涯
編集宝暦8年(1758年)8月1日、第5代藩主・加藤明煕の次男として江戸で生まれる。明和6年(1769年)5月15日に第6代藩主・加藤明堯の養子となり、安永5年(1776年)12月16日に能登守に任官する。安永7年(1778年)5月6日、養父の隠居により家督を継いで第7代藩主となる。
安永9年(1780年)12月3日に佐渡守に遷任する。幕命により京都警護などを務めた。寛政11年(1799年)9月6日、長男の明允に家督を譲って隠居し、以後は病気の療養に努めたが、文化5年(1808年)10月8日に死去した。享年51。
系譜
編集父母
正室
側室
- 宮辻氏
子女
- 加藤明允(長男)生母は宮辻氏(側室)