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金剛智

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金剛智(奈良国立博物館所蔵『真言八祖像』のうち)

金剛智(こんごうち、: Vajrabodhi[1]671年 - 741年9月29日開元29年8月15日[2])は、音訳では跋日羅菩提といい、中国密教の祖師であり、開元三大士の一人である。訳経僧でもある。主に『金剛頂経』系の密教を伝えた。真言八祖の中では、「付法の八祖」で第五祖、「伝持の八祖」では第三祖とする。

生涯

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インド

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金剛智は、南インドの摩頼耶(マラヤ)国(現在のケーララ州のあたり)の人で、バラモン種の生まれである。10歳の時にナーランダ僧院に入り出家した。寂静智の下で文法学声明)を学んだ。15歳の時に西インドに遊方し、4年間かけて法称(ダルマキールティ)の論理学(因明)に関する著作を学び、ナーランダ僧院に戻った。20歳の時に具足戒を受けた。

その後6年間、大乗小乗の各種の戒律を学び、『般若灯論』『百論』『十二門論』等の論書をも学習した。28歳の時、カピラ城に向かい、勝賢論師に就いて『瑜伽師地論』『唯識論』『弁中辺論』を学んだ。

3年を経て31歳の時、南インドに向かい、龍樹菩薩の弟子である龍智に就いて、7年の間師事し、龍智の下で『金剛頂瑜伽経』『毘盧遮那総持陀羅尼法門』等の密教の経典を学んだ。また、各種の五明の論書をも学び、並に五部灌頂を受けた。顕密の奥旨に達した金剛智は、師父である龍智の元を辞して、中インドに戻った。

その後、南インドが大旱魃に陥った時、その国王の求めに応じて、金剛智は再び南インドを訪れ請雨を行なった。その後、国王は金剛智のために寺院を建立した。3年後、金剛智はスリランカに向かいアヌラーダプラで師子国(スリランカ)の王の厚遇を受けた後、仏歯や仏足石などの仏跡を巡拝した。戻った後、東方に向かう準備を始めた。

中国

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南インドの国王は使者を派遣して金剛智を護送させ、並に数多の経典や梵夾、数多の珍宝を携えさせた。海路よりスリランカ・ジャワ等、20余国を経て、艱難辛苦の果て、3年を経て、719年(開元7年)に、遂に広州に到達した。時の節度使は数百艘の船を派遣して出迎えた。

翌年(720年)の初め、東都洛陽に到達した。その後、両京で伝教につとめた。前後して大慈恩寺大薦福寺・資聖寺などの大寺で、或いは壇場を建立し、或いは経典を翻訳し、また、四衆を化導した。

741年(開元29年)、帰国を思い立ったが病いに倒れ、洛陽で没した。諡は大弘教三蔵。743年天宝2年)、西龍門に塔を建立した。

訳著

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  • 『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(即ち『瑜伽念誦法』)4卷
  • 『七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』(即ち『七倶胝陀羅尼』)1卷
  • 『曼殊室利五字心陀羅尼』1卷
  • 『観自在瑜伽法要』1卷
  • 『金剛頂経瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』1卷
  • 『千手千眼観世音菩薩大身咒本』1卷
  • 『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心』1卷
  • 『陀羅尼咒本』1卷
  • 『不動使者陀羅尼秘密法』1卷

法嗣

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脚注

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  1. ^ 小野塚幾澄「金剛智」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)」、小学館。
  2. ^ 『慧超傳考』(『大日本仏教全書 113: 遊方傳叢書 第1巻』(仏書刊行会、1915年)p.61)

関連項目

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参考文献

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  • 「東京大広福寺故金剛三蔵塔銘序」
  • 貞元新定釈教目録』巻14
  • 宋高僧伝』巻1
  • 岡崎密乗「金剛智三蔵伝記考」(『密宗学報』9,11)
  • 塚本俊孝「中国に於ける密教受容について:伝入期たる善無畏・金剛智・不空の時代」(『仏教文化研究』2、1952年)
  • 加藤精一「金剛智訳経典の仏身観」(『密教学』13,14、1977年)
  • 岩崎日出男「杜鴻漸撰述『金剛智三蔵和尚記』の逸文について」(『アジア文化の思想と儀礼:福井文雅博士古稀記念論集』、2005年)