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糸姫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

糸姫(いとひめ、元亀2年(1571年) - 正保2年6月20日[1]1645年8月11日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。蜂須賀正勝の娘。福岡藩初代藩主・黒田長政正室で、一女をもうけたが、離縁された[2]。この離縁により、黒田、蜂須賀両家は127年間にわたり不仲となり、享保12年(1727年)に和解した[3]

生涯

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元亀2年(1571年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家老・蜂須賀正勝(小六、彦右衛門)の次女として生まれた[1]。母は正勝の側室の白雲院(鳥井越中守の娘)[1]。異母兄姉に蜂須賀家政奈良姫賀島長昌正室)がいる。

天正12年(1584年)、秀吉は、家臣の中で正勝と双璧であった黒田孝高(官兵衛)の両家を縁組させようとして、糸を自らの養女として孝高の子・長政(吉兵衛)と結婚させた[4][5]。婚儀の当日、秀吉は自ら新婦・糸の手をとって大広間にお目見えさせて舅・孝高に渡す厚遇をした[4]。新郎の長政はこのとき17歳、新婦の糸は14歳だった。

慶長2年(1597年)、長政と糸の間に一女・菊が生まれた。菊は長じて黒田家家臣の井上之房の子・井上庸名(淡路守)に嫁いだ[4]

ところが、慶長5年(1600年)、長政が徳川家康に従って上杉征伐に行く際に糸は急に離縁された[4]。同年5月5日、家康は家臣・保科正直の娘・栄姫を自分の養女にして長政に嫁がせ、継室とさせた[6][8]

その後、糸は兄の領国の阿波国に戻り、しばらく徳島城の西の丸で暮らした[1]

正保2年(1645年)6月20日に死去。享年75[1]。戒名は寶珠院殿桃渓僊公尼大姉、墓所は桃渓山臨江寺[1]

関連作品

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 岡田 1876, p. 213.
  2. ^ 「大帰」とある[1]。嫁いだ女が離縁されて実家に帰ること。
  3. ^ 国立国会図書館. “ア)蜂須賀家と黒田家(福岡)が離縁などにより不仲だったという出典を知りたい。 ブログで、「江戸城内で...”. レファレンス協同データベース. 2023年10月23日閲覧。
  4. ^ a b c d 金子 1916, p. 170-171.
  5. ^ 須藤茂樹「黒田長政の妻」(『月刊歴史読本』2014年3月号[要ページ番号]・中経出版)
  6. ^ 堀田 1923, p. 206.
  7. ^ 堀田 1923, p. 208-209.
  8. ^ 黒田忠之黒田長興黒田高政はいずれも栄姫の子である[7]

参考文献

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