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新しき土

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新しき土
監督 アーノルド・ファンク
伊丹万作
脚本 アーノルド・ファンク
伊丹万作
製作総指揮 アーノルド・ファンク
出演者 原節子
小杉勇
早川雪洲
音楽 山田耕筰
撮影 リヒャルト・アングスト
配給 東和商事映画部
公開 日本の旗 1937年2月4日[注釈 1]
ナチス・ドイツの旗 1937年3月23日
上映時間 115分
製作国 日本の旗 日本
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
言語 日本語
ドイツ語
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映画の一シーン
大和邸でゲルダ(右、ルート・エヴェラー)に箸の使い方を教える光子(左、原節子)

新しき土』(あたらしきつち)は、1937年昭和12年)2月公開の日独合作映画[3]ドイツ語版のタイトルは『Die Tochter des Samurai』(『侍の娘』)である。

解説

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海外留学から帰国した青年を主人公に、彼と対立する家族や許嫁の葛藤、彼らを包む日本の地理や文化を、ドイツ人であるゲルダ・シュトルムの視点から描いた作品である。

新しき土とは満州のことを指しており、唐突なラストシーンも日本の満州進出を喧伝するものになっている。一方でこの映画の製作背景には、日本ドイツの政治的・軍事的接近の目論見があった[1]。ナチス党の人種主義では有色人種を良く思っていなかったため、ドイツ側は日本のイメージを持ち上げることで同盟の正当性を主張しようとしたのである。折りしも日独合作映画を企画していた川喜多長政とアーノルド・ファンクにドイツ政府が働きかけた結果、この映画の製作となった。

1936年2月8日の撮影隊の訪日には日独軍事協定締結交渉の秘密使命を戴したフリードリヒ・ハックが同行、同年11月25日に日独防共協定が締結に至った。1937年3月23日に公開されたドイツでは、国民啓蒙・宣伝省の通達によりヨーゼフ・ゲッベルスアドルフ・ヒトラーが自ら検閲して最終許可を与えたことが大々的に報じられた。ただし、ゲッベルスは日記で「日本の生活や考え方を知るのに良い」と評価する一方で、「我慢できないほど長い」と不満を述べている。

2012年4月7日より、75年ぶりに日本全国でリバイバル上映された。

ストーリー

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ドイツに留学していたエリート青年輝雄は、恋人であり記者でもあるゲルダを引きつれて日本に帰国する。しかし、輝雄には許婚の光子がいた。光子や義父である巌は彼を暖かく迎えるが、西洋文明に浸った輝雄は光子に愛情を向けるどころか、許婚を古い慣習として婚約を解消しようとする。そうした輝雄の姿勢を非難するゲルダ。絶望した光子は、花嫁衣装を手に浅間山に身を投げようとする。

キャスト

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スタッフ

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撮影

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ドイツ山岳映画の巨匠アーノルト・ファンクと日本伊丹万作の共同監督で制作が計画されたが、文化的背景の違いから両監督の対立となり、同タイトルでファンク版と伊丹版(日英版、114分)の2本のフィルムが撮影された[1]。現在、一般的に流通しているのは評価の高いファンク版のほうである。

監督以外のキャスト・スタッフも豪華で、国民的人気のあった撮影当時16歳の原節子[4]、日本を代表する国際スター早川雪洲、スタッフでは撮影協力に円谷英二、音楽に山田耕筰が名を連ねている[5]。円谷は、この作品において日本で初めて本格的なスクリーン・プロセス撮影が行なっている[3][6]

作中においては、山岳映画の監督らしく、日本の山々の美しい景色が映されている。一方で、東京市街を阪神電車が走っていたり、夜景のシーンは東京と大阪の夜景が混ざっていたり、日出子の勤め先が大阪の大阪紡績(現・東洋紡)だったり、光子の家の裏が厳島神社であるなど、地理感覚に乏しいシーンも多い。

なお。現在は廃線となった愛宕山鉄道が映っており貴重な記録となっている[要出典]

脚注

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注釈

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  1. ^ 書籍『円谷英二特撮世界』では、「2月3日」と記述している[1]が、それは、国際映画協会、国際文化振興会主催の帝国劇場で行われた試写会の日付。[2]

出典

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  1. ^ a b c 円谷英二特撮世界 2001, p. 16, 「初期作品紹介 1937-42年」
  2. ^ 東和商事合資会社社史. 東和商事合資会社. (1942-10-15). pp. 97-98 
  3. ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, p. 82, 「東宝特撮映画作品史 前史」
  4. ^ 「後日彼女は西洋人風の体躯と容貌をもった女優として日本で神話化されるが、ここではオリエンタリストとしてのファンクの夢を十全にかなえてくれる『典型的日本女性』として出現した。日本人はその後も、彼女をめぐるこの映像の矛盾につきあわされることになった。ともあれ原節子はファシストの美少女として、三〇年代後半から戦時中にかけて大きな活躍をした」(四方田犬彦『日本映画史110年』集英社新書 2014年p.97f)。
  5. ^ "新しき土". MOVIE WALKER PRESS. ムービーウォーカー. 2024年6月4日閲覧
  6. ^ 円谷英二特撮世界 2001, p. 14, 「円谷英二特撮作品初期総論」

参考文献

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外部リンク

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