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弘徽殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平安京内裏図
平安京内裏 弘徽殿跡碑
京都市上京区東神明町。

弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮七殿五舎のうちの一つ。転じて、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われる。後者で女御の場合は「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」とも呼ぶ。

概要

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清涼殿北側に位置する七間四面の建物で後宮で最も格の高い殿舎であった[1]皇后中宮女御などが居住した。

天徳4年(960年)の火災で焼失し、河内国司によって再建された[1]。しかし正暦5年(994年)と長保元年(999年)にも焼失している[1]。再建後、弘徽殿についての記録は13世紀前半まで残されており、内裏が廃絶されるまで存在したとされている[1]

登華殿と弘徽殿の間には切馬道(渡廊)があった[1]。発掘調査の雨落溝の位置から平安中期から平安後期にかけて建物の位置が北に移動していることがわかっている[1]

西庇は細殿と呼ばれる女房らの居室空間で、『源氏物語』では光源氏朧月夜がここで出逢ったことになっている。細殿は簀子がなく直に遣り戸から入れる構造になっており、清涼殿に出勤する男性官人の通路に面した弘徽殿や登華殿の細殿は男女の接点となる開放的な空間だった[2]

弘徽殿を賜っていたのが知られるのは、

物語では、『源氏物語』の桐壺帝の妃で朱雀帝の母后、「弘徽殿女御(大后)」が著名である。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 平安宮内裏跡・聚楽第跡”. 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所. 2021年11月8日閲覧。
  2. ^ ロイヤル・タイラー, 天野紀代子, スティーヴン・G.・ネルソン, 阿部真弓「シンポジウム 『源氏物語』の魅力」『日本文学誌要』第77巻、法政大学国文学会、2008年3月、2-33頁、ISSN 02877872NAID 120005479123