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山内和宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山内 和宏
福山ローズファイターズ 投手コーチ
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県浜名郡浜北町於呂(現:浜松市浜名区於呂)
生年月日 (1957-09-01) 1957年9月1日(67歳)
身長
体重
184 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1981年4月7日
最終出場 1992年6月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

山内 和宏(やまうち かずひろ、1957年9月1日 - )は、静岡県浜名郡浜北町於呂(現:浜松市浜名区於呂)出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

経歴

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父は遠州鉄道の元車掌(その後遠州鉄道経営のボウリング場の支配人、遠鉄ストアの店長を歴任[1]。和宏という名前は、その父が野球好きであったことから、生まれた当時毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の主力選手だった山内一弘と読みが同じになるように名付けられたという[1]。小学4年生の時からソフトボールを始め、中学で野球部に入部。この当時は内野手だった[1]が、浜名高校入学後の高校1年秋から投手に転向[1]

高校卒業後は野球を辞めようと思っていたが、父が店長を務めていた遠鉄ストアの納入業者の人の中に駒澤大学OBがいて、そのつながりから、当時駒澤大学硬式野球部監督の太田誠が浜松出身であることもあって誘われたことで野球を続けることとし[1]、高校卒業後は駒澤大学に進学。しかし大学1年生の夏に同じ野球部員で沼津市出身の同級生が寮から逃げ出し、戻ってくるように説得するつもりで追いかけ、沼津でその同級生と話し合ったが、山内自身も寮生活自体が苦痛で気が休まらなかったということから、一転して一緒に辞めることになり中退[1]。その後、フリーターをしながら、千葉商科大学に進学していた高校の野球部時代の同級生が入っていた「市川おはよう野球同盟」という組織に所属する草野球チームでプレーする生活を経て[1]、高校OBの勧めにより社会人野球リッカーに入団[1]

1980年には黒田真二と投の二本柱を組み、社会人野球日本選手権に出場。1回戦では黒田をリリーフし新日本製鐵堺に完封勝利。2回戦で先発するが打ち込まれ日本楽器に敗退した。同年の都市対抗にも東京ガスの補強選手として出場。2回戦で札幌トヨペットに敗退する[2]が、2試合で好投し各球団の評価を高める。

1980年、プロ野球ドラフト会議南海ホークスから1位指名を受け入団。エース格の山内新一、1年遅れで同期入団となった山内孝徳と共に「山内トリオ」として売り出され、背番号も連番だった(本人は18番、山内孝徳19番、山内新一20番)。

1981年は、防御率こそ高いが先発として5勝をマーク。

1982年は、バーニー・シュルツ投手コーチからチェンジアップを伝授され[3]、先発ローテーションに加わり11勝を挙げる。

1983年河村久文投手コーチからフォークを伝授され一気に投球の幅が広がり、この年は18勝を挙げて最多勝のタイトルに輝く。

1985年まで4年連続の2ケタ勝利投手となる。

1987年にも10勝を挙げて先発の柱として君臨した。しかし、その後は右腕の血行障害に悩まされるなどで成績が落ちていった。

1990年のシーズン途中に杉本正高島覚との交換トレード中日ドラゴンズへ移籍。

1992年に、来季の戦力構想から外れたことにより[4]現役を引退した。

引退後は妻の故郷である広島県福山市に居住し[4]マスターズリーグでも2002年から2003年と2年連続で最多勝タイトルに輝いた。

2008年現在は、同市にてビル管理会社経営の傍ら、中学生軟式野球クラブ「FUKUYAMA80」(福山エイティーズ)の代表兼監督として活躍している[5]

2017年5月3日、社会人野球クラブチーム福山ローズファイターズの投手コーチに就任[6]2024年時点ではコーチ業の傍ら、月1回浜松に戻って母校・浜名高校の野球部で指導を行っている[4]。同時期に南海に在籍していたチームメートの山内孝徳ともども口髭を生やしていた[7]

人物

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娘は宝塚歌劇団星組男役の暁千星である[8]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1981 南海
ダイエー
27 14 1 0 0 5 7 0 -- .417 434 96.1 109 17 50 4 1 57 1 1 75 69 6.47 1.65
1982 30 29 10 4 2 11 13 0 -- .458 892 223.1 185 22 75 0 5 96 1 0 82 78 3.15 1.16
1983 35 33 16 2 0 18 10 0 -- .643 1077 249.2 242 24 99 4 6 110 4 0 118 109 3.93 1.37
1984 32 32 12 1 1 12 12 0 -- .500 982 222.0 230 29 96 4 7 124 5 0 133 114 4.62 1.47
1985 29 26 5 0 0 11 11 0 -- .500 740 164.2 169 29 90 1 6 68 0 0 101 89 4.86 1.57
1986 28 25 6 0 0 8 15 0 -- .348 723 163.2 172 27 74 6 6 102 7 0 97 86 4.73 1.50
1987 31 29 13 2 3 10 11 0 -- .476 855 207.0 178 20 71 4 4 146 9 0 83 74 3.22 1.20
1988 29 26 9 0 0 8 15 0 -- .348 730 169.1 183 15 57 1 5 106 7 0 91 72 3.83 1.42
1989 32 17 1 0 0 9 9 1 -- .500 605 134.2 139 19 69 3 4 79 1 0 73 60 4.01 1.54
1990 17 2 0 0 0 0 4 0 -- .000 162 32.0 41 4 22 3 5 16 0 1 30 24 6.75 1.97
1990 中日 20 3 0 0 0 4 4 0 -- .500 185 42.2 40 2 22 2 2 33 1 0 23 22 4.64 1.45
'90計 37 5 0 0 0 4 8 0 -- .333 347 74.2 81 6 44 5 7 49 1 1 53 46 5.54 1.67
1991 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 14 2.0 7 0 1 0 0 2 0 0 4 3 13.50 4.00
1992 13 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 87 16.0 31 2 11 2 1 17 1 0 24 23 12.94 2.63
通算:12年 326 236 73 9 6 97 111 1 -- .466 7486 1723.1 1726 210 737 34 52 956 37 2 934 823 4.30 1.43
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

タイトル

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記録

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背番号

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  • 18 (1981年 - 1990年途中)
  • 46 (1990年途中 - 1992年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 週刊ベースボール 2024年9月2日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 山内和宏・1』(64頁 - 66頁)
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 山内和宏 “山内トリオ”の一角は低迷期ホークスのエース/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (2018年9月26日). 2023年12月14日閲覧。
  4. ^ a b c 週刊ベースボール 2024年9月16日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 山内和宏・3』(64頁 - 66頁)
  5. ^ チーム紹介”. FUKUYAMA80. 2011年10月7日閲覧。
  6. ^ 【お知らせ】コーチ2名選任いたしました。 - 2017年5月3日、福山ローズファイターズ
  7. ^ 澤宮優『記録より記憶に残る野球狂列伝』河出書房新書発行、2009年3月14日。ISBN 978-4309270760 
  8. ^ 村上久美子 (2017年11月23日). “バウ単独初主演 南海投手父の背に自ら重ね/暁千星”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/entertainment/column/takarazuka/news/201711230000395.html 2019年12月7日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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