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帰雲城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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帰雲城
岐阜県
推定地に建つ帰雲城趾の碑。背後に帰雲山の山体崩壊跡が見える。2010年(平成22年)撮影。
推定地に建つ帰雲城趾の碑。背後に帰雲山山体崩壊跡が見える。2010年(平成22年)撮影。
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 内ヶ島為氏
築城年 1462年
主な城主 内ヶ島氏理
廃城年 天正13年(1586年)11月11日
遺構 埋没
指定文化財 未指定
再建造物
位置 北緯36度12分36.2秒 東経136度53分34.2秒 / 北緯36.210056度 東経136.892833度 / 36.210056; 136.892833(推定地)
地図
帰雲城の位置(岐阜県内)
帰雲城
帰雲城
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帰雲城(かえりくもじょう、かえりぐもじょう、きうんじょう)は、岐阜県大野郡白川村三方崩山の下、保木脇(ほきわき)にあった日本の城[1]内ヶ島氏の居城であったが、1586年天正13年)の天正地震による山崩れで城と城下町が全て埋没した[2][1]

略史

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帰雲城は当地の武将である内ヶ島氏の居城であった。寛正年間(1461年 - 1466年)の1462年頃、内ヶ島為氏により築城された。

天正13年11月29日1585年1月18日)に天正地震が起き、帰雲山の崩壊で埋没。被害は埋没した家300戸以上、圧死者500人以上とされる[1][3]。当日城内で祝宴が行なわれており、難を逃れたのは所用のため不在だったわずか4人と言われる[4]。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡した。

立地

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城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っている。この一帯では過去に土砂崩れがあったことは地質調査で判明しているが、碑の下に帰雲城が埋まっていると確認されているわけではない。

現在にかけて、幾度となく埋没した城を位置を特定しようとする試みが行われている。1972年(昭和47年)には、郷土史家などの手により「白川帰雲城・発掘保存準備委員会」が発足。近隣の神岡鉱山(三井金属鉱業)の技術支援を得ることも検討されたが、特定には至らなかった[5]

1993年(平成5年)に発足した「白川郷埋没帰雲城調査会」は、江戸時代の地誌や古地図から帰雲川左岸のいずれかにあったと推定しており、2027年に試験的な発掘調査を予定している[6]

保木脇集落は帰雲城城下町の名残ではなく、庄川水系でのダム建設に伴う移転先として昭和30年代(1955-65年)に形成された。庄川近くで採石場を営む建設会社の社長の夢に帰雲城の武将が現れたとして、帰雲山の崩壊跡を望む地に武将を祀る観音像神社などを建て、地元住民も協力して公園化した[3]

貝塚御座所日記の記述

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本願寺門主顕如の側近で、当時大坂にいた宇野主水が記した「貝塚御座所日記」(宇野主水日記)[注釈 1]には、天正地震での各地の被害情報[注釈 2]が記されているが、帰雲城について以下の記述がある。

十一月廿九日夜四半時大地震、夫ヨリ十余日不止、折々地震。〔……中略……〕飛州ノ帰雲トママ在所ハ内島ト云フ奉公衆アル所也。地震ニテ山崩、山河多セカレテ、内島ノ在所ヘ大洪水ハセ入テ、内島一類地下ノ人々ニイタルマテ不残死タルナリ。他国ヘ行タル者四人ノコリテ泣々在所ヘ帰リタル由申訖。彼在所ハ悉淵ニナリタルナリ。〔……後略……〕[7]

他、『越中国名跡志』という史料にも同様の記述がある。

埋蔵金伝説

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内ヶ島氏の領内に金山があったことから、地震で帰雲城の崩壊とともに金が地中に埋まったとされる埋蔵金伝説がある。しかし、この埋蔵金伝説は古くから白川地域に伝わっていたわけではなく、実際は1970年(昭和45年)頃に内ヶ島氏の末裔を称した白川村出身の人物が喧伝した話を、『大阪日日新聞』などが紙面に掲載したところから拡散したものであるということが指摘されている[8]

なお、テレビ愛知は帰雲城の埋蔵金伝説を調査追求する番組『消えた戦国の城』シリーズを2019年から放送している。

  • 『消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!』(2019年12月28日)[9]
  • 『消えた戦国の城 弐ノ巻~黄金伝説 白川郷の秘めごと~』(2021年5月29日)[10]
  • 『消えた戦国の城 地下14メートルの指紋』(2022年5月28日)[11]

関連書籍

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研究書

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  • 岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 中世』(1969年発行)
  • 岐阜県編集発行『岐阜県史 通史編 近世 上』(1968年発行)
  • 岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世一』(1969年発行)
  • 岐阜県編集発行『岐阜県史 史料編 古代・中世四』(1973年発行)
  • 荘川村『荘川村史 上巻』(1975年発行)
  • 森本一雄『定本 飛騨の城』郷土出版社、1987年9月15日。doi:10.11501/13275238 
  • 白川村『新編 白川村史 上巻』(1998年発行)
  • 『歴史の足跡をたどる日本遺構の旅』- 「なるほど知図bookまっぷる選書」 (昭文社2007年刊。ISBN 9784398143051)
  • 加来耕三『消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理』メディアファクトリー、2011年。ISBN 978-4-8401-4344-8 

論文

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創作作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ この史料は「顕如上人貝塚御座所日記」という題名で紹介されることもある。「貝塚御座所日記」を含む宇野主水による記録の総称が『宇野主水日記』。「貝塚御座所」は顕如が拠点としていた貝塚御坊(願泉寺)を指しているが、天正13年8月末に顕如らは摂津中島(天満本願寺)へ移転しており、宇野主水も貝塚から中島(天満)に移動した。
  2. ^ 中略部分には京都の三十三間堂の仏像が600体あまり倒れたこと、宮中の内侍所が鳴動したため祈祷が行われていることなどが記されている。後略部分では近江・加賀・越前が大地震であったという総合情報と、これほどの地震は見聞きしたことがないという80歳あまりの老人の感想が記されている。

出典

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  1. ^ a b c 安達正雄「白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」「日本海域研究所報告」8号、1976年。 
  2. ^ 第四篇 年表」『飛騨史略』飛騨教育会、1894年、72頁。doi:10.11501/765266https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765266/43 
  3. ^ a b 幻の帰雲城”. 白川村役場 (2012年9月28日). 2024年11月14日閲覧。
  4. ^ 白川郷近くにあった幻の城「帰雲城」”. 朝日新聞 (2014年12月10日). 2014年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月14日閲覧。
  5. ^ 「日の目見るか地下の幻城」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月11日夕刊、3版、8面
  6. ^ 野田秀佳:400年不明「幻の帰雲城」◇豊臣時代の岐阜県飛騨、地震で一夜にして埋没◇”. 日本経済新聞 (2018年6月25日). 2024年11月14日閲覧。
  7. ^ 近藤瓶城編 編「第五十九 宇野主水記」『改定史籍集覧 第二十五冊』近藤出版部、1902年、467-468頁。doi:10.11501/1920418https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418/238 左端より次ページにかけての記述で転記にあたり読点を補った。
  8. ^ 森本一雄『定本 飛騨の城』郷土出版社、1987年9月15日、94頁。doi:10.11501/13275238 
  9. ^ 消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!”. テレビ愛知 (2019年12月28日). 2024年11月14日閲覧。
  10. ^ 消えた戦国の城 弐ノ巻~黄金伝説 白川郷の秘めごと~”. テレビ愛知 (2021年5月29日). 2024年11月14日閲覧。
  11. ^ 消えた戦国の城 地下14メートルの指紋!”. テレビ愛知 (2022年5月28日). 2024年11月14日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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