南船場
南船場 | |
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南船場4丁目(塩町通西端付近) | |
北緯34度40分34.77秒 東経135度30分16.2秒 / 北緯34.6763250度 東経135.504500度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 中央区 |
面積 | |
• 合計 | 0.403314501 km2 |
人口 | |
• 合計 | 3,955人 |
• 密度 | 9,800人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
542-0081[3] |
市外局番 | 06(大阪MA)[4] |
ナンバープレート | なにわ |
南船場(みなみせんば)は、大阪府大阪市中央区の町名および地域名。現行行政地名は南船場一丁目から南船場四丁目。
地理
[編集]現行住居表示の南船場は1丁目から4丁目まであり、東横堀川から堺筋までが1丁目、三休橋筋までが2丁目、御堂筋までが3丁目、西横堀川(現在は埋立。阪神高速1号環状線北行き)までが4丁目となる。
4丁目が高感度なショッピングエリアとなっており、ファッション誌などで「南船場」と紹介される場合は通常4丁目を指す。元々は繊維問屋街として発展したが、産業構造の変化で衰退しつつあった1990年代前半、オーガニックビルなどいくつかの新しい建築が話題を集め、デザイナーなどが集まり出した。1990年代後半より4丁目には心斎橋やアメリカ村などから店舗が移転、さらに20歳代後半以上向けの高級衣料店やカフェ、レストランが次第に集まり始め、高感度な地区として認識されるようになった。さらに御堂筋や長堀通沿いに海外の高級ブランドの路面店が集まり、南船場はその地位を確立した。
2000年前後に若者向け商業地区となった点で、堀江などと共通する点はあるが、堀江が当初東京のセレクトショップなど大阪外部の店舗が集まったのに対し、南船場は大阪の地元資本による衣料やカフェなどの出店が目立つこと、また堀江にはない高級ブランド店の存在など、堀江に比べて客層の年齢がやや高いことが挙げられる。
心斎橋筋が縦断する3丁目は、心斎橋筋北商店街、丼池筋商店街のように旧来の格安の衣料店や衣料問屋などが主体であるが、御堂筋や長堀通に面して高級ブランド店が立ち並び、レストランやギャラリーなども増えつつある。2丁目・1丁目は、目覚ましく発展した4丁目・3丁目に続く発展エリアとして注目され、カフェやプライベート施設が隠れるように多数存在している。
河川
[編集]歴史
[編集]本来の南船場は、船場のうち本町通以南(本町を含む)を指す。江戸時代の大坂三郷では南組に属した。
明治に入り三郷から四大組に改編された際、船場は当初全て東大組に属したが、1870年(明治3年)に順慶町通以南(初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目を含む)の所属が南大組に変更された。以降は南区時代を通じて境界変更はなく、1982年(昭和57年)に南区が「南船場」の住居表示を実施したこともあって、近現代では順慶町通以南を指す場合が多い。
順慶町通以南の南船場では、1872年(明治5年)に以下の町名に改編された。
- 順慶町通4 - 1丁目 ← 初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目
- 安堂寺橋通4 - 1丁目 ← 北勘四郎町・安堂寺町5 - 1丁目
- 塩町通4 - 1丁目 ← 南勘四郎町・車町・塩町4 - 1丁目
- 末吉橋通4 - 1丁目 ← 長堀平右衛門町(西横堀川以東かつ長堀川以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町
- 横堀7丁目 ← 五幸町
1982年(昭和57年)に南船場の町名に改称されたのちも、各通りの名称として使用されており、末吉橋通は現在は埋め立てられた長堀川跡まで拡幅されて長堀通となっている。
順慶町
[編集]順慶町通は筒井順慶の屋敷があったことに由来し、江戸時代には新町遊廓へ至る新町橋が架けられ夜市で賑わった。『摂津名所図会大成』巻之十三には「当所の夕市は浪花の一奇観として四時とも絶ゆることなし黄昏時より内店出舗万燈をてらし己が種々に品を飾りてこれを商ふ」と記されている。心斎橋の賑わいもこの順慶町の夜店と関係をもっていたもので、江戸時代の心斎橋筋の中心はこの心斎橋筋と順慶町との交叉する辺りであった[5]。
安堂寺町
[編集]安堂寺町の称は
大阪市中央公会堂を建てた岩本栄之助は安堂寺橋通2丁目(109番屋敷)で生まれ、帝塚山学院高等女学校を開校した山本藤助は安堂寺橋通1丁目10番地に住んでいた[6]。
塩町
[編集]塩町通には砂糖問屋が多く、1925年(大正14年)には大阪砂糖取引所が設置された。
塩町通3丁目の内である旧車町にはかつて御堂があり、弘法大師の作という薬師仏を祀って難波薬師または蘆間薬師と呼んだ。蘆間池のあった所であるが、堂は他に移り池は明治7年(1874年)に埋められた。池は一名丼池といったとも伝える。蘆間池は古歌にも見えている勝区であり、芦池小学校の名もこれに由来する。
この辺りは割合に静な所で、船場とはいいながら、忙しいことそれ自体を生命とするような問屋の町ではなかった[7]。
他、大阪音楽大学を創立した永井幸次は当町で音楽学校を開いていた[8]。
末吉橋通
[編集]平野郷町の豪商末吉孫左衛門は御朱印船貿易や銀座頭役として活躍した家柄である。末吉橋西詰角屋敷がその旧邸で、末吉孫左衛門町の名はそれに由来した。末吉橋は孫左衛門が在邸中通行人の便をはかって架設したものである。元は孫左衛門橋と呼んだが、後に末吉橋と呼ぶようになった。
末吉橋西詰より鰻谷東の町に通ずる長堀川に架している安綿橋は総年寄の安井九兵衛と綿屋某が道路の便のために架けたものという[9]。
心斎橋
[編集]心斎橋は江戸時代初期に山城伏見の岡田心斎が、長堀川が掘られた時に架けたと伝えるが確かではない。これは、元来「心斎町」に由来するのではないかといわれる。
安永9年(1780年)、大阪市中の町橋135橋を大きさによって6級に分類したときには、心斎橋は第3級として、317橋の中にあげられていた。しかし、なんといっても心斎橋筋という繁華街に架かっているため、著しく著名な橋になってきた。なお、心斎町というのは長堀心斎町と江戸時代にはいったもので、これは後の心斎橋筋とは異なる。長堀の北側と南側の心斎橋と三休橋の間、つまり鰻谷の浜側と北側の長堀橋通の中この北と南の二カ町が心斎町である。
明治5年(1872年)、心斎橋は新たに市内最初の吊鉄橋として架かった。この鉄橋は名所絵の好題材となった。明治42年(1909年)には現在の石橋に架けかえられ、大阪最初の石造橋として喧伝された。新しい心斎橋には瓦斯灯がついており、気品のある瓦斯の灯が水におち、華美な広告燈の裡に超然とした気品を示していた[10]。
世帯数と人口
[編集]2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
南船場一丁目 | 1,902世帯 | 2,652人 |
南船場二丁目 | 694世帯 | 891人 |
南船場三丁目 | 174世帯 | 215人 |
南船場四丁目 | 146世帯 | 197人 |
計 | 2,916世帯 | 3,955人 |
人口の変遷
[編集]国勢調査による人口の推移。
1995年(平成7年) | 1,487人 | [11] | |
2000年(平成12年) | 1,838人 | [12] | |
2005年(平成17年) | 2,252人 | [13] | |
2010年(平成22年) | 2,677人 | [14] | |
2015年(平成27年) | 3,559人 | [15] |
世帯数の変遷
[編集]国勢調査による世帯数の推移。
1995年(平成7年) | 808世帯 | [11] | |
2000年(平成12年) | 1,092世帯 | [12] | |
2005年(平成17年) | 1,592世帯 | [13] | |
2010年(平成22年) | 1,821世帯 | [14] | |
2015年(平成27年) | 2,539世帯 | [15] |
事業所
[編集]2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[16]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
南船場一丁目 | 613事業所 | 11,351人 |
南船場二丁目 | 768事業所 | 12,205人 |
南船場三丁目 | 758事業所 | 10,277人 |
南船場四丁目 | 845事業所 | 11,065人 |
計 | 2,984事業所 | 44,898人 |
施設
[編集]史跡
[編集]- 橋本宗吉絲漢堂跡
- 大阪書籍館跡
- 渥美高等家政女学校跡
交通
[編集]鉄道
[編集]道路
[編集]その他
[編集]日本郵便
[編集]ギャラリー
[編集]-
原田産業株式会社大阪本社ビル
-
大阪農林会館
-
堺筋倶楽部(旧:川崎貯蓄銀行大阪支店)
-
末吉橋
-
長堀橋跡記念碑
-
『順慶町通一~四丁目』旧町名継承碑
-
『安堂寺橋通一~四丁目』旧町名継承碑
-
『塩町通一~四丁目』旧町名継承碑
-
『末吉橋通一~四丁目』旧町名継承碑
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 宮本又次『船場』ミネルヴァ書房(風土記大阪第1集)1960年
脚注
[編集]- ^ “大阪府大阪市中央区の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2019年10月4日閲覧。
- ^ a b “住民基本台帳人口・外国人人口”. 大阪市 (2019年7月26日). 2019年10月4日閲覧。
- ^ a b “南船場の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 宮本(1960年)、405頁
- ^ 宮本(1960)、417-426頁
- ^ 宮本(1960)、426-427頁
- ^ 前川佳子、近江晴子『船場大阪を語りつぐ ―明治大正昭和の大阪人、ことばと暮らし―』和泉書院、2016年、61-62頁
- ^ 宮本(1960)、428-429頁
- ^ 宮本(1960)、429-434頁
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ “平成28年経済センサス-活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。