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丹波敬三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丹波敬三

丹波 敬三(たんば けいぞう、1854年2月25日嘉永7年1月28日) - 1927年昭和2年)10月19日)は、明治大正期の薬学者摂津国八部郡走水村(現・兵庫県神戸市)出身。蘭方医丹波元礼の三男。丹波直次丹波哲郎丹波明の祖父。丹波義隆の曾祖父。先祖は丹波康頼丹波氏)。そして直系である丹波家がその末裔。姪の子に大野龍太

経歴

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東京大学製薬学科(現在の薬学部)第一期の卒業生で、ドイツエアランゲン大学に自費留学して衛生学裁判化学を学ぶ[1]1887年(明治20年)に帰国後、改組されて東京帝国大学医科大学薬学科となった母校の教授となり、梅毒治療薬「サルバルサン」を研究し、これを国産化。「タンバルサン」と命名し、国内で販売すると共に、薬事法の概要の制定に携わる[2]など、日本の近代薬学の基礎を築いた。1912年(明治45年)、第5代日本薬剤師会会長となる。1917年(大正6年)、東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)校長となり、同年勲一等瑞宝章受章。1927年(昭和2年)に死去し、多磨霊園に葬られる[3]

日本における裁判化学の草分けでもあり、帰国後東京帝国大学で裁判化学を教えたほか、野口男三郎事件では被害者の内臓の毒物を調べ、裁判化学の有効性を証明した[4][5]

栄典

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脚注

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  1. ^ 1884年(明治17年)の留学生のメンバーは森林太郎片山国嘉丹波敬三長與稱吉田中正平宮崎道三郎隈川宗雄萩原三圭穂積八束飯盛挺造、の10名、鴎外がこの10名を日東十客ノ歌を書いている。(鴎外留学始末、1999年、5項)
  2. ^ 実際にこの法が施行されたのは1960年(昭和35年)からである。
  3. ^ 丹波敬三”. www6.plala.or.jp. 2024年12月1日閲覧。
  4. ^ 丹波敬三, 石津利作, 「野口男三郎強盗殺人官印僞造行使並ニ各謀殺被告事件被害者野口一太郎死因鑑定書」『藥學雜誌』 (289), 255-267, 1906-03-26, NAID 110003664364
  5. ^ NHK総合「ファミリーヒストリー 丹波義隆 ~父・哲郎の素顔 1000年を超える歴史~」2015年9月4日放送
  6. ^ 『官報』第2597号、「叙任及辞令」1892年3月1日。
  7. ^ 『官報』第3824号、「叙任及辞令」1896年4月1日。
  8. ^ 『官報』第4196号、「叙任及辞令」1897年6月29日。
  9. ^ 『官報』第4448号、「叙任及辞令」1898年5月2日。
  10. ^ 『官報』第4562号、「叙任及辞令」1898年9月12日。
  11. ^ 『官報』第4792号、「叙任及辞令」1899年6月23日。
  12. ^ 『官報』第5243号、「叙任及辞令」1900年12月21日。
  13. ^ 『官報』第5929号、「叙任及辞令」1903年4月11日。
  14. ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
  15. ^ 『官報』第7495号、「叙任及辞令」1908年6月22日。
  16. ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。
  17. ^ 『官報』第311号、「叙任及辞令」1913年8月12日。
  18. ^ 『官報』第1620号、「叙任及辞令」1917年12月25日。
  19. ^ 『官報』第1657号、「叙任及辞令」1918年2月13日。
先代
下山順一郎
日本薬剤師会会長
第5代:1912年 - 1914年
次代
丹羽藤吉郎