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大輪藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2024年12月3日 (火) 03:51; ミサワ守 (会話 | 投稿記録) による版 (歴代藩主)(日時は個人設定で未設定ならUTC

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大輪藩(おおわはん)は、下総国岡田郡豊田郡[注釈 1])大輪村(現在の茨城県常総市大輪町)を居所として、江戸時代前期に存在した[3]。1658年、土井利勝の五男・土井利直が1万石の大名となる。1677年、利直死後に所領が半減され、土井家は旗本となった。

歴史

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大輪藩の位置(茨城県内)
水戸
水戸
土浦
土浦
古河
古河
大輪
大輪
関連地図(茨城県)[注釈 2]

前史

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土井利直は、江戸幕府初期の老中として有名な土井利勝(下総古河藩16万石の藩主)の五男として、寛永14年(1637年)に[注釈 3]生まれた[1]。寛永18年(1641年)に5歳で徳川家光御目見し、徳川家綱に近侍した[1]

寛永21年(1644年)7月10日、土井利勝が死去した。同年9月1日、嫡男の土井利隆が古河藩13万5000石を相続するとともに、三男の土井利長・四男の土井利房にそれぞれ1万石[注釈 4]、五男の土井利直に5000石が分知された[6]

古河藩主となった利隆は家臣と対立し、家老大野仁兵衛が諌死するなどの事態を引き起こした[7]。慶安4年(1651年)、利隆は表向きに病気と称し、実質的な隠居状態に置かれた(主君押込[7]。以後8年間、公式行事においては利直が利隆の名代を務めた[7]

立藩

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万治元年(1658年)9月7日、利隆は公式に隠居し[注釈 5]、その子の利重が古河藩を継いだ[6]。この際、古河藩の領地から利直に5000石が分知された[1]。これにより利直は常陸国河内郡下野国足利郡武蔵国埼玉郡、下総国岡田郡葛飾郡を領する1万石の大名となって、岡田郡大輪村[注釈 1]を居所とした[1]

同年閏12月に詰衆となり、従五位下・信濃守に叙任された[1]。寛文4年(1664年)に領知朱印状を発給され(寛文印知[1]、寛文6年(1666年)にはじめて領地に赴く暇を与えられた(参勤交代[1]

利直は延宝4年(1676年)7月26日に奏者番に就任する[1]。しかし、翌延宝5年(1677年)3月15日に41歳で死去した[1]

廃藩とその後

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寛政重修諸家譜』によれば、利直には実子として3男1女があったが、長男と次男は早世し、三男は病気の上に幼少であった[1]。このため利直は死に臨んで、兄・利房の次男の利良(4歳)を養嗣子として迎え、家督を相続させることを願い出た[1]末期養子参照)。しかし、一族にも相談せずに申請が行われたことは不適切(「麁忽の作法」)とされ[注釈 6]、本来ならば所領没収相当であるところ、利勝の功績を考慮し、所領半減の上での相続が認められた[1]。利良は、武蔵国埼玉郡、下総国岡田郡・葛飾郡、下野国足利郡の4郡で5000石を知行する旗本となり[1]、大輪藩は廃藩となった。大輪村は土井家と幕府の相給となり、土井家は幕末まで一部の領主であった[2]

利直の系統は大身旗本家として存続した[1]。宗家を継いだ土井利延土井利里(利延の実弟)は、この家の出身である。

歴代藩主

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土井家

譜代。1万石。

  1. 利直(としなお)

領地

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分布

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寛文印知留によれば、領知分布は以下の通り[3]

大輪

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大輪は中世から村落として存在したという[8]。「元三大師」の別名で知られる当地の安楽寺は、大生郷おおのごう天満宮別当寺として創建された寺で、天正年間(1573年 - 1591年)に多賀谷氏によって現在地に再建された[9]。江戸時代初期、江戸の鬼門除けとして天海僧正が良源(元三大師)を安楽寺に勧請したと伝えられる[9]。安楽寺が地域における天台宗の有力寺院となったことには、土井利勝の働きもあったとされる[9]

大輪陣屋は、常総市大輪町の茨城県道123号土浦坂東線沿い、鬼怒川右岸の微高地に位置した[10][注釈 7]。大輪村には陣屋の置かれた行政中心地としての性格は残されず、農村に帰した[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』には「岡田郡大輪村」とある[1]。大輪村は貞享年間(1684年 - 1688年)までは豊田郡所属で、その後岡田郡所属となった[2]
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ^ 没年・享年からの逆算。
  4. ^ いずれも下野国足利郡内[4][5]
  5. ^ この年、利隆は40歳であった[7]。武家社会の慣行として、40歳は病気による隠居が許容されるようになる年齢であり、利隆が40歳になるまで公式の隠居届を遅らせることで、問題が先鋭化しないよう取り計らったものと見なされる[7]
  6. ^ 『水海道市史』では、養子縁組を一族間の私事と解して幕府の裁許を得なかったことが咎められたとする[8]
  7. ^ 『角川日本地名大辞典』によれば、大輪村に陣屋があった[2]。奈良考古学研究所の文化財総覧WebGISでは、大輪陣屋の所在地を「常総市大生郷町883ほか」とするが[11]、図示された地点は大輪町の域内にあたる。大生郷町(近世の大生郷村)は大輪町の西に隣接する。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.618
  2. ^ a b c 大輪村(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年10月29日閲覧。
  3. ^ a b 大輪藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年10月29日閲覧。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.614
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十八「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.616
  6. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十七「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.610
  7. ^ a b c d e 福田千鶴 1998, p. 23.
  8. ^ a b c 上巻>第四編>第二章>第一節 近世村落の成立>大花羽地区”. 水海道市史. 2024年10月29日閲覧。
  9. ^ a b c 天台宗別格本山 正覺山 蓮前院 安樂寺 沿革”. 天台宗 別格本山 元三大師 安樂寺. 2024年10月29日閲覧。
  10. ^ 大輪藩-土井利勝の五男 利直”. 古河史楽会. 2024年10月29日閲覧。
  11. ^ 451225-大輪陣屋跡”. 文化財総覧WebGIS. 奈良考古学研究所. 2024年10月29日閲覧。

参考文献

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