アレクサンドロスは、小アジアから、エジプト、ペルシアへと無敵の強さで進軍し、次々と征服していった。
しかし、征服と支配が必ずしも軍事的独裁を意味するわけではないことに気づいていたようだ。征服された人々の自由をできるだけ認めるという方針があったのである。進軍中、主要都市の近くには守備隊を駐留させたが、もともとの支配者をその地位にとどめて権力をゆだねることもしばしばだった。
〈征服した人々をそれなりに自由にしておくこと、それは彼が身につけた教訓であり、哲学であるとも言えるものであった。ペルシア帝国内を行軍するのであるから、敵地内の進軍であるのだ。それにともなう難儀な事態がふりかかってくることは目に見えているではないか。〉(『辺境の王朝と英雄』p.96)
遠征に学者を随行、研究を奨励
こうした教訓や統治の哲学を、若き大王はどこで身につけたのか? じつは、ペルシア帝国もまた、服属民に安定した生活とともに、いささかの「自由」を享受させることも忘れなかったから、必ずしもアレクサンドロスの独創というわけではないようだ。
本書の著者・本村氏は、父のフィリポス2世が宮廷に招いたある家庭教師の存在も大きかったとみている。古代ギリシアの哲人で「万学の祖」と仰がれるアリストテレスである。軍事に長けた父王は、当時13歳の王子に先進の学問で英才教育を施したかったのだろう。
アリストテレスはアレクサンドロスに「敵を粗末にするな」と教え、「いつの日かかつての敵たちの助けが必要になるかもしれないことがあると肝に銘じておきなさい」と忠告していたという。
しかし一方で、「ギリシア人に対しては友に接するように、アジアの異民族に対しては動植物を扱うように」と教えたとも伝えられている。今日の感覚からすれば、人種差別もはなはだしいが、「善く生きるための共同体」としてのポリスを理想の人間社会と考える当時のギリシア人にとっては、むしろ常識だったのだろう。
〈マケドニア王となってからのアレクサンドロスの政治活動に目をやれば、この大先生の薫陶からさしたる影響を受けたとは思えないというのが、大方の議論になっているらしい。たしかに直接の思想的影響は心もとないほどかもしれないが、間接的あるいは潜在的におよぼしたものは見過ごせないのではないだろうか。なにしろ、少年は今風にいえば、中学生の頃であるのだから、仰ぎみる大哲人の言動がどのような印象を与えていたかは想像を超えるものがある。〉(同書p.72)
じっさい、アレクサンドロスは終生にわたって学問や文化を愛してやまなかった。自然科学に並々ならぬ関心をもち、東方遠征に多くの学者たちを随行させ、彼らに遠征先の自然風土や動植物を研究することを奨励しているのは、恩師の影響としか考えられない。
ペルシア帝国を滅ぼし、インダス川に到達した後、アレクサンドロスは疲れ果てた兵たちを率いていったんメソポタミアのバビロンに引き返した。しかし前323年6月、そこで突然の熱病に襲われ、発病から10日目に息を引き取った。
後継者についての遺言はなく、まもなく広大な領土をめぐって「後継者戦争」が始まる。そしてマケドニア、シリア、エジプトにギリシア人の王朝が並立するが、この3国を「ヘレニズム3国」と呼び、マケドニアのギリシア支配から、アレクサンドロスの大帝国を経て、エジプトのプトレマイオス朝が滅亡する紀元前30年までの約300年間を「ヘレニズム時代」という。
〈世界史におけるアレクサンドロスの足跡は、やはり「ヘレニズム」とよばれる世界を現出させたという点できわだっていたのではないだろうか。本人が意図していたり自覚していたりしたかどうかは別として、世界史上の最初のグローバル世界であったことはまぎれもない。東方遠征という企てが、ヨーロッパとアジアをかき回し融合させる土壌をもたらすことになったのである。〉(同書p.147)
では、この「ヘレニズム」とはどのような文明世界だったのだろうか。
※続きは〈アフガンで発見された謎の「左足の断片」。見過ごされてきた文明は、人類最初のグローバリズムだった!〉をぜひお読みください!