6.日本ではBSJってどうなんだろう?
『ブルシット・ジョブ』を読んで、ひとつ気づかされるのは、はたからみれば労働条件がきわめて良好であったとしても、自分の仕事が「ブルシット」であることにおびただしい人たちが心を傷めていることである。本書は、そんな意味のない仕事に打ちのめされる人々の精神の記録でもある。
このような人々の反応に、訳者はひとつ救いをみいだすのだがどうだろうか。
もちろん、その反応は文化によってさまざまだろう。
日本では、そもそも「世間」の承認を超え、それを批評できるような価値意識があるのだろうか? どんなブルシットでも、世間から承認されていれば、それで満足してできるひとが多いのではないだろうか?
訳者にはなんともいえない。たとえば、そもそもBSJ論への反応が、諸外国に比較して遅かったのもその兆候かもしれない。
おなじようなことは中国でも感じられたらしく、ある中国の労働運動をテーマとしたウェブマガジンからのインタビューで、インタビュアーは、「中国の人びとの多数にとって、犠牲を払って家族を養うことは、より広い社会的利益に貢献することと同じくらい重要なことである」として、それをどうおもうか、グレーバーにたずねている。
グレーバーの応答は、「子どもたちに快適さや機会を確保する唯一の方法が、1日に100回も穴を掘って埋めることだと知って、それによって少しもおかしくならない人は、世界にはいないとおもいます」。
おそらく、そうした人間の感情は、日本の労働環境にあってもさして変わらないはずだ。本書を読めば、日本に特殊とおもわれている、仕事自体に人間の意味をおきすぎているために、苦痛であればあるほど仕事に意味があるとみなされる「倒錯」が、欧米にも共通していることがわかるだろう。
もちろん、そのような普遍的次元を想定したうえでもさらに、日本の産業構造や雇用慣行に由来する、BSJやそれへの応答の独特の様相はあるだろう。それは、これから議論の必要なところである。
少なくとも、すでに訳者は、日本独特の会議文化、リモートワークにおいて激化した印鑑をめぐる矛盾と悲喜劇、そこにもあらわれる独特の空疎な儀礼的慣行のおびただしさ、人間関係のヒエラルキーを確認するだけの無意味な儀式と官僚制的儀式のからみあい、といったテーマで、「日本版BSJへの嘆き」とでもいうべきメールをもらったりしている。